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キング牧師の闘いの始まり


▲ローザ・パークスとキング牧師

 マーティンの父キングは、勇気と威厳のある牧師でした。マーティンは「この社会で、どれほど長く生きるかなど、どうでもいいことだ。絶対にこのまま差別を認めるつもりはない。死ぬまで闘い続けるよ。」と語った父の言葉を忘れたことはありませんでした。マーティンは普通より3年も早い15歳で大学に入学するほど優秀で、ソローの奴隷廃止論やマハトマ・ガンディーの非暴力の教えに強い影響を受けました。

 このマーティンこそが、あのマーティン・ルーサー・キング・ジュニアという名の牧師です。1963年の「ワシントン大行進」で「私には夢がある」という有名な演説を行ったアメリカ公民権運動の指導者です。

 1929年1月15日マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、アメリカのジョージア州アトランタで生まれました。父はマーティン・ルーサー・キング、母はアルバータです。彼の両親はアフリカ系アメリカ人(黒人)で、父はバプテスト派教会の牧師でした。

 5歳までのキング・ジュニアは、隣の白人家族の兄弟と、大の仲良しで、いつも一緒に遊んでいました。
 しかし、小学校に入学すると、そこに白人は一人もいませんでした。白人は白人の小学校、黒人は黒人の小学校に分けられていたのです。
久しぶりにキング・ジュニアが、友だちの家を訪ねると、出てきた母親が「白人と黒人はもう一緒に遊んじゃいけないのよ」といいました。これが、キング・ジュニアが初めて直面した黒人差別だったのです。
 家に帰って悔しくて泣いている息子に母アルバータは、「規則だから仕方がないの。でもね、マーティン。自分が白人に劣るなんて考えてはだめ。誇りを持って、頭をあげて歩くのよ」と勇気づけました。
 ある日、母と買い物に出かけると、見知らぬ白人女性がつかつかと寄ってきて「黒人のちび!私の足をふんだわね!」と平手打ちされました。まったくの言いがかりでしたが、母もマーティンも反論することすら許されなかったのです。

 そんな差別の中で育ったマーティンですが、教会ではいつも牧師の父や祖父から、キリスト教の教えを聞いて育ちました。キング・ジュニアは、そんな教会が大好きで、母のピアノに合わせて美しい声で賛美歌を歌いました。
1942年に高校に入学。弁論大会で優勝するほど優秀でしたが、下校途中のバスで、白人から席を譲れと強制され、その不条理に激しい憤りを覚えたのです。

 父は、教会の牧師をしながらNAACP(有色人種地位向上協会)の指導者として社会運動をしていました。そんな尊敬する父を見ながら、自分も差別され虐げられている黒人たちの地位向上のために尽くしたいと、成績がずばぬけて良かった彼は、15歳でモアハウス大学に合格したのです。大学では白人の友人もでき、楽しい学生生活を送っていました。
 ところが夏休み、彼らと一緒にアルバイトをすると、白人と同じように働いているのに、給料は白人の半分にも満たなかったのです。そうした現実のなかで、仲の良かった友人たちとは、お互い気まずくなり、彼の心は深く傷ついたのです。このとき彼は差別が黒人だけでなく白人の心も傷つけるものだと痛感しました。

 マーティンは将来、法律家か聖職者の、どちらになるか迷いましたが、父と同じ聖職者の道を選ぶことに決めました。1947年20歳で牧師の資格をとり、翌1948年に卒業後、さらにペンシルバニア州のクローザー神学校に入学。ここで、マハトマ・ガンディーの思想に出会ったのも束の間、翌1949年そのガンディーが暗殺されたというニュースが世界を駆け巡りました。多くの人が非暴力主義によって差別と闘ったこの偉大な人物の死を悼みました。
 その年のクリスマス、インドでアメリカのハワード大学学長のジョンソン博士の呼びかけで、宗派を超えて34カ国から集まった人々による「世界平和者会議」が開かれました。博士は、ガンディーが非暴力をもって差別と闘った、その尊い意志を引き継いで、自分たちもまた非暴力によって、この国を分断している人種差別と闘うべきではないかと訴えました。
 この会議に出席したマーティンは、強く共鳴しました。そして彼はイエスの「右の頬を打たれたら左をも差し出しなさい」「迫害する者を呪わずに祝福してあげなさい」という教えと、ガンディーの信念がとても似ていることに気付いたのです。「そうだ。私は、聖書が教える愛をもってこの悲しむべき差別と闘おう」と決意しました。
 その後マーティンは、ボストン大学に在学中、ニューイングランド音楽院の学生であったコレッタ・スコット(Coretta Scott)と知り合って、1953年に結婚することになります。
 そして、1951年神学校を卒業し、さらにボストン大学大学院で神学部の博士号を取得しました。ボストン大学在学中のある日、マーティンが飲食店に入った際、黒人であることを理由に白人の店員が注文を取りに来ないという出来事がありました。ボストンのあるアメリカ北部では、このような行為は州法で禁じられていたため、店員は人種差別で即座に逮捕されたのです。南部出身で人種差別に慣らされていたマーティンは、この出来事に、むしろとても驚き、法の力を強く認識しました。

 1954年にマーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、アラバマ州モンゴメリーの教会の牧師に就任することができました。「キング牧師」として、アメリカ南部のこの地に赴いたことが彼の人生を大きく変えていくのです。彼は赴任してすぐに、有色人種地位向上協会の地元支部に属し、差別撤回運動を展開する準備を整えていました。
 モンゴメリーの街は、人口の4割が黒人でした。黒人に許される仕事はわずかしかなく、男性は日雇いの雑役か肉体労働、女性は白人の家のメイドぐらいだったため、黒人家庭の多くはとても貧しかったのです。白人のほとんどは車を持っていましたが、黒人は車を持てず、バスの乗客のほとんどが黒人でした。しかしこのバスでさえ白人が優先され、白人ならどのドアからも自由に出入りでき、広々とした前の席に座れました。しかし、黒人は後ろの窮屈な黒人用の席しか許されませんでした。しかも、黒人用の席も、黒人の高齢者、幼児、妊婦、身体に障がいがあるなどの弱者でさえ、白人が座りたいと言えば、すぐに席を譲らなければならないと法律で決められていたのです。

 1955年8月、北部のシカゴから来た14歳の黒人少年エメット・ティルが、南部のミシシッピで白人女性に口笛を吹いたというだけで、その夫や友人たちに誘拐され、リンチを受け、目をえぐられたうえに、体を切断されるという残虐な事件が起きました。エメットの母は事実を知らしめるために棺の蓋をせずに葬儀を行いました。
 黒人たちは激しく怒り、「(合衆国)連邦政府は黒人の権利を保障せよ」と運動しますが、裁判所も白人たちの陪審員も全く無視するという有様で、白人の犯人たちは殺人を犯したにもかかわらず無罪となったのです。

 ある日、キング牧師の所に、クローデット・コルビンという女子高生が泣きながらやってきました。バスがすごく混んでいたので、後ろの黒人用の席まで行けず、しかたなく白人用の席に座ったところ、運転手と他の白人が一緒になって、彼女をしばりあげ、警察に突き出されたと言います。彼女は1週間も刑務所に入れられていたのです。どうして黒人というだけでこんな差別を受けなければならないのか。彼女は泣きながら訴えました。キング牧師が所属しているNAACPには、このような訴えが日々寄せられていました。

▲ローザ・パークス


 1955年11月1日の夕暮れのことでした。アメリカのモンゴメリーに住むローザ・パークスは、デパート勤務の仕事を終え、クリーブランド行きの市営バスに乗りました。重い食料品を抱えたローザは、黒人用の座席の空いている席に腰をおろしました。次の停留所のエンパイヤ劇場前で何人か乗り込んでくると、白人用の席はいっぱいになり、1人の白人男性が立つことになりました。すると運転手はローザらに向かって「白人に席を譲れ!」と命令したのです。他の3人の黒人は言われるままに席を立ちましたが、ローザ・パークスは動きませんでした。
 バスの運転手はローザを脅迫しますが、彼女は穏やかに、そしてきっぱりと「ノー」と言い切ったのです。運転手は警察を呼び、彼女は逮捕されました。ローザは後に「逮捕された時、これからは様々な困難に直面すると思いました。しかし、どんなことでも戦っていこうと覚悟しました。絶対に妥協しないと決意したのです。これ以上我慢しないということを差別する人間たちに思い知らせる時だと思ったのです。」と当時を述懐しています。

 12月5日にローザはアラバマ州のバス人種隔離法にもとづいて裁判にかけられることになりました。当時、この法律による差別の撤廃を目指していた女性政治会議や有色人種地位向上協会などの団体の人々は、このことを35000枚のチラシを配って知らせるとともに、次の月曜日の朝に、モンゴメリーの黒人が一斉にバスに乗車することを拒否し、この裁判に抗議することを訴えました。

 この地に赴任したばかりのキング牧師を含む40人以上の牧師や指導者も参加して集会が開かれ、このバスボイコット運動を支持するか、そして次の日以降、この運動をどう展開するか、長い議論が続きました。キング牧師は訴えました。「今夜、われわれがここに集まったのは、これまで長い間差別され、侮辱され、虐待されてきたことにもはや耐えられないということを、身をもって示すためであります。民主主義の栄光の一つは、権利のために抗議することです。・・・バスには乗らないことにしましょう。当然のことが水のように流れ出し、正義が大きな川となるまで、私たちは歩くことにしましょう。」
 そしてバスボイコットを「決行」することが決まりましたが、「黒人たちがいつも通りバスに乗って通勤したらどうしよう。」誰も確信を持てませんでした。

 翌日の朝、キング牧師も不安を抱きながら、窓から外を眺めました。すると、そこを空っぽのバスが通り過ぎるのを見て、彼の不安は喜びに変わりました。バスには一人の黒人も乗ってはいませんでした。しかし、彼は同時に慎重でもありました。これは自分の家の周りだけのことではないかと思い、車で街の様子を見に出かけました。それまでバスを利用していた20000人もの黒人が皆、歩いて通勤しているではありませんか。ラッシュアワーのころには、歩く黒人たちで道路はいっぱいになったのです。

▲モンゴメリーを歩いて通勤する黒人たち


 さらなる運動の展開のためのリーダーに選ばれたのが、キング牧師でした。彼は人々の士気を高めると同時に、彼らの積年の思いを晴らしたいという熱気が憎悪となって暴走しないようコントロールする必要性を感じていました。
 彼の演説は、暴力の否定と同時に、同じアメリカ国民として不正と戦うことを求めるものでした。出勤、買い物、登校、その他どこへ行くにもバスには乗らないことを決めました。こうしてボイコット運動は382日間も続けられ、黒人たちは、来る日も来る日も歩き続けました。
 次第にこの運動は全米に波紋を広げ、モンゴメリーの市民たちが歩き続けられるように、国じゅうから靴やコートや支援のお金が送られてきました。みんなこの非暴力の闘いを誇りに思っていたのです。

▲クー・クラックス・クラン(KKK)


 しかし逆に、白人の抵抗も強まりました。白人秘密結社KKK(クークラックスクラン)は激しく反応し、運動に参加する黒人たちにも身の危険がともなうようになったのです。
 モンゴメリー市長のゲイルは「人種差別主義団体」に加盟しており、差別をしたい側の白人たちはキング牧師たちが有色人種地位向上協会の資金を着服し、高級車を乗り回しているという嘘を言いふらしますが、黒人たちの結束は固く、ボイコット運動はむしろ強化されました。しかし市長のゲイルはテレビを通してボイコット運動を非難し、白人経営者たちに合法的なやり方で大がかりな妨害や嫌がらせをするよう扇動しました。仕事を失うことを恐れた黒人たちの中から脱落者が出始めると、白人たちの行動はエスカレートし、ギャングを雇いキング牧師の家に何度も脅迫電話をかけさせました。
牧師の妻のコレットや子どもたちの怯える姿に、キング牧師も精神的に追いつめられていきました。
 ある日、牧師の家にまた脅しの電話がかかってきました。家を爆破するという恐ろしいものでした。電話が切れた後、キング牧師も遂に力尽き、もはや勇気のひとかけらもなくなったように感じました。その時です。突如、彼は今まで感じたことのないような聖なる存在を心の中に感じたのです。その声は、「正義のために戦いなさい。恐れることはない。神は永遠にあなたに味方するだろう」と告げました。すると、たちまち恐怖心は消え去り、彼の心に奥底からエネルギーが湧き起こり、全身に力がみなぎってきたのです。

▲キング牧師の家族


 それから3日後、予告通りキング牧師の家に爆弾が投げ込まれ、爆破されました。幸い家族は留守にしていたため、妻と子どもたちは無事でした。すぐに、この報は、キング牧師に知らされましたが、彼は落ち着いていました。爆破のニュースはあっという間に町中に広まりました。
 家は跡形もなく崩れ、黒焦げになった残骸が飛び散る現場に消防士や警察、そしてゲイル市長までが駆けつけてきました。集まった群衆の中には、打ちひしがれる牧師たちを笑ってやろうという者もいたのかもしれません。

 しかし、黒人の中には「警察を叩き殺せ!」などと激しく怒りに燃える支持者たちもいました。キング牧師は両手を大きく挙げて彼らを静め、冷静に話しました。「慌てないようにしましょう。武器を持っているなら、家に帰りなさい。・・・われわれは暴力による報復によって、この問題を解決する事は出来ません。暴力に対しては、非暴力を持って応えなければなりません。白人の兄弟が何をしようとも、私たちは彼らを愛さねばなりません。私たちが彼らを愛していることを、彼らに知らせなくてはなりません。『剣を取る者は皆、剣で滅びる』というイエスの言葉を思い出してください」と語りかけたのです。

 一瞬あたりは静まり返り、次の瞬間、怒涛のような拍手が湧き起こりました。「あんたの上に神の恵みがあるように!」一人の黒人の老女が感動のあまり叫びました。そして、人々は静かに去っていったのです。この事件以来、キング牧師は、黒人運動の精神的指導者として、広くその名を知られるようになったのです。

 しかし、このような状況においても、白人市民会は執拗に黒人への反発を続け、ある上院議員は、「そもそも黒人は白人に隷属するように造られたのだから、すべての白人は生まれながらにして黒人を殺す権利と自由を与えられている」などと驚くべき演説をする者もいました。

 しかし、キング牧師の高邁な非暴力の精神に人々は共鳴し、モンゴメリーでの運動は、その後も非暴力主義に貫かれるものとなったのです。正義は次第に浸透し、黒人たちの権利を求める運動は確実に広がっていきました。
 そして、ついに、1956年バス人種隔離撤廃を訴える裁判に合衆国連邦最高裁判所は、撤廃を命じる判決を言い渡したのです。

 モンゴメリーのバスボイコット運動は、公民権運動に名もない民衆が参加した初めての運動でした。この成功により公民権運動はアメリカ全土に広がっていき、勇気ある抗議をしたローザ・パークスは後に「公民権運動の母」と呼ばれるようになりました。
 キング牧師はこれ以降、教会の牧師をしながら、全米各地で公民権運動のリーダーになっていきます。

 バスの人種分離は多くの差別の中の一つに過ぎませんでした。黒人は住宅、賃金、雇用の機会、投票権など、あらゆる場面で差別されていました。多くのホテルやレストランでは、相変わらず黒人の客を拒んでいました。
 しかし、バスのボイコットで、自由の国アメリカの不平等と差別、キング牧師の指導力に世界中の注目が集まりました。そして、モンゴメリーの抗議に呼応して人種隔離制度に反対する抗議運動は、南部の他の諸都市においても次々と飛び火していきました。

 キング牧師を議長とする「南部キリスト教指導者会議」は、もし大統領が人種隔離撤廃を支持する演説を拒否するならば「ワシントンへの自由への祈りの巡礼」を決行することを決議しました。キング牧師は、会見で「自由への祈りの巡礼」の目的は、南部の人種差別的選挙登録と選挙妨害的慣習を告発できるよう、公民権法案を通過させることでした。運動はキング牧師を単なるバスにおける人種差別撤廃から選挙権の平等へとかりたてていったのです。

 1957年5月17日には「自由のための祈りの巡礼」というイベントをリンカーン記念堂で開催しました。全米各地から3万7000人もの人々が集まりました。その中には著名人も多数参加していました。キング牧師が語りだすと群衆は総立ちで聞き入りました。「われわれに参政権を与えてください! そうすれば、われわれは暴徒たちに秩序を与え、善良な市民に変えてみせましょう。われわれに参政権を与えてください! そうすれば、われわれは議会を善良な人々で満たします」「みなさん、われわれは愛の秩序により、自由を勝ち取るための行動を起こしたのであり、決してわれわれを弾圧する者たちに歯向かってはなりません。相手を憎めば、新しい秩序も古いそれと変わりがなくなります。われわれは憎しみには愛を、暴力には精神の力をもって報いなくてはなりません」

 しかし、キング牧師自らも、様々な難にあいました。1958年、友人の牧師が裁判で証言するのを傍聴しに裁判所に行き、不当逮捕されたり、ハーレムにある靴屋でサインをしていると黒人女性がいきなり彼の胸をペーパーナイフで刺すという、暗殺未遂事件にもあいました。1961年にはジョージア州オールバニで解放運動を指導しますが、警察や白人の暴徒たちによる弾圧は激しく、黒人たちや応援してデモに参加した白人たち、デモに参加していない黒人たちにまで激しい暴力が加えられました。黒人を憎むK K K団も執拗に彼らを襲いました。黒人が灯油を浴びせられ火だるまにされる事件まで起きました。キング牧師も教会で集会の際、暴徒に教会の周りを取り囲まれ、窓は投石で割られて危険な目にあいました。このような警官や暴徒による非人道的な暴力は、テレビや新聞を見た人々にショックを与え、かえって善良な人々に嫌悪感をもたらすことになったのです。

 しかし、執拗な暴力に次第に黒人たちの心にも、非暴力に対する疑念と白人たちへの増悪の気持ちが湧いてきました。もはや彼らの忍耐は限界まで来ていました。しかしキング牧師には、一つの希望がありました。当時のケネディ大統領が差別を嫌悪していて、キング牧師の活動に好意的だったからです。

 1963年8月リンカーンの奴隷解放宣言100年を記念する大集会を企画します。8月28日の「ワシントン大行進」は参加者が25万人に達し、芸能人などの多数の有名人も参加しました。この集会でキング牧師は、リンカーン記念堂の前であの有名な演説を行います。

▲演説するキング牧師


 キング牧師は、白人を「兄弟」と呼び、真の自由と平等の実現を呼びかけ、運動が相互の憎悪をかきたてることなく、あくまでも非暴力を貫きながらも、一切妥協せず、最後まで精神の力で闘い抜くという将来像を「私には夢がある」という表現でさししめしたのです。「・・・I Have a Dream(私には夢がある)それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。・・・・」人種差別の撤廃と各人種の協和という高い理想を簡潔な言葉で訴えたこの演説は多くの感動と共感をよびました。

▲暗殺直前のダラス遊説中のケネディ大統領

 1963年11月22日。ダラスを遊説中、3発の銃弾によって、ケネディ大統領が暗殺されました。差別廃止運動を支えてくれた大統領の突然の死に、キング一家は驚き、深い悲しみを覚えました。
その頃黒人たちに対する暴力はエスカレートしていました。運動をする白人学生、黒人学生らがともに連れ去られ、ひどいリンチを受け殺される事件もおこりました。

 幸い、ケネディの後に就任したジョンソン大統領も、ケネディ以上にキングたちの運動に理解を示してくれ、1964年7月2日、ジョンソン大統領は、全てのアメリカ人に平等な居住権、選挙権、教育を受ける権利を保障する「1964年公民権法案」に署名しました。
 翌1964年に、「公民権法」が成立し、キング牧師には、ノーベル平和賞が授与されました。

▲ノーベル平和賞を受賞したキング牧師


 しかし、これで問題が解決されたわけではありません。南部の黒人の差別は依然として根強く、また北部においても特に大都市において貧富の格差が拡大し、現状に不満な黒人の中には、非暴力運動をすてて実力で白人に対抗しようとするブラックパワー運動が台頭してきたのです。アメリカの急進的な黒人活動家によって発せられた黒人結集のスローガンを掲げた運動は、公民権運動の高揚にもかかわらず、なお根強く存在する人種差別や、公民権活動家に向けられた迫害やテロ行為の頻発する状況のもとで、「黒人」と「権力」とを結び付け、黒人自らの力で人種差別を打破しようとしました。

▲行進するキング牧師


 一方、この頃から深刻となったベトナム戦争への反対運動にかかわるようになったキング牧師は、1968年、全国遊説の途中、テネシー州メンフィスで市清掃局の黒人労働組合のストライキに参加している最中に人種主義者によって、暗殺されてしまいます。暗殺のニュースが広まると、アメリカ中で暴動が起こり、各州知事は州兵を出動させ、全米で20000人が逮捕されました。

 ケネディ政権下で司法長官を務めた弟のロバート・ケネディ上院議員は、FBI長官がキング牧師を盗聴する許可を司法長官に要求した際に、その許可を与えたかは定かではありませんが、少なくとも、FBI長官と大統領の間に立ちはだかった唯一の人物だったといえるでしょう。人種間の和解を訴え、キング牧師の葬列にも参加しましたが、彼もまた6月5日に暗殺されてしまったのです。


▲「キング牧師記念日 (Martin Luther King’s  Day)」


 アメリカでは、キング牧師の誕生日である1月15日に合わせ、毎年1月の第3月曜が「キング牧師記念日 (Martin Luther King’s  Day)」とされ、全米で慰霊祭に参列したり、コンサートを開いたり、自分たちの地域でボランティアを行います。そして、キング牧師の勇気と苦難と功績を記念するテレビやラジオの番組を通して、自由と平等と平和の実現への誓いを新たにするのです。
公民権運動というキング牧師と人々の闘いは、1人の名もなき黒人女性が「ノー」と言ったことに始まり、その勇気と非暴力の精神は今日でも世界の人々の道標となっているのです。

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