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感激と感動はどう違うのか

定例読書会での学びのシェア。
テキストはいつもと同じく、次のもの。

『修身教授録』森信三 著 致知出版社

テーマは第2部第9講「情熱」。
P.338の1行目、次の文章が話題の中心となった。

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(引用開始)
すなわち感動は深くして内面的であるが、感激はこれに比べれば浅くて外面的なものと言ってよいでしょう。
そもそも真に深い感動というものは、外に現れるものよりも、内にこもるものの方が大きいのです。
(引用終了)
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感動と感激はどう違うのか、ということである。
意味が似ているように思える言葉は、つい混同して使ってしまいがちである。
(それは森信三先生自身ですらもそうであると仰っている。)
この二つの言葉の違いは何なのかと、あれこれ皆で頭を巡らせた次第である。

辞書を引けばそれぞれの意味は載っている。
しかしそこに留まり安心するのではなく、自分の実感・体感・本音としてどう捉えるかである。

「感激は表面的で、感動は内面的」
「感激は安っぽく表れることもある」(例:高価なプレゼントをもらった、有名人に会って話せた、等々)
「感激は自分(あるいは自分に属したもの)の事でしか感じ得ないが、感動は他人の事であっても起き得る」
「感激も、その背景を考えると感動になるのではないか」
等々、様々な意見が出た。

このように、意味がわかっているようでわかっていないものを言語化する過程が大切である。
脳が汗をかくような感覚で、大いに刺激される。

これはそのまま、日常の子どもへの教育にも必要である。
意味をただそのまま教えたり調べたりするだけではなく、しっかりと自分の頭を使って考えるよう促す。
面倒だが、それこそが「わからぬ」に耐えながらも進む、忍耐力の鍛練でもある。

「玉磨かざれば光なし」という。
言葉を知った気になってくるほど、学年が上がれば上がるほど、つまり大人にも大切である。
こういった行為こそが、修養になる。
無知の知の自覚を促すことにも繋がる。

そしてそれは、感謝にも繋がっていく。
「当たり前」と思っていることには感謝をしないからである。
当たり前の中に感動を見出すことで、気持ちは感謝へと繋がっていく。

私自身は、次のように例えて伝えてみた。

感激は激しく燃え盛る炎。
外から見ても派手で、燃えているのがはっきりとわかる。
一方で、感動は炭火。
一見すると静かで火がついていないようで、内実は超高温であり、長く燃え続ける。

新聞紙や枯れ葉を燃やせば一瞬激しく炎が立つ。
しかしすぐに消え、燃えた後の灰がそこら中に散る。
風情としても「わろし」である。

火に油を注ぐとなおわかる。
激しく周囲を焼き尽くして終わる、刹那的な炎である。

炭火は違う。
じっくりと時間をかけて熱を溜め込んだ後、赤々と静かに内側で燃え続ける。
風を送り込みさえすれば、激しく炎を出す力もある。
内なる静かな炎である。
そして周りにいる人々を、じんわりと温めてくれる。

学び一つとっても、感激は刹那的である。
やはり感動が必要である。
心がぐぐっと動く感覚。
それがあってこそ、情熱をもって学び続けられる。
感激だけでは、たとえその場の気持ちが最高に盛り上がっても、長くは続かない。

感動するにはどうするか。
あらゆることを当たり前だと思わないで、気付くことである。
一つの物事の背景に思いを馳せる。

究極的には、生きていること自体が感動の宝庫であり、詩人や俳人はこれを体現している。
この第9講の冒頭に引用されている、島木赤彦の句は次のものである。

ここにして遙けくもあるか夕くれてなほ光ある遠山の雪

日常的に感激まですることはなけれど、感動であれば身の回りにいつも溢れている。
思い起こせば、ここ数日でもたくさんの感動があった。
学び続け、感動できる感性は一生磨き続けたい。

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