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子どもと抱っこ

4月に学級懇談会があった。
そこで、次の絵本を紹介し、読み聞かせをさせてもらった。

『ねえ ママ』こやま峰子 作/平松恵子 絵 金の星社(2011)

以前、神戸の多賀一郎先生に紹介していただいて知った絵本である。

子どもは、抱っこして欲しい。
これは子どものもつ本能である。
人は愛情がないと生きていけない。

抱っこは、食事と同じで、いっぺんに溜めることができず、日々必要になる。
だから、少し時間が経ってからも補充されずに「空腹」な状態が続けば、いずれ「飢餓」状態になる。
そういう危機的状況になると、その子が本来しないような、いじめや怠学などの「異常行動」が出るようにもなる。

学校の子どもたちへの「抱っこ」は、基本的に教員にはできない。
特に今の時代、下手なことをすればすぐにセクハラで訴えられる時代である。

また、そんなリスクをとったところで、いずれにしろ補充はできない。
この点、教員には完全代替ができないのである。
例えるなら、それはインスタント食品のようなものである。
相手の空腹をとりあえず満たすことはできるかもしれないが、栄養の面で十分とは到底いえない。

子どもには、抱っこが必要である。
別にそれは、実の親だとか血の繋がりがどうこうという点が本質なのではない。
里親であってもいいし、祖父母であってもいい。
自分にとっての「最高の安全基地」における補充であればいいのである。

実は、懇談会前日に道徳の授業でこの絵本を子どもたち相手に扱った。
子どもは、直感的な感想として、結構辛辣なことを言う。
「ママ」に対し「冷たい」とか「わがまま」とか結構言う。

しかし、少し考えるだけで、すぐにそれは違うとわかる。
子どもは、経験上知っている。
「忙しい」という状態は、心優しい人を別の人間であるかのように変えてしまうということを。

子どもは、大人が何に「忙しい」のかわからない。
一体どこに、「忙」=「心を亡くす」ほどのことが起きているのか、理解できない。

子どもは、なぜ「いいこ」にしていたのに、叱られたのかわからない。
「親の心子知らず」の言葉の通り、その心配の深さはなかなか伝わらない。

授業ではそれを「いいことのすれちがい」という言葉で教えた。
親は、子のためを思って「いいこと」を頑張っている。
子どもも、親に喜んで欲しくて「いいこと」だと思ってやっている。
しかし、そのニーズが食い違うことが結構ある。
特に親の側が忙しい時は、尚更である。

必要なのは、大人の側の心の余裕である。
忙しすぎる日常に追われていて、とてもではないが余裕などできない。
その通りである。

だからこその、読み聞かせや、抱っこや、遊びなのである。
母親の抱っこや父親のお馬さん遊びのほんの数秒、数分が、子どもの一生にとってどれだけ支えになるかわからない。
ごくつまらない言葉だが「コスパ」や「タイパ」というような面で考えても、これは圧倒的である。

そんな内容を懇談会で伝えてみた。
道徳ノートには、親へのメッセージ「本当はして欲しいこと」が書いてある。
その内容はそれぞれだが、親が子どもの心の奥底の願いを知ることは、深い意味があると信じている。

その後、グループに分かれて懇談していただき、互いの親交を深めていただいた。
この辺りは普段のセミナーの経験が役立っており、自分はグループをひょいひょい渡り歩いて話に混じらせてもらった。
どのグループにも場を和やかにして進行してくださる方々がいて、有難い限りだった。

またこれは懇談会では話していないが、これは教師にも当てはまる話である。
忙しさに追われて、本質的に大切な関わりが欠けていないか。
遊ぶということや話を聞くということは、学校における必要な基地である教師から子どもへの「補充」である。


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