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清貧なる「昆虫の詩人」アンリ・ファーブルの探究


▲アンリ・ファーブル

 文庫本で10冊にも及ぶ大著『昆虫記』を残したファーブルは、芸術的にも磨かれたセンスを持ちあわせていました。この本が長く読み継がれているのは、文学としても大変優れ、自然科学との幸福な調和を保った文理融合型の著作だともいえるからです。その愛に満ちた昆虫へのまなざしから「昆虫の詩人」と呼ばれたアンリ・ファーブルの『昆虫記』の原題は、『昆虫学的回想(Souvenirs entomologiques)』といいます。すべての生命にはみな果たすべき役割があるという生き物の持つ生命の尊厳を深く感じとることのできる名著です。
 彼は、循環する生命への畏敬の念を次のように描きました。「これらの生き物は、かわるがわる盗る者、盗られる者となり、食う者、食われる者となる。それは種の保存のために自然が課す、宿命的で情け容赦のない闘いなのである。それぞれの寄生者がその目的を達するために用いる手段にはまったく感心するしかないけれど、その賛嘆の念に、一抹の苦痛にも似た感情が混じるのを禁じ得ない。」(第2巻16章)読者は、誰もが、詩情あふれる表現や、面白い昆虫の実験と観察に知らず知らずのうちに引き込まれていきます。ファーブルは昆虫の研究から、コガネムシの一種であるスカラベ(いわゆるフンコロガシのこと)の卵を世界で初めて発見したり、異性を引き付けるための性フェロモンとなる物質を発見するなどの功績を残しました。
 そんな順風満帆な研究人生に、影響を及ぼしたのが、息子の「死」です。ファーブルは、自伝的に書き綴ったその「死」から、昆虫界での「生と死」をより色濃く尊厳をもって見ることとなるのです。もともと数学や物理学を学んだ彼が、格調高い文章を書けたのも幼少期の読書のおかげだったのです。学んだことのすべてが、何一つ無駄ではない人生となっていったのです。

 1823年12月21日、ジャン=アンリ・カジミール・ファーブル(Jean-Henri Casimir Fabre)は、南フランスのアヴェロン県にある寒村サン・レオンに生まれ、大自然に囲まれて育ちました。サン・レオンは石の多いやせ細った土地の山間(やまあい)の村でした。父親は農民で貧しく、弟が生まれるとファーブルは食い扶持を減らすため、3歳のとき山村のマラヴァルにある祖父母の元に一時里子に出されたほどでした。後にファーブルは、自分の生まれた家をあの「あばら屋」と呼ぶほど、貧しい生活だったといいます。小さい時から植物や昆虫に興味を持ったのは、あまりに貧しい生活のため、野山を走り回るしか楽しみがなかったからかもしれません。

▲スカラベ(フンコロガシ)


『 昆虫記』では、牛糞を食べるスカラベ(フンコロガシ)が大きな糞球を作り、それを転がして運ぶのを観察したようすが語られます。なぜファーブルは、糞を食べるような昆虫に愛情を注いだのかといえば、ファーブルが育った山奥にある祖父母の家の周りは家畜の糞だらけだったためか、それを汚いなどと思う人はいなかったからです。家畜の乳を絞り、その肉を食べ、羊毛を着ていた村の人々は、家畜によって人間が生かされていることをよく知っていたからでした。全ての生き物は平等であり、それぞれの役割があるというのが、ファーブルの信念だったのです。

 少年時代はロデーズの王立学院に学び、ラテン語やギリシャ語の古典を原語で読めるほどになりますが、生活能力に欠けた父親は、ファーブルが9歳の時、生活にいきづまり、家族を連れて村を出ます。両親が都会でカフェを開くことになりましたが、カフェはつぶれ、一家はばらばらに離散します。10歳の時、父親は金を稼ぐため、アヒルを飼育することにしました。その世話係にはファーブルが命じられました。ある日ファーブルは24羽のアヒルの子を連れて、山の沼に出かけました。沼で澄んだ水と戯れ、藻や貝殻、不思議な色や形をした石、おたまじゃくしやいろいろな虫を見つけ夢中になり、彼の心は喜びでいっぱいになりました。自然の持つ豊かさへの率直な賛美とアヒルとしか喜びを分かち合えない貧しさと孤独が、この頃すでに育っていました。こうした日々の中で、将来「昆虫の詩人」として燃え盛るファーブルの心の中には、多くの昆虫との思い出という「薪」がうず高く積み上げられていったのです。

 ファーブルが14歳のころには、もはや自活しなければならない状態に追い込まれ、学校を中退しました。南フランスのロゼーツ、ツゥールーズ、モンペリエと流離い、カフェなどを開きますがいずれも失敗。生活はいつもどん底でした。ファーブルもレモン売りや鉄道工夫などの肉体労働でその日の食料を得るような暮らしとなりました。
 しかし、彼は学問への情熱を失わず、16歳のときにアヴィニョン師範学校の学費なしで宿舎も食事も提供される奨学生募集に応募し、1番の成績で合格します。しかし、しばらくして、授業に退屈したファーブルは校長にかけあい、3年の課程を2年で修了し、残りの1年は1人で博物学やラテン語の勉強をして過ごしたといいます。
 ファーブルは、生涯で100冊もの入門書や教科書などを書いていますが、物理学や数学に興味を持ち、自分でせっせと本を手に入れては勉強していきました。すべて独学であるがゆえに、彼が執筆した数学の本は初学者にもわかりやすい出来映えだといわれています。
 師範学校卒業後、20歳でカルパントラの小学校の教師となり、生活に少し希望が見えましたが、それでも教員の給料は安く、生活はいっこうに楽になりませんでした。ここで彼は、児童がカベヌリハナバチの巣から蜜をとるのを見て、昆虫の生態に興味を持ちます。21歳の時、同じ教員仲間のマリー・ディアールと結婚。2人の子供をもうけましたが、病気が子どもの命を奪うという悲劇が襲ったのです。1877年に昆虫や植物に強い関心を持っていた16歳の次男ジュールが息を引き取る姿を、ファーブルは弟への手紙で次のように書きました。
 「ひどい熱が出て3日であの子をさらって行ってしまった。私はお前のためだけに働いていたのに、勉強中もお前のことしか考えなかった。そしてお前にこう言っていたのだ。大きくなっておくれ。そしたら少しずつ蓄積している私にとって実に大事な知識をお前の魂に注ぎ込んであげようと。私のかわいそうな子よ。お前は父親のように貧困や不幸と戦う必要は無いのだよ。お前は人生の辛酸を知らずに済むだろうし、不幸への道がこれほどたくさんあるこの時代に、苦杯をなめて地位などを築かなくてもいいのだ。そう、お前は幸福なんだ。これは苦痛に打ちひしがれた父親の大それた期待なんかではないよ。絶対に。お前の最後の眼差しが、あまりにも勇敢にそう言ってくれたから、疑うことなどできないのだ。ああ、今際の際の蒼白の姿の何と美しかった事か。最後の吐息を唇に漏らし、目は天に向け、魂は神の懐へと飛びたたんばかりだった。お前の最後の日はお前の人生で1番美しい日だったのだ。」
 悲しみを振り払うようにファーブルは勉強に打ち込み、25歳でモンペリエ大学から数学士と物理学士の免許を与えられました。そして、中学の数学、物理の教師になる試験を受け合格し、ナポレオンの出身で知られるコルシカ島の中学に物理の教師として赴任しました。コルシカ島の豊かな自然はファーブルをすっかり虜にし、昆虫や植物の採集に熱中します。でもマラリアにかかったため、フランス本土に戻り、かつて師範学校時代に過ごしたアヴィニョンの中学校教師になります。
 教壇に立つ傍ら植物や貝の採集に熱中したりすることもありましたが、博物学は学んだ経験がなく、それ以上のものではありませんでした。

 そんな彼を一夜にして変えてしまったのが、レオン・デュフールという医師が『自然科学年報第5巻』に発表したタマムシフシダカバチという狩り蜂の研究でした。デュフールは、この蜂の活動を詳細に観察し、その行動の意味を探っていたのです。そして、そこには狩り蜂が捕らえた虫は、いつまでも腐らないと書かれていたのです。デュフールは、狩り蜂がタマムシを捕まえて、土の中に埋め、幼虫のエサにする際、腐らないように特殊な防腐剤を注射するからだと説明していました。しかし、ファーブルは、そんな都合の良い防腐剤などというものを蜂が持っているのだろうか?と疑問を抱き、ファーブルの心に昆虫に対する興味が一挙に噴き出したのです。
 「そうだ。これこそ私が求めていたものだ。標本づくりや分類作業ではない本当の昆虫の研究。観察し、意味を探り、生命の源に迫る。これこそ私の生涯を費やすに値するものだ。」かくしてファーブル31歳の時、昆虫の研究を生涯の仕事と決める劇的な出会いとなったのです。それはまるで、心の中の暖炉に薪が積み上げられてあり、そこに火が燃え移って、一気に燃え上がったようなものです。ファーブルは、述べています。「薪は十分に用意されていた。もしそこに火がつけられなかったら、それはいつまでも燃えださなかっただろう」と。

 火のついたファーブルは、早速、狩り蜂が捕らえた獲物をどうするのかを自分で観察して確かめようとしました。そして、それまで知られていなかった驚愕の事実を突き止めることになるのです。
 ただし、アヴィニョン地方にはタマムシフシダカバチは生息していなかったので、近縁のコブフシダカバチを観察しました。これなら、家のすぐ近くのカルパントラという街の崖道の土手に巣を作っていたからです。
 観察と簡単にいいますが、実際には大変な作業です。座り込んで何時間も土手の巣を覗き込む。蜂が飛べば後を追いかける。餌にするゾウムシを何日もかけて捕まえる。蜂がゾウムシに針を刺す瞬間を見るために、何時間も目を凝らす。虫眼鏡でゾウムシの体の隅から隅までを調べる。ファーブルはこの観察でコブフシダカバチがゾウムシに針をさす卓越した技術に感嘆します。しかし炎天下で何時間も地下に這いつくばったりしているファーブルは、周囲からは好奇の眼で見られていたに違いありません。

 コブフシダカバチは、ゾウムシを針で刺して、動かなくすると、ひっくり返して、抱きかかえるように運んでいきます。ところが、蜂にやっつけられてから暫く時間がたっても、獲物のゾウムシは、体の色も生きている時のままだし、関節もしなやかによく動きます。解剖してみると内臓の状態まで、生きている時と同じでした。まるで今にも歩き出しそうです。デュフールが捕らえた蜂が腐らないように「防腐剤」を注射するとしたのに、疑問を抱かざるをえませんでした。「デュフールの結論は間違っている。よし、それを証明してやろう。」それが証拠に、動かなくなったゾウムシが、最初の1週間程は、まだ自分でフンをするではありませんか。

 蜂の卵も幼虫も、とてもつぶれやすい、ひ弱なものですから、するどいトゲつきの長い肢を持つ、丈夫なゾウムシを一緒にすれば、あっという間に傷ついて死んでしまいます。獲物は死んだように動かないことと、内臓も生きているのと同じように新鮮であることが絶対に必要です。そうなると防腐剤ではなく、麻酔をかけて麻痺させているのではないか、と考えるのが順当です。ならば体を動かす大もとの神経器官をピンポイントで麻痺させるしかありません。しかし、ゾウムシは、甲虫類であり、全身を硬い殻で覆われています。一体、どこを刺せばよいのでしょうか。
 コブフシダカバチがゾウムシを捕らえるところを何回も観察したファーブルは、前肢でゾウムシの背中をぐいと押さえつけ、胸の関節を開かせると、針のついた自分の腹の先を曲げて、胴の下に潜り込ませ、前肢と中肢の間にある鎧の合わせ目に、2・3回毒針を素早く刺したのです。するとゾウムシは、まるで雷にでも打たれたように、その場で動かなくなってしまうのでした。

 解剖学者によると、昆虫の成虫には、胸部神経節というものが、必ず3つあり、ここから二対の翅(はね)や三対の肢に細い神経が出ていて、それらの運動を支配しています。蜂がそれ程固くない針でゾウムシを刺すには、2か所ある鎧のつなぎ目を狙うしかありません。一つは、首と前胸をつなぐ関節で、もう一つは前肢と中肢の間の関節です。3つの胸部神経節は昆虫によって違いがあり、極稀に3つがくっつきあっているものもありますが、大抵の場合、3つは独立しており、1つがダメになっても、全体にはすぐに影響がでないようになっています。
 したがって、一撃で倒せる獲物は、3つの胸部神経節がお互いに触れ合うほどに接近して、ほとんど1つの塊をつくっている昆虫が理想的なのです。神経節がくっついていて、コブフシダカバチが捕らえられる大きさの獲物は、タマムシとゾウムシなのです。フランスにはフシダカバチは8種類いますが、8種類とも、タマムシとゾウムシ以外の獲物には、全く関心を示さなかったのは、そういう理由(わけ)があったのです。
 さらに、毒の正体を突き止めようと実験を繰り返した結果、アンモニアのしずくが、神経節に触れたとたんに、痙攣一つ起こさず、ぴたっとタマムシもゾウムシも動かなくなることがわかりました。しかも、内臓はまるで新鮮なままでした。これまで調べる度に次々に湧き起こってきた疑問は、こうして見事に解決されたのです。


▲執筆中のファーブル


 こうした粘り強い観察の結果、ファーブルは、捕らえた虫の保存方法として、コブフシダカバチはゾウムシを殺すのではなく、心臓など致命傷になる場所を巧妙に避けていることを突き止めたのです。神経が集まっているところにピンポイントで毒針を刺して運動神経を麻痺させ、仮死状態にします。それによって、自分の子どもの幼虫に全く鮮度を落とさないまま、長期間にわたって保存したエサを与えるという見事な蜂の習性を発見したのです。

 しかし、一方でコブフシダカバチの本能には限界がありました。すなわち、コブフシダカバチの幼虫は、生みつけられたのとは違う場所に移されると獲物を食べることができなくなることもわかったのです。つまり、本能には全く柔軟性がなかったのです。こうした観察によって、ファーブルは、昆虫の卓越した本能について様々な発見を重ねていきました。
これを翌年『自然科学年表』に発表しました。名もない中学教師の生態観察は、大きな反響を呼び、フランス学士院より実験生理学賞が授与され、一躍脚光を浴びたのです。特に嬉しかったのは、彼に目を開かせてくれたデュフール本人がとても素晴らしいと手紙で褒めてくれたことでした。しかし、フランスでは、学歴のないファーブルが、大学教授として呼ばれることは決してなく、出版する書物が一流の書店に並ぶこともないため、ファーブルの名が学者たちに知られることもなかったのです。
 ファーブルが昆虫の生態を明らかにする方法は、まず自分の目で観察し、その行動の秘密を明かすための仮説を立て、そして実験でその秘密を確かめるという方法でした。ファーブルは、多くの昆虫が巣に帰ることができるということに対して、特別な方法を持っていると考えました。例えば、アリの場合、においを手がかりに巣に帰るといわれていました。においは、触角でかいでいるという説もありました。ファーブルは、それらの仮説を実験によって確かめることにしました。アリの通り道を、ほうきで掃いて、観察する実験です。においの付いている土がなくなれば、アリは、道がわからなくなるはずです。しかし、しばらくアリは迷っていましたが、少し経つと巣に向かい始めたのです。他のアリもあとに続き、元の道に再び戻ったのでした。ファーブルはさまざまな実験をした結果、アリは眼で見分けている、という結論に達しました。
 また、アリは、エサを運ぶのに列を作りますが、どうやって列を作るのか?何か目印があるのか?ファーブルは不思議に思い、実験を試みました。まずは、通り道に溝を作りました。目印をたどっているなら、溝は越えられません。しばらくアリはウロウロしましたが、溝を越えて、新しい道を作りました。ファーブルは続けて、新聞紙で道をかくしたり、新しい土をかぶせたり、水を流したりしました。でも、アリは、道を見つけます。ファーブルは、アリたちの目印が「何かは」わかりませんでしたが、その後も研究を続けました。最近の研究では、アリは、腹部の先端から出る「道しるべフェロモン」と呼ばれる化学物質を地面に付け、他のアリがこの物質に反応することで行列を作ることがわかっています。大きなエサは、大勢で運ぶため、エサがあることを知らせるフェロモンを地面に付けながら巣に戻ります。これが繰り返されることで、徐々に濃いフェロモンの道路が出来上がり、これを多くのアリが辿っていくことで行列になるのです。ファーブルは、不思議に思ったことを実験で確かめたからこそ、新しい発見が生まれたのです。

▲『種の起源』を著わしたダーウィン


 ファーブルの研究が脚光を浴びた翌年の1859年は、生物学にとって歴史的な年でした。イギリスのチャ-ルズ・ダーウィンが『種の起源』を刊行したのです。その第4章「自然選択」の中で、ダーウィンはファーブルのことを「比類なき観察者」と称えています。そして、ファーブルのタキテス・ニグラ(クロトガリ・アナバチ)に関する研究について、他のアナバチの巣に一時的に寄生するというこの習性が、種にとっては有利であり、巣を横取りされたハチを絶滅に追い込むこともないなら、この行動は「自然選択」によって、恒常的な習性になると考えて差し支えない、とダーウィンは述べています。
 一方、ファーブルは、この虫が巣を乗っ取る行動を生まれ持った「本能」と考えていたかは明確ではなく、ただ、ハチのあいだで食料が一致していることが、獲物の入手方法について考えさせられるとだけ述べています。(『昆虫記』第1巻6章)   
これはキバネアナバチとエサが同じで競合するため、乗っ取り行動は後天的に学習した効率の良い獲物入手方法であるかとも取れるような記述になっています。ダーウィンの解釈だと、もともとはこの虫も類縁種のように普通に巣を作り、エサも保管していたはずで、この乗っ取り行動は一時的な習性として見られた行動です。しかし、この乗っ取るタイプが「自然選択」でより有利に生き残れるのなら、こちらのタイプの方が子孫を増やすので、乗っ取りがこの虫の一般的な行動になっていくというのであり、まさに進化の過程といえるのです。自然界に存在する「自然選択」が生物進化の原理だとするダーウィンに対し、実際にファーブルも、同じトガリアナバチの巣作りは見ていませんが、サキグロトガリアナバチは普通に獲物を捕らえ貯蔵するのを実際に観察し記録しています。これは、通常捕獲から乗っ取り行動へと移行できるような結果であり、ダーウィンの理論を補強する観察結果となっているのです。

 しかし、ファーブルにしてみれば、自分の観察記録を無断で引用された上に理論づけまでされ、プライドを傷つけられたに違いありません。ファーブルは進化論には大反対だったのであり、賛同していないダーウィンの「自然選択説」に自分の研究が無断で引用されたのには憤りを感じたに違いありません。例えば、「(ダーウィンの進化論は)法則としては壮大なものではあるけれど、事実を前にしては空気しか入っていないガラス瓶のようなものだ。」と自然は最適者だけが生き残ると結論付けるには、論拠が少なすぎると感じていたのです。それでも、ファーブルは自分の研究に注目してくれたダーウィンには一目を置かざるを得なかったようで、2人の手紙による交流は互いに尊重し合う誠実なものでした。20年後、出版された『昆虫記』を読んだダーウィンは、「昆虫の驚異的な習性がこんなに活き活きと記述されたのは、これまで試しのないことで、読むだけでそれを目の当たりにみるようです。」とファーブルに称賛の手紙を書いています。そして、『昆虫記』第1巻に記載された「帰巣行動」に対して、新しい実験の提案までしているのです。

 ファーブルは、学問的には高い評価を得たものの、経済的には非常に苦しい状態が続いていたため、かなり前からアヴィニョン市の委託を受けて研究していた、地元の産業に結びつく植物のアカネの根から赤い粉末染料を作ることに成功しました。これで多くの収入を得られるかに見えましたが、同時期にドイツで安価な化学的人工染料が開発されたため、ファーブルの天然染料の需要はほぼなくなってしまったのです。先を起こされて失敗し、無駄なお金を使ったと責められることになりました。それでもアヴィニョン市からは、市に多大な功績があったとして「ガニエ賞」を授与されています。

▲細菌学の父・パスツール

  1865年ファーブルが42歳の時、都会の大学教授だった43歳のパスツールが蚕(かいこ)の病気の調査に関して、昆虫学の見地から意見を求めようと、南フランスのファーブルを訪ねてきました。当時、病気によりたくさんの蚕が死んでいました。病気の蚕には黒い小さな斑点があることから,ペブリン(pebrine)病とか胡椒病と呼ばれ、1849年頃から被害は広がっていました。パスツールが蚕を調べたいというので、繭を手渡すと、珍しそうに耳元で振り、「音がしますが、何かはいっていますか?」と訊ねました。ファーブルは驚きました。パスツールは、繭の中に蛹があることを知らなかったのです。パスツールが、病から救おうとしている蚕(かいこ)蛾(が)という昆虫について、最も単純な初歩的知識さえ知らずにやってきたことに、ファーブルは、「唖然としたどころか、感嘆したと言ったほうが良いかもしれない。」と皮肉を込めて述べています。
 そして、さらにワインの発酵研究で名を挙げていたパスツールが「あなたの酒蔵を見せてくれ」と言いました。貧しかったファーブルは、わずかなぶどうも買えなかったので、台所の隅においてあった砂糖とりんごのすりおろしを入れて発酵させた自家製の樽を指さすと、「あれだけですか」と驚いたようすで、それ以上の言葉もなかったといいます。裕福な家庭のパスツールが貧困生活をしていたファーブルの生活を理解しない発言をしたことに、ファーブルはあまり良い印象を持たなかったようです。この2人が出会ったのは、後にも先にもこの一回だけでしたが、パスツールから見れば、ファーブルは何とも変わった人物に見えたに違いありません。ダーウィンに「比類なき観察者」と言わしめたファーブルは、貧しかったからこそ、優れた研究や作品を生み出そうとする境地に達することが出来たのかも知れません。

 子どもができ、5人になった貧乏教師一家の生活は、相変わらず苦しかったのですが、少しの運もめぐってきました。45歳になった1868年、文部大臣ビクトール・デュリュイが、学校視察の折に1度だけファーブルに会い、その人柄と仕事に高評価を与えてくれたのです。彼はあの有名な大ナポレオンの甥にあたる皇帝ナポレオン3世に進言して、フランス人には最高の栄誉であるレジオン・ドヌール勲章をもらえるよう取り計らってくれました。華やかな場より自然の中にいることを好んだファーブルは、授与式出席を辞退しますが、文部大臣デュリュイに促され不承不承パリに出向きナポレオン3世に拝謁したのです。皇帝との謁見会場であるチュイルリー宮殿は、ファーブルにとっては別世界でした。他の受賞者も多数参加していましたが、まるで昆虫を観察するように、ファーブルは人々を観察しました。眠たそうな目をした皇帝とは5分ほどしか話をしませんでした。晴れやかなことは苦手なファーブルは、謁見が済んだ翌日には、早々にアヴィニョンに帰ってしまいました。宮殿は居心地が悪かったのですが、デュリュイ大臣の行為には深く感謝していたのです。
 ですからファーブルは、大臣の依頼による「夜間学校」の教師を引き受けました。講義は進歩的なものでしたが、教育の民主化を快く思わない保守的な人々から非難されることもありました。当時、女子教育は、修道女に任されていましたが、ある時、アヴィニョン公会堂で女性も同席していた市民向けの講演会で、植物の繁殖に関するおしべとめしべの解説をしたことが神聖な礼拝堂に相応しくないと問題視され、ファーブルは職を失う不運にみまわれました。
 教職に携わった期間、ファーブルは一度も昇進や昇給をうけることはありませんでした。正規の教育を受けず独学であったことから、学歴による差別的な扱いを受けていたといわざるを得ません。

 アヴィニョンでの生活基盤を失ったファーブルは、友人の英国人植物学者J.S.ミルの助けでオランジュに転居しましたが、教職にはつけず、そのためやむなく筆一本で生きる決意を固め、書き始めたのが『昆虫記』だったのです。
 もともと文章を書くことは得意だったファーブルは、オランジュにいた9年間に、『新しい数学』『農業のじゃまをする動物たち』『初歩の天文学』『初歩の幾何学』『化学』『オーロラ』『地理入門』など、数学や生物、気象や地理の本を合わせて60冊以上も書いたのです。地理の本には、当時のフランス人にとってはまだ夢の国だった日本のことまで出てきます。ファーブルは、ほんとうに博学多識でした。
 これらの本の中には、教科書や、学校の副読本に指定されて、非常によく売れたものもあります。確かに彼の言うとおり、「アカネの桶から取り出せなかったものを、インクの壺から取り出す」ことができたのです。

 こうして教科書や副読本を書いているとき、ファーブルに、すばらしい考えが浮かびました。「そうだ、昆虫の生活を、同じようにわかりやすく、昆虫を知らない人でも興味をもつように書いてみよう。」もちろん、科学的に厳密なものでなければなりませんが、「狩り蜂は針で獲物の神経をさして麻痺させるのである」などと、ただ結果だけを述べたのでは、ふつうの人にはおもしろくありません。自分が、生きている昆虫と出会い、観察し、さまざまな疑問をもち、さらにその謎を解いていった過程を書き、考え方が発展していったことを示せば面白いはずだ、とファーブルは考えました。
 たとえば、狩り蜂のいた環境、そのときの蜂のようす、獲物のどこをどんなふうに刺すのか、それはなぜかなど、いろいろ実験を工夫して、確かめていくプロセスを克明に描くのです。そして、一つのことがわかると、また次の謎があらわれるのです。そのときどきの、ファーブル自身のどきどきするような気持ち、発見や喜びを、読む人にも伝えたいと思ったのでした。

 そうした情熱をもって、ファーブルはこの家で記念すべき『昆虫記』の第1巻を書き上げました。他にも科学の本を書いては、僅かな収入を得る暮らしとなったのです。オランジュの家には美しい並木と庭がありましたが、ある日家主が並木を切ってしまいました。腹を立てたファーブルは家族で家を出てセリニャンへと向かいました。

 彼55歳のときでしたが、セリニャンの村はずれに畑のついた家を見つけました。これを買って「アルマス(荒れ地)」と名付けましたが、この1ヘクタールの庭について、「わたしが旅をしたのは、たいてい、四方を塀に囲まれた、小石だらけの庭でした。けれどそこには、限りなく広い世界があったのです。何もわざわざ、遠くの国まで、旅にでることはありません。」と記しています。そこはファーブルにとって、理想的な環境で、庭に花園、菜園、果樹園や池を作りました。植物を植えて昆虫の楽園を作り、そこで観察をしながら『昆虫記』を書き続けたのです。経済状態は改善されないものの、ファーブルはここで死ぬまで研究と執筆の日々を過ごし、昆虫記の第2巻から第10巻までを書き上げます。

 当時は帝国主義の時代で、戦争が絶えませんでした。そうした中、ファーブルはサソリを使った実験を行います。サソリが攻撃するのは餌となる生き物だけで、他の生き物とは決して戦おうとしませんでした。不必要な殺戮を行うのは人間だけであり、死について知っているのも人間だけだとファーブルは考えました。そして人間は命の意味を考え直さねばならず、また死を知る唯一の生き物として一生懸命生きなくてはならないと結論づけたのです。

 85歳になっても新聞に「天才餓死せんとす」というキャンペーン記事が掲載され、生活費に苦心する彼を見かねて多くの友人たちが援助の手を差し伸べ、全国から現金が送られてきましたが、彼はそれを受け取りませんでした。なぜ、善意の支援を拒否したのでしょうか。賢人ゆえに、苦を忘れ、楽におぼれることを恐れたのかもしれません。

 1909年から「昆虫記」第11巻の執筆を開始しましたが、体の衰えが目立つようになり中断します。第一次世界大戦の最中の1915年5月、家族に運ばれ庭を一周したのですが、これが「アルマス」の自然を見る最後の機会となってしまいました。

▲ファーブルの墓


1915年10月11日、偉大な科学者にして詩人であったファーブルは、91歳で永遠の眠りについたのです。葬儀は10月16日に行われ、埋葬の際、まるでファーブルを見送るかのようにカマキリなどのたくさんの昆虫が墓石にとまったと伝えられています。その墓石には、「死は終わりではない。より高貴な生への入口である。」と刻まれました。

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