MRのカルテ

MRのカルテ (No.17)

医療ライターの三浦秀一郎です。MRのいいお話を連載します。お読み頂ければ、光栄です。(尚、本文はフィクションであり、実在のいかなる団体・個人等ともいっさい関係ありません)


〇 ドクターの女 (カルテNo.17)

「佐々木さん、夜8時、内科部長が一緒にごはんを食べたいと言ってましたよ。何か相談ごとがあるみたいです。グラントホテルのロビーで待っててくださいとのことです。すみません、宜しくお願いいたします……」

 と外来ナースから突然、小さなメモを渡された。巨乳で院内ナンバーワン美女と評判のナースからの伝言である。佐々木はなんの抵抗もなく「分かりました……」と平静を装いながら、メモをさっとポケットにしまい込んだ。そして念のため、周りに他社MRがいないかを確かめた。

 内科部長の相談となれば、ことは重大である。最近の付き合いは特にトラブルもなく、精一杯奉仕をしている。また各学会の情報も随時提供は行っている。全くミスはない筈である。それなのに会いたい、ということはいったいどういうことなのであろうか。深く考えはじめると、益々、不安になってくる。

 佐々木は出張時、グランドホテルを常宿としている。さらに、このホテルは他社MRも頻繁に利用している。ビジネスホテルの要素もあるが、研究会・講演会も意外に多く開催され、格式の高いホテルの位置づけとなっている。また、最上階の展望レストランとラウンジバーは遅い時間まで営業しており、愛を語り合う二人にとっては最高の隠れ家となっている。

 佐々木は、15分前にロビーで待機し、隅にあるソファーから業界関係者がいないかを絶えず注意を払っていた。約束の5分前になった。突然、例の外来ナースが現れたのである。服装は、ややフォーマルな感じのブルーのスーツ姿である。ヒールはそう高くない。外来で受ける彼女の印象とはかけ離れた姿に佐々木は一瞬、ドキッとした。

「こんばんは、先生、少し遅くなるようです。上のレストランで食事しながら待っててくださいとのことです……」

 佐々木は言われるまま、彼女をエスコートして、エレベータの最上階のボタンを押した。静かな無言の二人をエレベータは滑るように上へと運んでゆく。

 適当に食事をオーダーし、軽めのワインで乾杯をした。内科部長がどのくらい遅くなるかは、はっきり分からないという。しかし、大事な話ということなのでまさか酔っぱらうわけにもいかない。中途半端な緊張感が続く。

 以外にも、彼女との会話ははずみ、時間の経つのも忘れそうな感じである。1時間半が経った頃、彼女の携帯がブルブルと振動し始めた。

「先生からです。ちょっと、失礼します……」

 と言いながら、彼女は席を立ち、レストラン入り口のエレベーターホールに向かった。

「佐々木さん、先生、急用ができたとのことです。具合の悪い患者さんが一人いて、夕方から、いろいろ検査をやってましたから……。すみません、お詫びに私にご馳走させてください。お願いします……」

 佐々木は、携帯がブルブル振動し始めた頃から、なぜか内科部長のキャンセルの期待と、このナースとの弾んだ会話から不謹慎な欲望が膨らんでくるのを、抑え込むのに必死であった。

 二人の間の空気が一変し、彼女は追加の料理と少し高級な白ワインのボトルをオーダーした。ワインは、ドイツワインの白で、女性好みのやや甘めの濃厚な種類のものであった。

「大分酔ったみたいです。少し、お部屋で休ませてもらっていいですか……」「ああ……、いいよ」

 と佐々木は軽い返事で、エレベータの自分の階ボタンを押した。頭の中では、まだ内科部長の用件が気になっている。あんまり酔っていない証拠である。

 自分の部屋に入ると、彼女はベッドに倒れ込んだ。スレンダーな体型と似合わない巨乳が目に痛い。佐々木は目を逸らした。すると、彼女はむくっと起き上がり、佐々木に抱きついてきた。佐々木の記憶はそこで完全に途切れた。

 朝、目覚めると彼女の姿はなかった。昨夜のあれは夢だったのかと思い、シーツに手を潜り込ませると、まだ温かみが残っていた。夢ではなかったのだ。遠くのテーブルの上にメモらしきものが見える。

『ありがとうございました。楽しい夜でした。先生には、内緒にしてください。先生の相談事はお忘れください』

 えー、いったいどういうこと―。早朝のボーとした佐々木の頭脳がフル回転をするも、読解には至らない。

「おーい、佐々木、実績がないぞ―、どうしたんだ―」

 とマネージャーの加藤から事務所に出社した途端、呼び出された。何やら事件が起こったらしい。

「おい、佐々木、えらいこっちゃ―。県北の組合病院のM製剤の発注が止まったぞ―。競合Sが出とるぞ―。どうしたんだよ―。何かあったか―」

 マネージャーの指摘を受け、佐々木は青くなってすぐにJD-NETデータとIMSデータの付け合せを始めた。組合病院の関連製剤の市場は、トータルで200v(バイアル)/月である。3社が採用されており、佐々木は約半分の100vを抑えている。その実績は月度400万で、病院別にみても県内ベスト10に入っている。主な使用科は、外科、心臓外科、脳外科、小児科、内科である。その中でも内科は激戦の科であり、感染症1例1例をその都度、担当ドクターと製剤の使用方法を打合せしながら投与を確認していく。それが実績につながっている。他社2製剤は、残りを二分している。絶対、手を抜くわけにはいかない重要な科である。

 月初の注文がMゼロに対して、Sがなんと100vの実績となっている。佐々木は「なんだこれは、知らんぞ―。どうしよー」と呟きながら、競合相手の活動情報をチェックした。特に科別訪問頻度とPR内容に変化は見られない。しかし、現実は発注ゼロである。マネージャーと打合せ後、リース車を飛ばして早速、院内調査に入った。

 各キードクターに面会するのだが、症例がないとの返答ばかりである。何かがおかしい。何かが起こっている。しかし、原因がつかめない。

 JD-NETは、年間7億6,600万件のデータ交換件数を誇る医薬品業界のEDI(Electronic Data Interchange )である。1988年(昭和63年)に会員企業256社でスタートした医薬品メーカーと医薬品卸との間の受発注やマーケティング等に欠かせない医薬品業界の基幹インフラとして、25年以上にわたって安定稼働を続けてきたシステムである。今では、会員数524社まで増えている。

 平成14年、薬事法が改正され、メーカーの生物学的製剤(血液製剤)のデータ保管は30年間とされた以降、JD-NETは大いにその機能を発揮している。

 一方、医薬品メーカーには『IMS』というキーワードがあり、誰もが知っている、かけがえのないパートナーが存在する。1954年、ドイツで創業したIMS Healthは、1964年日本法人としても設立され、医療領域のさまざまなデータを収集し、価値のある情報に加工して、有効活用できるようサポート・サービスを行う企業としてスタートした。このデータをもとに、各医薬品メーカーは新たな戦略・方針・変革を行い、同業者との差別化を推進している。

 当月の発注はゼロである。それに対して競合製品の実績は順調である。また数人のドクターの処方は確認しているが、それは院内在庫から動いている。結局、数量低下の原因が全くつかめない。煩いマネージャーの加藤からはやんや、やんや小言をきつく連発される。

 実績低迷が続いて三ヶ月となったある日、突然、内科部長から連絡が入った。

「佐々木君、ちょっと相談事があって、明日、グランドホテルのロビーで会えないかな―。夜8時頃にしてくれるとありがたいけど……」

 佐々木は二つ返事で了解をした。そして、佐々木は様々な展開を考えた。しかし、予想できるものは全く思い浮かばない。半分、諦めムードになった。既に計画から1,200万はかい離している。今期、計画のカバーはいくら頑張っても無理であろう。情けない話である。

 夜8時過ぎに約束通り、内科部長がホテルのロビーに現れた。茶系のスポーツ・ジャケットがよく似合う、紳士に見える。

「よう―、忙しいのに呼び出してご免よ。上のレストランで一緒に飯でも食べようか。いいだろう……」

 佐々木は「はい、結構です―」と返答し、後ろからついてゆくことにした。内科部長は、お勧めのコースを二人分オーダーし、白ワインも追加した。佐々木は緊張しているわりには、白ワインの美味しさがすきっ腹に落ちてゆくのが分かった。

「佐々木君、今回いろいろあってね。君には少し悪いことをしたようだ。そのことをお話しなくてはいけないと思って、連絡を入れたんだ。但し、今日のことは、ここだけの話にしてもらえないかな……。お願いするよ―」

 と言って、コースが一通り終わると、かなりの時間をかけて内科部長は語り始めた。そしてそれは佐々木が初めて仕入れる、とんでもない話であった。

 まず、例の外来ナースがしつこい佐々木に誘われて、食事と一晩、ホテルに泊まったことを内科部長に洩らしたこと、そして、それに部長が腹を立ててM製剤の使用制限を指示したこと。予定は半年間だったという。

「ところが、先日、彼女が退職したいと言ってきたんだ。働き者で気立てがよくて、患者さんからも評判のナースだったからね。流石にこれには参ったよ―。どうしたのと訊ねると、結婚するというのだ。これはおめでたいことだし、お祝いしてあげたいと私は考えたが、自然と相手はだれと問いただしたんだ。なんと、その相手はS製剤のMRだというのだ。Mの代わりにSを使ってくださいと言い出したのは彼女だったからね。これには開いた口が塞がらなかったよ。そして、S製剤のMRは今度、転勤になるらしいんだ―」

 佐々木はそこまで聞くと、全ての紐解きができた。一方、内科部長はしゃべりつかれた様子だが、こころの底からの怒りのせいか、その勢いで高価なシャンパンをオーダーした。

「佐々木君、もう少し付き合ってくれるかい……。Mの件は任せなさい。取り戻してあげるよ―。しかし、彼女はいい女だったね……」

 内科部長の最後の言葉はよく聞き取れなかったが、これで実績が戻ることは間違いない、と佐々木は確信した。