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沈黙が際立たせる一言の重み

▲ミシェル・ピカート著『沈黙の世界』の表紙

 ものすごく混雑した電車の中にいると、目的の駅で、はたして降りられるかと不安になることがあります。わずかな停車時間に、沈黙のまま、人をかきわけ、かきわけ、必死になって降りていく人の群れを見ていると、それだけで十分大都会がいやになってきます。
 しかし、ある時、わたしは、そんな大都会にありながら、とてもさわやかな光景に出会いました。そして、その時程、言葉を発するということが如何に人間的で、しかも大切な行いであるか、ふと気づかされたのです。

 夏の朝、大混雑した電車が、とある駅にさしかかった時、一人の初老の男性が、立ち上がり、低い張りのある声で、次のように言いました。「すみません。降ります。少し道をあけてください。ありがとう。ありがとう。」そうしたら何と、その男性の前には、みごとに人が一人通れるほどの道ができていたのです。わたしは、この時ほど、一言の力の大きさ、大切さを肌で感じたことはありませんでした。
 と同時に、それを可能にしたのは、そこに「沈黙の世界」があったからではないかと気づいたのです。「沈黙の世界」で発せられる言葉の重みは、それによって、発する言葉の重要性や意味を際立たせ、より深い印象を与えるからなのです。ピカートは、言葉の喧噪や情報の氾濫が広がる現代において、その著『沈黙の世界』で、こう述べています。「もしも言葉に沈黙の背景がなければ、言葉は深さを失ってしまうだろう」と、沈黙が人間の生活や社会において価値あるものであることを説いています。また、文豪ゲーテは、「言葉は聖なる沈黙にもとづく」と述べ、「聖なる沈黙」という表現で、内面的な沈黙や静かな思索によって、深く内省することができることを説いています。

 イギリスの評論家トーマス・カーライルの著書『衣服哲学』の一説に、「雄弁は銀、沈黙は金」とあります。これは、雄弁であることは重要だが、度が過ぎると災いを招く可能性があることを意味しています。それに比べて、沈黙する、あるいは「間」を取ることが、優れた雄弁よりもさらに力を発揮することがあるということです。
 わたしたちは日常において、会話が途切れ「間」が生じると、すぐにその「間」を埋めようとします。しゃべり続けることで、会話が弾み、それが充実した時間だったと勘違いしています。会話の最中に「間」が生じたとしても、饒舌な言葉で埋める必要はありません。何とかしてその「間」を埋めることを身につけてしまうと、考えることが疎かになってしまいます。
 逆に沈黙は、考えを整理し、深い洞察や内省を促します。話し続けることで気づけないことに、沈黙の中で自分自身と向き合ってこそ気づくことがあるのです。

 沈黙は、交渉や対話における戦略的手段としても機能します。相手にプレッシャーを与えたり、考える時間を持たせたりすることで、状況を有利に進めることができます。沈黙することは、「あなたのために、私の考えは一旦脇に置いている」ということを示し、話し手の言いたいことを受け止める準備があることをアピールすることができるのです。沈黙というスペースが与えられると、相手はそれまで自分が話したことについてさらに発展させ、話のより深い意味まで説明するようになるでしょう。聞く側は、それを通して、相手の意図がいかなるものかを知ることができ、よりよい関係を構築することができるのです。

 現代人の生活には、テレビ、ラジオ、ゲーム機、カラオケ、音楽プレーヤー、スマホ、タブレット等、様々な音や情報があふれています。そのため、多くの人は、沈黙を恐れるのです。余暇があり、娯楽に満ちている現代にあっては、自らを省みる生活を送るのは、困難な状況にあるといわなければなりません。
 自己省察は、沈黙の中でのみ可能だとしたら、このような状況は、現代人の抱える、重要な問題点なのです。なぜなら、自己を客観視することにのみ、人間の知恵と良心が宿るからです。それは新しい景色を探すことではなく、同じ景色を新しい目で見つめなおすことなのです。
 現代人は、どのように思索すべきかを知らず、ただ一方的に流れてくる音や情報の中で、流されるように今を生きてしまいがちです。特に都市生活は、煩雑で混沌とし、怒りやフラストレーションや叫びにあふれています。満月をめでる空気感、麦の穂が風にそよぐ平和な田園風景や小鳥のさえずる音とは対照的に、都市には、騒音が渦巻いています。


▲ムンクの『叫び』

 有名なムンクの「叫び」は、人間の内的な不安や存在の不確実性、孤独を象徴するものとして捉えられています。人間が不安や孤独、死の恐怖などに直面しながら、自らの存在の意味を問いかけているようです。この絵に描かれている人物は、現代の大都会で、世界や自分自身に対する深い不安に苛まれ、現実から孤立している人間に見えるのです。
 しかし、このような空虚さは、静かに内省的自己と対話し、自らの知恵と良心によって自己を振り返り、深く思索するしか打開の道はありません。          

 「沈思黙考」こそ、自らを省みる最も優れた方法であり、自らの中に眠る変革の力を呼び起こすことができるのです。信仰における祈りもその最たるものです。
 イギリスの作家サミュエル・バトラーは、「眼を閉じよ。そしたらお前が見えるだろう」という名言を残しました。本当の自分を感じ取るために、ほんの10分か20分、考える時間を持つだけで、あるべき自分の姿が見えてくるのです。人間は自分を最も大事にする自尊心を持つと同時に、他人の目を気にする虚栄心を持つ矛盾に満ちた存在です。そこから生まれ出てくるさまざまな欲望や恐れから解き放たれ、自分の人生をより豊かにするために、ほんの少し立ち止まって考えてみましょう。
 静かな環境や沈黙は、心を落ち着け、ストレスを軽減する効果があります。特に瞑想やリラクゼーションの場では、沈黙が心の安定を助けるのです。

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