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「怠るな!決して諦めるな!!」➂

~細菌学者コッホの飽くなき探究心~ シリーズ❶~❸

❸「睡眠病」との闘い


▲コッホと北里柴三郎

 
 1905年にコッホは結核研究でノーベル医学・生理学賞を授与されることとなりました。そして翌1906年、コッホは、当時、「睡眠病」が流行していたドイツ領東アフリカへ派遣されることとなります。
 
 当時既に、多くの研究者が、多額の費用をつぎ込んで、アフリカで多発する「睡眠病」の原因の探求に乗り出していました。「睡眠病」は、発熱、悪寒、頭痛、リンパ節の腫れ、ときに発疹がみられ、やがて眠気や歩行障害をきたし、治療しなければ昏睡状態となり、ほぼ100%死に至るという恐ろしい病です。
 コッホも現地で懸命に調査活動をしましたが、いくら調査してもなかなか病気の原因をつきとめることはできません。さすがのコッホも落胆して、ある日、散歩に出かけました。
 するとしばらくして、川に沿って二つの分かれ道にさしかかりました。しばらく立ち止まって見ていると、片方の道からは、「睡眠病」の患者が次々と担架に乗せられ運ばれてきます。ところが、その間にもう一方の道からは、一人として「睡眠病」の患者は運ばれてきませんでした。不思議に思ったコッホが、土地の人々に聞くと、「今日だけのことではなく、いつものことだ」と答えました。
 そこでコッホは「片方の道の先にはあって、もう一方の道の先にないものは何ですか」とたずねてみました。すると人々は「ワニです。片方の道の先には、ワニがたくさん生息しています。」と答えました。そのときコッホは「原因はワニだ」と直感しました。
 しかし人々は言います。「ワニに近づく人はいませんよ。」そこでコッホは、ワニの群れを直接見に行きました。するとワニに群れ飛ぶハエの大群に出会ったのです。それがあのツエツエバエだったのです。早速コッホは、ツエツエバエを何十匹も取って調べたところ、病原であるトリパノソーマが発見されたのです。
 
 コッホは明治41年に、日本に来た時、こう振り返っています。「もし、あの日あの時、私が研究室にこもりっきりで病原の研究をし続けていたら、おそらく睡眠病の病原の発見はできなかったでしょう。研究者という者は、窓の中にあっても、窓の外にあっても、常に心を窓の外に注がなければならない」と。
 学ぶ者は常に社会と交流しつつ、目の前の現実に当てはめて物事を考えてこそ意義があるのであり、その知識は、社会のために生かされてこそ学ぶことの意味も出てくるのです。病気を防ぐワクチンも、病気を治す抗生物質も、痛みをやわらげる鎮痛剤もすべて目の前の患者への思いによって開発されたものばかりです。
 
 しかし、これほど医学が発達した現代でも、アフリカ大陸の赤道にほど近いヴィクトリア湖より西の中央アフリカを中心に感染者が多い「睡眠病」は、その後のいろいろな研究者によっても、ツエツエバエが人間を含む哺乳類の血を吸って媒介するトリパノソーマという寄生虫が病原体であることが確認されていますが、その予防のためのワクチンも治療薬の開発もできていないのが現状です。
 「睡眠病」は,寄生虫トリパノソーマがツエツエバエに寄生し、家畜や人に感染するという厄介な病気です。それでも、20世紀の中頃には、欧米列強の尽力もあって、かなりの程度まで患者数は減少していましたが、20世紀末以降、アフリカ諸国の政治的な混乱のなかで流行が再燃し、そうして「睡眠病」は「顧みられない熱帯病」のひとつに数え上げられ、今日に至ったのです。
 
 2012年の「睡眠病」の新しい発症者は約7000人でした。近年では新患者の報告数は年々大きく低下しています。それでもまだ「睡眠病」の感染リスクにある人々はサハラ以南のアフリカ36カ国で約6000万人だと推定されています。「睡眠病」は未治療であれば、致死率はほぼ100%で、今日でも年間5~50万人が死亡していると推定されています。
 
 結核菌のほか、やはり死の病であるコレラの病原体コレラ菌も発見したコッホは、ベルリン大学の教授に迎えられ、ここで多くの弟子たちを育てていきます。日本の北里柴三郎もその一人です。これまで述べてきたフランスのパスツールとドイツのコッホは、「近代細菌学の父」と呼ばれています。フランスとドイツを代表する二人の科学者は、国と国の名誉をかけて、その研究成果を争いました。そしてこの両巨頭のグループはお互い闘争心に燃えて切磋琢磨しながら医学の発展に貢献していったのでした。

 「怠るなかれ」そして、「決して諦めるな」。この二つの言葉が、破傷風菌やペスト菌を発見し、血清療法を開発した北里柴三郎をはじめ、後輩たちに語ったコッホの信念だったのです。


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