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Good Morning,Vietnam

2023/2/27ベトナム北上ひとり旅2日目
(いずれも現地時間)

アメリカ戦争

明日終日メコンデルタツアーに参加することを考えると、今日がホーチミン市内を巡ることができる最後のチャンスだった。
昨日の夜にビールを飲んだ店のメニューにAmerican breakfastがあったことを思い出し、同じ店で朝食を食べた。

朝から暑いのでセブンでミネラルウォーターを買い、道を渡って9月23日公園のGATEまで歩いた。

「岡本」の存在感がすごい

空港から宿へはGrab TAXIを利用したが、今度はGrab BIKEでバイクの後ろに乗って戦争証跡博物館へ行くことにしたのである。
バイクの後ろに乗って風を切りながらホーチミン市内を移動するのは最高だった。心地よい風が熱ったからだを冷ましてくれる。(Grab BIKEはアプリでBIKEを呼ぶ。運転手からヘルメットを渡されるので被って後ろに乗る。風が本当に気持ち良いのでおすすめ。料金も安く近場だと15,000ドン〜)

戦争証跡博物館

入場料(大人)15,000ドンを払い、僕は博物館の中へと入った。博物館館は3階建てで、それぞれのフロアでベトナム戦争のに関することを紹介している。

日本は直接的に兵を派遣していない国。だが、1965年に初めて沖縄から米海兵隊が派遣されアメリカは参戦した。ベトナムが共産国となると隣国のカンボジア、ラオス、そして他のアジアの国々や中東諸国も次々と共産化されるという「ドミノ理論」からアメリカが介入したベトナムの戦争に、日本はアメリカの後方支援で間接的に関わっていたのである。

枯葉剤による被害
ベトちゃんドクちゃん

2階と3階は多くの写真を用いて、ベトナム戦争中の様子や枯葉剤による被害の紹介がある。ここには載せられないような、米兵が身体が上下バラバラに砕け飛んだベトコンの死体を持ち上げる写真もあった。

枯葉剤後遺症で苦しむ人々

枯葉剤Agent Orange(通称:オレンジ剤,高濃度のダイオキシン(TCDD)を含んでいた)は恐ろしいもので、今なおその被害に苦しんでいる人がいる。博物館の解説によると480万人のベトナム人がAgent Orangeに曝され、うち300万人が被害を受けた。Agent Orangeによる外形的障害、遺伝性疾患、がん等で苦しんでいる人は第2世代で15万人以上、第3世代で3万5千人、第4世代で2000人いる。僕は記帳台で言葉を記してから博物館の建物を出た。

近くにいた白人女性に撮ってもらった

時刻は12時前、強い日差しがジリジリと肌を焼く。博物館のカフェでココナッツミルクを飲んで涼んだ。

ココナッツミルク

ぼーっとしながら、なんだか悲しくなってしまった。僕が小学生の時にベトナムを訪れていた親戚の叔母のLINEでの言葉、

「...」
私達より上の世代にとって韓国は日本の統治を外しては語れないのと同じように私世代はベトナムはベトナム戦争を考えずには行かれない。
今そこにアメリカのナパーム弾から生き延びた人たちが沢山生きているんだよね。せっちゃんや私の母が焼け焦げの死体を踏み越えながら東京大空襲を生き延びたように。
戦争は何が正しいということではないけどそういう人達がいるなかを旅していると言うことは忘れないでね。〔ママ〕

を読んで気付かされることがあった。せっちゃんは世田谷の僕の祖母で95歳、勘が鋭く元気でピンピンしている。(このLINEを受信したのは3月1日朝、フエへと向かう寝台列車にて)
沢木耕太郎の言葉を借りると、ヴェトナムの人々にとってあの戦争は「ヴェトナム戦争」などではなかった。少なくとも北ヴェトナムとヴェトナム解放戦線にとっては、アメリカとの戦争、つまり「アメリカ戦争」だったのだ。

サイゴン中央郵便局

僕は戦争証跡博物館からGrab BIKEでサイゴン中央郵便局へ向かった。

サイゴン中央郵便局

郵便局の中には郵便窓口とお土産屋さんがあり、多くの観光客が訪れていた。僕はポストカードを2枚買い、日本に送った。

中央と両脇にお土産屋さんがある。

建物の前で写真を撮ってもらおうと声をかけた夫婦?(年が離れているような…) が何と日本人で、「僕の写真を撮ってくれるの?」と夫が冗談をいい、「なわけないでしょ」と奥さんがツッコミを入れて写真を撮ってくれた。奥さんはニコンの一眼レフカメラを首からぶら下げていて、プロのカメラマンのようだった。(僕のスマホを渡した夫が「プロのカメラマンに頼もう」と言ってそのままスマホを奥さんへ渡した)


時計を見ると13時近かったので昼食を求めてドンコイ通りを歩くことにした。

ドンコイ通りには洒落た店、高級ブランドの店舗が立ち並ぶ
Mandarin Oriental,Saigon

通りを歩いていると、マンダリンオリエンタルのロゴが見えた。実はMandarin Oriental,Bangkokでランチをしたことがある。エントランスが素晴らしく、天井から吊るされている花の飾りが綺麗だった。Mandarin Oriental,Bangkokは映画「サヨナライツカ」(原作:辻仁成)の舞台だった。(僕は日本に帰ってきてから知り、去年映画を観た)不倫をテーマにしたもので、西島秀俊、中山美穂、そして僕が大好きな石田ゆり子(だから面食いって言われちゃうのかな...)が出演している。

ネット上での評価を見てみると、低く評価されているのだがウォン・カーウェイの映画のような映像で僕は好きだ。セックスシーンが本当にエロい。俳優さんの演技力は本当に凄いと思った。(先日Netflixで欲望の翼、花様年華、2046が配信されていた)
劇中に出てくる詩もよい。

サヨナライツカ
いつも人はサヨナラを用意して生きなければならない
孤独はもっとも裏切ることのない友人の一人だと思う方がよい
愛に怯える前に、傘を買っておく必要がある
どんなに愛されても幸福を信じてはならない
どんなに愛しても決して愛しすぎてはならない
愛なんか季節のようなもの
ただ巡って人生を彩りあきさせないだけのもの
愛なんて口にした瞬間、消えてしまう氷のカケラ
サヨナライツカ
永遠の幸福なんてないように 永遠の不幸もない
いつかサヨナラがやってきて、いつかコンニチハがやってくる
人は死ぬとき、愛されたことを思い出すヒトと愛したことを思い出すヒトにわかれる
私はきっと愛したことを思い出す

ドンコイ通りの端、サイゴン河が見えるところまで来た。ドンコイ通りを挟んでHotel Majestic Saigon(沢木がホーチミンにいたときに滞在したホテルである)の反対のCa Phe Co Ba Dong Khoiというお店で昼食を取ることにした。

フォー

ホーチミンについてからベトナムらしいものは昨日のバインミーしか食べていないことに気づきフォーを食べることにした。奥の皿に乗っている骨は中の脊髄を食べるようで、実際に口に入れるとホロホロととろけて美味しかった。

メニューの写真の色に惹かれて注文した飲み物。何か花のエッセンスが入っていて爽やかな甘さだった。
席の横が水槽になっていて熱帯特有のビビットカラーの小魚達を眺めていると、ベトナム人のお兄さんに靴を指さされた。

手にはミンクオイルの缶とブラシ、そして補修剤のチューブが入った木箱を持っており靴磨きの人だった。実は朝食をとっている時も同じようなお兄さんに靴を磨かないかと尋ねられていた。(何人もの靴磨きの人がブロックをグルグル回っているため、3分に1回のペースで靴を磨かないかと尋ねられた。)
なぜ他の人には尋ねないで僕だけ尋ねられるのか疑問に思って周りを見渡すと、欧米人の観光客はサンダルかメッシュ素材のスニーカーを履いていた。僕はオニツカタイガーの本革のスニーカー(オニツカタイガーの靴は歩いても疲れない)だったので、なるほどなと思った。

サイゴン河を眺めながら…


食べ終わった後、僕は統一会堂まで歩いた。

統一会堂

チケット(35,000ドン)を購入して入場すると、楕円形の芝生の庭園とシンメトリーの建物が目に飛び込んできた。

統一会堂

1975年4月に南ベトナム解放軍のこの戦車がフェンスを超えて統一会堂に突入したことでベトナム戦争は終結した。

戦車

統一会堂の1階に入ると内閣会議室などがあり、どの部屋も素晴らしい内装だった。

内閣会議室


3階は大統領家族のプライベートスペースとなっており、映画館もある。タンソンニャット国際空港へと通じる大統領が退却するための隠し通路もあるらしい。

なんと映画館が!
Game Room。雀卓がある。

屋上には南ベトナムからの脱出用ヘリポートがある。展望台からはまっすぐ伸びるレユアン通りが見え、戦車が一直線に並んで迫ってくる様子を想像した。

大統領はここから、戦車を見たのだろうか

道順に沿って屋上から地下へ行くと、そこは軍事施設となっていて暗号解読室や、通信室があった。

統一会堂を出た後、同じ敷地内にあるTrung bayという建物に行き”From Norodam Palace to Independence Palace 1868 - 1966”という歴史を紹介する展示を見た。そして僕はGrab BIKEでヤンシン市場(Cho Dan Sinh)へと向かった。

ヤンシン市場

世界の歩き方では、

ベトナム戦争中、従軍記者が取材に出かける際に、備品を買いに走ったところがこの市場。数は減ったが、今でも軍隊払い下げ品を売る店が並ぶ一角がある。
世界の歩き方 ベトナム2023〜2024

と紹介されている。

ヤンシン市場3番入口

照りつける太陽でバテてしまい、ヤンシン市場を見る前に近くのカフェでアイスコーヒーを頼んだ。バイクに乗っている時に、2階にある見晴らしの良さそうなコンカフェ(Cong Ca Phe)があったが早く喉を潤したかったのである。

アイスコーヒー

暑さにやられている様子を見ていたのか店員さんがジャスミンティーをサービスしてくれた。

とても美味しいジャスミンティーだった

アイスコーヒーとジャスミンティーで生き返った後市場へと入っていった。
ヤンシン市場はミリタリーグッズだけでなく、工具や電化製品を扱う店が密集していた。

ヤンシン市場の様子

ブラブラ回っていると、ミリタリーグッズのお店を見つけた。ベトナム戦争時に実際に米軍が使用していたものが並び、僕がじっくり品を見てZippoライターを手に取ると店のおじさんが声を掛けてきた。
「日本で買うと高いよ」日本人であるとすぐに分かったらしい。ミリタリーファンだと思ったのか、Zippoのカタログを出し製造年などの解説をしてくれた。(ベトナムZippoであることを示したかったのだろう)
店の右側のZippoは偽物、左側のZippoは本物であり、偽物は磁石にくっ付くが本物はくっ付かないということを棒磁石を使って実演してくれた。
僕は本物のZippoの中から一つを選び(SAIGONと彫られているライターが欲しかった)値段を聞いた。「45ドル」と言われて悩んだが、交渉して43ドルでZippoライターを手に入れた。(ベトナムに来る前に叔父から貰った1万円分の米ドルはベトジェットエアの機内食とベトナムZippoに変わり、手元には10ドル程残った)

ベトナムZippoを買ったお店と店主のおじさん
WHERE’S THE SOAP

買ってから店のおじさんに、「本物のソープならあっちにあるよ」と言われた。僕は笑って別れたが、ベトナムに来て女性を漁っている男たちがいるのかと考えると悲しい気持ちになった。

ヤンシン市場の場内図。閉まっている店も多い。

市場の他のお店を見て回った後、僕は宿へと戻った。
宿の自分の部屋に入ると、昨日の夜にランドリーに出して洗濯物が綺麗に畳んでベットの上に置かれていた。

実は昨日宿に着いた時に、ファングーラオ通り沿いに洗濯屋さんがあるのを見つけていた。Tideの、コストコの中のような香りがした。周辺のホテルのランドリーはここを利用しているようで、僕は行きの飛行機で汚れてしまったTシャツと他の洗濯物を出していたのである。(いつもは部屋でシャワーを浴びながら自分で洗濯物をして干す。ただTideとダウニーの香りに惹かれたのだ。)
シャワーで汗を流し、日本から持ってきた「こだ割り」の醤油煎餅をつまみに333(バーバーバー)で喉を潤した。

飲みやすい。ハイネケンっぽいのかな?

ベットで寛いでいる時に、買ったZippoライターの裏側に彫られている言葉が気になった。

調べてみると、ジミー・ヘンドリクスの言葉のようだった。

WHEN THE
POWER OF LOVE
OVERCOMES THE
LOVE OF POWER
THE WORLD WILL
KNOW PEACE
Jimi Hendrix,1970

愛の力が権力愛に打ち勝ったとき、世界は平和を知る...か。ジミヘンは高校生の時にPurple Hazeなどエレキギターでリフを練習していたので、何だかこのライターが気に入った。煙草は吸わないけれど...(シーシャはたまに経堂のクレイドルという所で吸うことがある。そういえば年末にラグビーの先輩たちに僕とM沢が下北での飲み会で奢ってもらい、その後シーシャ2に行った。その時はありがとうございました!楽しかったのでまた誘ってください!)
インサイドユニットが引き抜けなかったので、日本に帰ってからZippoの永久無料保証の修理に出そう。

チョロン

夕飯をどこで食べようかと悩んでいた。ホーチミン市内で遠くへ行けるのは今日まで。僕は「一号線を北上せよ」に出てくるビンタイ市場へとGrab BIKEで向かった。
チョロンとはベトナム語で大市場(チョ=市場、ロン=大きい)という意味で、小説の中でも様々なものを取り扱う店が密集し、通り抜けられないほど品物が並べらえていると書かれている。

ビンタイ市場

市場に着き中に入ってみると真っ暗だった。どうも開場時間が7:00から18:00までで閉場したあとだったのである。

ビンタイ市場の中

ガッカリして外に出ると、市場の前の広場で車の乗り物のアトラクションをやっていた。

親子で乗っている様子を眺めていると、自分一人寂しくなった。せっかくチョロンまで来たのにこのまま帰るわけにはいかないと思い、近くのチャータム教会まで、布屋街抜けて夜道を歩いた。1区に比べてどこか退廃的な雰囲気である。

チャータム教会

教会は真っ暗だったが、蝋燭が灯されており手を合わせて拝んだ。目を開けると横で現地のおばさんも手を合わせていた。

時計をみると19:30。教会の前の薬局からGrab BIKEに乗りチョーライ病院の北側の、小さな食堂が並ぶというレダイハン通りへと向かった。

レダイハン通り

僕は現地の人が多く入っていた店に入ることにした。注文方法が分からず店の前でモジモジしていると、声を掛けてきて、食べたい料理を指さしてというようなジェスチャーをされた。様々な種類の料理が盛られている中で、3種類ほど選んで席に着いて食べた。

65,000ドン

僕はパクチーがダメなのだが、変に香辛料がこいていないためどれも美味しかった。(川魚は多少泥臭さがある。左上の赤土色の料理は匂いがキツくて食べられなかった)
お店にいる全員にジロジロ見られて恥ずかしかったが、渡されたフォークとスプーンではなく箸で食べ始めると、「何処から来たの?」と店員のおばさんに聞かれた。日本だと応えると、「ニャパン...ニャパン」と呟きながら僕に食べ続けてと促した。
お店が閉店の作業の最中に食べ終わり、お会計を済まして病院のゲートからBIKEを拾い、夜のホーチミンの街を走っていった。

9月23日公園のGrab BIKEの乗り場から

9月23日公園のゲート前で降ろしてもらい、明日の朝食のたまごサンドとヨーグルト、アクエリアス、虫除け、そして疲れていたので目に留まったROCK STARというエナジードリンクをセブンで買って宿へと戻った。

ROCK STAR


シャワーを浴びて涼みながらROCK STARを飲んだ。(寝る前に飲まなければいいものを、飲んでしまったので午前1時まで眠れなかった。馬鹿だな俺。)
長い1日。
明日は朝からメコンデルタツアーだ。

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