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統一教会員の間違い①「神は働かない」

まず最初にどこから話をするべきか悩みましたが、統一教会での信仰の根幹であるはずの内容を間違って解釈し、指導している人があまりにも多いこの内容から、説明するべきだ、と思いました。
正確な言い方をすると「神は働けない」となります。これについて文鮮明先生はどのように語られたのか、をまずご紹介したいと思います。

 人間が責任分担を果たすことができなかったゆえに、蕩減復帰という怨恨の言葉が出てきたのだということを知らなければなりません。怨恨の言葉が。一番嫌いな怨恨の言葉が出てきたということを知らなければならないというのです。その蕩減復帰路程の時は、絶対に神様も後援はせず、本部も後援せず、一人でなさなければなりません。一人でしなければなりません。助けてあげるようになる時には蕩減にならないというのです。いけないというのです。どうしてですか? 人間の責任分担という原則があるので、その原則において助けてあげることは蕩減にならないというのです。それを助けてあげることができたならば、人間が堕落する時、神様が干渉して堕落しないようにするでしょう? 責任分担があるので、干渉することができなかったのです。人間の責任分担があるために。分かりましたか、何の話か。(はい)。

 レバレンド・ムーンがどんなにどう言っても、神様は愛しているけれども、人間の責任分担を果たす過程において蕩減条件を行う時には、神様は協助することができないのです。私自身がサタンに勝ち抜いていかなければならないのです。サタンとサタン世界に勝っていかなければならないのは、本来のアダムに許された理想圏であったのですが、その理想圏を私が凌駕しなければならないというのです。何の話か分かりますか?

 では、統一教会の経典となる原理講論には、どのように書かれているでしょうか。

第二章 堕落論
第六節 神が人間始祖の堕落行為を干渉し給わなかった理由
(一)創造原理の絶対性と完全無欠性のために
 創造原理によれば、神は人間が神の創造性に似ることによって、あたかも神御自身が人間を主管されるように人間は万物世界を主管するように創造されたのである。そこで、人間が神の創造性に似るためには、人間自身がその責任分担を遂行しながら成長し、完成しなければならない。このような成長期間を、我々は間接主管圏、あるいは、原理結果主管圏というのである。それゆえに、人間がこの圏内にいるときには、彼ら自身の責任分担を完遂させるため、神は彼らを直接的に主管してはならないのである。そして、神は人間が完成したのちにおいて、初めて彼らを直接主管されるようになっているのである。もし、神がこのような成長期間に、彼らの行為を干渉し、彼らを直接主管されるとすれば、神は彼らが完成したのちに初めて直接主管するというその創造原理を、自ら無視する立場に立たれることになるのである。このように原理が無視されるようになれば、同時に、原理の絶対性と完全無欠性は喪失されてしまう。神は絶対者であり、完全無欠なる創造主であられるがゆえに、神が定められた創造原理も、また絶対的であり、完全無欠でなければならない。それゆえに、神は創造原理の絶対性と完全無欠性のために、未完成期にいた彼らの堕落行為に対して干渉されなかったのである。

これは統一教会の根幹の教えとなります。人間は未完成期にいた人類始祖が堕落することにによって、堕落性を帯びた存在となった訳で、そのことによって人間は堕落性を脱ぐことと完成する、という二重目的を持つことになった、ということなのです。
そのため、堕落性を脱ぐことも完成することも、人間自らの意思で、神の力を借りずに行わなければいけない、という事です。
ですから、

様々な問題も献金をたくさんしたら神が協助し解決する、などという教えは微塵もない

という事です。

では、です。メシアは何をしに地上に現れるのでしょうか。統一教会員の中には、文鮮明先生の為に活動すれば世界が変わる、という思想を持っている人も多いのではないか、と思います。
これについても、原理講論にはこのように書かれています。

緒 論
(三)復帰摂理歴史と「私」

「私」という個性体はどこまでも復帰摂理歴史の所産である。したがって、「私」はこの歴史が要求する目的を成就しなければならない「私」なのである。それゆえに「私」は歴史の目的の中に立たなければならないし、また、そのようになるためには、復帰摂理歴史が長い期間を通じて、縦的に要求してきた蕩減条件を、「私」自身を中心として、横的に立てなければならない。そうすることによって、初めて「私」は復帰摂理歴史が望む結実体として立つことができるのである。したがって、我々は今までの歴史路程において、復帰摂理の目的のために立てられた預言者や義人たちが達成することのできなかった時代的使命を、今この「私」を中心として、一代において横的に蕩減復帰しなければならないのである。そうでなければ、復帰摂理の目的を完成した個体として立つことはできない。我々がこのような歴史的勝利者となるためには、預言者、義人たちに対してこられた神の心情と、彼らを召命された神の根本的な目的、そして彼らに負わされた摂理的使命が、果たしてどのようなものであったかということを詳細に知らなければならないのである。しかし、堕落人間においては、自分一人でこのような立場に立ち得る人間は一人もいない。それゆえに、我々は、復帰摂理の完成者として来られる再臨主を通して、それらのことに関するすべてを知り、また彼を信じ、彼に侍り奉り、彼と一つになることによって、彼と共に、復帰摂理歴史の縦的な蕩減条件を横的に立て得た立場に立たなければならないのである。
このように、復帰摂理の目的を達成するために地上に来た先人たちが歩んだ道を、今日の我々は再び反復して歩まなければならないのである。そればかりでなく、我々は彼らがだれも歩み得ず、取り残した道までも、全部歩まなければならないのである。それゆえに、堕落人間は、復帰摂理の内容を知らなければ、決して命の道を歩むことはできない。我々が復帰原理を詳細に知らなければならない理由は、実はここにあるのである。

統一教会員の中には、血統転換儀式、つまり「祝福」を受ければ真の父母と一つになる、つまり重生して完成する、と思い込んでいる人もいるかもしれません。原理講論でもイエス論でそのように書かれている部分が確かにあります。しかし、祝福を受けても「完成」への道は残っているし、堕落性が脱げた訳でもありません。もちろん、罪の根源である「原罪」が取り除かれる、という点は非常に大きい内容です。ユダヤ教の割礼、キリスト教の洗礼を受けても、結婚して生まれてくる子供は「罪の子」であることは変わりはありませんでした。しかし統一教会の「血統転換式」では、生まれてくる子供には原罪はありません。これは非常に重要な事です。このことをもっと統一教会員は重要視し、子女と接し、自らの堕落性を脱ぎ完成への道へと行けるよう、努力すべきだ、と私は思っています。

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