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ある愚かな芸術家の自画像ー早すぎる自伝ー#5

私と労働


私は中学校3年生の時から、アルバイトを始めました。

母は、守銭奴みたいな人で、私が欲しいものは買ってもらえなかった。

中学生の頃、インベーダーゲームが登場して、パソコンのNECのPCー8001シリーズが流行り、自分でパソコンのプログラムを打って、ゲームを作ることが自分は好きでした。その当時は雑誌にゲームのプログラムが載っていて、BASIC言語とマシン語で組み立てていくのが流行りましたが、私の家では買ってはくれませんでした。

最初新聞配達を始めましたが、雨の日は大変で、新聞がずぶ濡れになり、自分もびしょびしょでした。

高校生になってから、夏休みに父の会社の染物の工場で、布にシルクスクリーンで色のテストをする部署に入り、布を染めたり、工場の機械で作業しました。

同じ職場の人で、機械に腕が巻き込まれて、片腕を失った人がいて、私は恐怖を感じて、工場が嫌いになりました。私自身も作業中機械に指を挟まれそうになり、危険を感じました。この頃から、労働についての哲学を学びたいと思うようになりました。

私は大学を病気で留年したことで、まともな就職ができず、美術家志望だったので、アルバイトを、病気になりながらも生業にしました。

中華料理屋の皿洗い、ゴルフ場のレストランのウエイターや皿洗い、祇園のカラオケバーのバーテンダーや、ミドリ電化の商品の配送のバイト、遺跡の発掘調査の土方作業や、松下の倉庫の商品を検品するピッキングの仕事や、トヨタの中古車の洗浄作業、無印良品の、商品の清掃や、休憩所の清掃、とにかくあらゆるバイトを経験しました。

私は、仕事のストレスが落ちなくて、どんどん溜まってしまって、ボロボロになったところでやめてしまいました。バイトは過酷を極めました。一日働いて、疲れが出てくると、ジストニアという、目が上に吊り上がる現象が起きて、仕事ができませんでした。これは薬の副作用によるものです。

私は現在、働く気力がなくて、生活介護の事業所、茨木市のさきはう(幸福の古語)と、Aterier con・ton  アトリエ コントン(混沌)に通っています。極度の労働によって、働けなくなりました。

今は生活保護を受けて、生計を立てています。

労働によって経験したことは、どうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)が多くて、やる気が失せて、辛い人生でした。

個展をするためのお金を捻出することができなくて、美術家としてのキャリア形成ができませんでした。

私の人生は資本主義に潰された。ここはエジプトでした。奴隷みたいな生活でした。私は、女性哲学者のシモーヌ・ヴェイユが好きで労働に関する思考は参考になりました。マルクスを学ばないと、これから先には進めないと考えています。共産主義が国家規模ではなく、共同体の原理としてですが。

しかし、唯物論は信じられないという思いです。私には心霊体験がたくさんあるからです。唯物論者は、心霊体験は脳のバグだという。しかし唯物論には弱点がある。

唯物論では倫理が疎かになっていた。ロシア、中国の非人道的な大量殺戮は、唯物論と倫理は相容れないということを表している。

唯物論者の言う倫理は、自分が死にたくないから人は殺さないと言う、およそ愛のない言葉を言ってくる。

唯物論者に欠けているのは隣人愛であり、見返りのない愛である。すべてを金の力学で国家規模まで拡大しても、人はついていけない。


聖書と慈悲の精神


神とは何かを説明するのは難しいことです。

しかし聖書には神の性質が書かれています。

それは、ヤハウェの言葉で、『私は自分が恵むものを恵み、自分が憐れむものに憐れみを示す』と言っています。神は人を選んでいるんです。

ヤハウェは慈悲の総体でモーセにシナイ山上でトーラーを与えた。

トーラーとは、ヤハウェは、石の板にトーラーと掟を置いたと言うようにトーラーが律法という言葉は、キリスト教解釈による誤訳で、本来は、方向性、指示で、どちらへの方向かと言うと、慈悲へ心を方向に向けよと言っています。

トーラーで一番重要な言葉に「子羊の肉をその母親の乳で煮てはならない」つまり残酷なことをしてはいけないという言葉があります。先にアベルとカインについて書いたように、聖書において善とは慈悲ある行いないをしなさいと述べています。

聖書においては無慈悲が罪です。これはブッダよりも前進しています。

この辺りで、私の自伝は書き終わります。

私はどのような仕事につこうと芸術家である事を辞めたわけではありません。

芸術で食っていくには難しいですがこれが天職でこれしかできないのです。

多くの詐欺的な自称芸術家がいますが、彼らは忘れられていく。

私はオリジナルの芸術家です。

天才だとも精神科医師の先生たちに言われたこともありましたが、天才では食っていけない。それに天才とは19世紀の概念で、私よりも知識の量が多いパラノイア的な秀才が日本には大勢います。

私の大学時代の芸術の師だった木版画の世界的権威だった黒崎彰先生は
「俺が教えた中で優れていたやつは西川だった」という言葉を残して死にました。 
先生が紫授褒章を天皇からもらってから、近づきにくくなった。
厳しい先生でしたが優れた先生、偉大な巨匠でした。

私は人間関係に恵まれた。いい人たちに出会えた。家はごく普通の貧乏家庭でしたが、これから先生の期待に応えて先生を乗り越えていく仕事をしていきたいと思います。先生の作品から学ぶことはたくさんあります。

皆さん、長い自伝に付き合ってくださりありがとうございました。
普通の人の自分史よりも濃い内容だと思います。
まだ私は52歳、半自伝です。
作品を発表する場は経済的貧困ですので、あまり作品を表に出してないですが、
これからも継続して制作を続けて行きます。
皆さんよろしくお願いします。

 

 


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