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#66 たくさんいろんなものを詰め込んでも、やってみないことには価値は出ない

現在は、情報化社会だと言われます
たしかにあらゆる分野のあらゆる情報に、私たちは一瞬でアクセスして、
読んだり、観たり、聞いたりすることができるようになりました

本を読んだり、いろんな人の話を聞くのは、
もちろん大事なことだと思います

しかし、あまりにもたくさんの情報が流れているので、
どれを選択すれば良いのか迷ったり、
どれが正しいのかわからなかったりします

さらに、いくら自分の興味関心がある分野の本を読んだからといって、
それができるようになるとは限りません

例えば、野球の本をいくら読んでも、プロ野球選手にはなれません
有名な方のレシピ本を読んでも、美味しい料理は出来上がったりしません

私が投稿している、仏教の教えや禅も同じで、
私が書いていることやいろんな本を読んでも、お経を毎日唱えていても、
やはり、悟りが得られたりしません

つまり、何かを学ぶこと、何かを考えることと、
何かをするということ、実際にすること、
これは似ているようで、全く違います

私がここでいつも書いているぜんの教え、
今でも世界中で学ぼうとされる方が多い、この禅の教えの中に、
不立文字ふりゅうもんじという言葉があります

これは日本でも馴染なじみ深い、達磨だるまさんがおっしゃった言葉です

これは漢字の通りに、文字を立てないということです
かんたんに言えば、ぜんや悟りの境地というのは、
文字にすることができないという意味です

ですから私も、これまで60以上このnoteに文章を書いてきましたが、
誰かの心に響いているところがあるかもしれません
しかし全く響かないところもあるはずです

もちろん学ぶ上で、知識を得るのは非常に大事です
珈琲を淹れる時でも、道具の種類、お湯の温度、注ぎ方などなど、
すべてに意味があります

ボクシングにしても、こうしてジャブを打ち、
ガードが開いたところにストレートなど、いろんな動き方に意味があります

そうして、本や先生が話したことを一生懸命覚えても、
実際にお湯を注いでみないと、どんな味の珈琲になるかわかりませんし、
リング上で実際に相手と拳を交えないと、
どうパンチが来るかもわかりません

これと同じように、禅にもたくさんの所作や作法や言葉があります
もちろん禅宗のお坊さんであれば、私たち一般の方と違い、
禅についてたくさんのことを知っていると思います

だからと言って、たくさん知っているからお坊さんがみんな、
心の安心あんじんに至っているかというとそうではないです

何かを学び、そして練習し、実際に高いレベルになった人が、
今度はその知識や技術を次の世代に伝えようと、
いくらわかりやすく教えても、聞いている側が、
ただ聞いているだけであれば、同じようなレベルの人は育ちません

人生というのは、名前ではないです
常に動いています

そして私たちが一番わからないことは、何かの計算だとか、
何か周りのことではなく、自分のことなんです

自分のことがわからないから、何が必要かわからないんです
つまり、どの情報が自分に必要なのかわからないんです

ですから、たくさんの売れている本を読もうとする、
あるいは、有名だとされている方の教室やサロンに入ったりします

そのように知識をいくら自分に詰め込んだとしても、
なにも変わっていきません

自分が、自分自身で行ってみて、つまりやってみて、
生きるというのはこういうことなんだと、体感することこれが修行です

自分自身が行うことができるようになる、
これをぜんでは、行事ぎょうじといいます

自分が実際に行事ぎょうじができるようになるには、
本を読んで、あぁ良い本だったではできません
自分自身で実際にやっていかないと学べません

その為に師匠、あるいは先生を見つけるといいのですが、
よく自分の周りを観てみてください

こんな人になりたいなと思う人がいるはずです
自分の道を歩いている人です
そうした人は、自分よりも年が上だとか、
良い学校に行っていたとかは関係ありません

自分の道を歩んでいる人は、自分がわかっているので、
選択も出来ますし、自分が必要な情報もわかっています

そうした方の真似でいいから、やってみるんです
これが師匠を持つということだと思います

もしかすると、自分よりずっと若い人かもしれません
自分がずっと避けていた人かもしれません

私たちは、サイズの意味ではなく頭が大きくなり過ぎています
身体も使ってこその人間です
少しずつでもいいんです、実際にやってみませんか?

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