見出し画像

労働者は解放されなかった②

~マルクス主義の史上最大のミスリード~ シリーズ➊~➍

➋革命政府の権力闘争


▲レーニン


 1917年の「二月革命」によってロマノフ王朝は倒れ、自由主義的市民を中心とする臨時政府が成立し、労働者と兵士はこれを支持しました。
 その後、海外から社会主義者たちが帰国してくると、臨時政府に反対する「ボリシェヴィキ」と呼ばれる勢力が台頭してきます。彼らは臨時政府を倒して、自らが政権を奪取して、「プロレタリア独裁」を実現しようとしていました。
 
 レーニンが指揮したボリシェヴィキは、臨時政府と対立し、二月革命の結果に不満をもつ労働者からの支持を獲得します。また軍隊の一部が同調することによって闘争に勝利し、世界史上初の社会主義政権を樹立しました。これを十月革命と呼んでいます。
 
 なぜボリシェヴィキの革命が成功したのでしょうか。レーニンは、第一次世界大戦への参戦によって困窮した労働者や農民、そして厭戦気分の兵士をソヴィエト(勤労者代表者会議)に吸収するため、まずは反戦運動を展開する戦略を実施しました。「戦争をやめろ!」「臨時政府を倒せ!」「全権力をソヴィエトへ」というスローガンを掲げ、労働者と兵士の支持を得ます。戦争を倦んでいた民衆には理解しやすく、兵士たちのあいだにはすぐにでも蜂起したいという声が充満しました。
 戦争を終わらせることができない臨時政府は信用を失い、レーニンの狙いどおりにスローガンは民衆に浸透し、彼らの希望はボリシェヴィキに移っていったのです。
 
 一方でレーニンが目指す「共産主義革命」を民衆が理解していたわけではありません。その思想に共鳴したのではなく、現臨時政府に対する失望から、臨時政府に強固に反対するボリシェヴィキを受け入れただけだったのです。
 


 その後、スターリンとトロッキーによるボリシェヴィキの分裂を危惧したレーニンが、遺書でスターリンを指導部から外すことを書き残したにもかかわらず、スターリンは世界革命と永続革命を提唱していたトロッキーを追放(後に亡命先で暗殺)し、一国で共産主義を構築する「一国社会主義」政策を推進しました。

 スターリンによる国家的暴力とテロの使用は、当時のボリシェヴィキ首脳部が許容する範囲を超えていたといわれています。スターリンは、亡くなったレーニンを神格化しながらも、いつの間にか「マルクス・レーニン主義」を「スターリン主義」にすり替えていたのです。
 
 その結果、ソ連というスターリンの指導する1700万人の全共産党員のうち、わずか4パーセントの赤い貴族「ノーメンクラトゥーラ」による超独占的な官僚制国家が誕生しました。そして、旧ソ連の憲法では、剰余価値率(搾取率)をどうするかという議論ではなく、「あらゆる形態における搾取の禁止」を宣言したのです。

▲1936年ソビエト連邦憲法(スターリン憲法)

 
 「スターリン憲法」には、世界に通用するような普通選挙制度、信教の自由、民族の平等、人民民主主義の理念が掲げられていましたが、実際にはまるで守られることはありませんでした。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?