自己紹介~僕が「どん底」へ落ちるまで~

東京都出身・30代・男性

職業は現在フリーターです。清掃業と公衆浴場のアルバイト2本でどうにかやりくりをしています。

公立の小中学校を卒業し、都立高校に入学、私立大学の人文学部の某学科を留年しながらどうにか卒業しました。

周りの同級生が一様に黒いスーツで就活をしている最中、僕は自分が何をやりたいのか皆目見当もつかなかったので、就活そっちのけで卒論の作成に勤しみました。

卒業後は、新卒期間のうちにどうにか自分が入り込めそうな職を求め、公的機関が勧める新卒者向けの職場研修プロジェクトに参加したりして、幾つかの職種を経験したのちに、とあるIT系の人材派遣を主としている会社にアルバイトとして潜り込みました。

そこで、初めて「営業職」に就き、実質的なキャリアがスタートしたのであります。

ところが。この営業職というのが僕には全く向いておりませんでした。営業といっても、IT系の人材派遣は、いってみれば「ドナドナ」のようなもので、技術者が派遣出来そうな現場へスキルシートを携えて技術者を紹介し、現場の担当者と技術者とを引き合わせることが主な業務の流れでした。この業界は、現場において技術者が「人月」という単位で数えられていて、技術者という「人」を「単価」として「見積る」という考え方が往々にしてあります。その「見積り」で僕は何度か失敗をし、やがて社内でも「使えない」という扱いになりました。周りの目も冷たくなり、振られる仕事も誰がやってもいい仕事(書類の整理、処分といった類)が増え始め、「あぁ、俺って本当にこの仕事は向いてないな」とつくづく思わされました。そして、自主退職しました。アルバイトだったとはいえ最初の職場での挫折は、しばらく再就職への気力を失わせるには十分でした。この辺で、「なるべく自分が好きなものを扱っている会社に入ろう」と思い直したのです。

しばらく実家でプータローをしながら、幾つかの就活サイトを眺め、自分の好きなものを扱っている職場は無いものか、と鬱屈した日々を過ごしておりました。

次に出会った職場、そこは出版社でした。僕は本が好きでした。小学生の時には国語が常に90点台だったと記憶しているほどに、僕は本を読むのが好きでした。その出版社の漫画部門でまたしてもアルバイト、そして「営業職」として採用されましたが、「好きなものだから多少の苦労は乗り切ろう」と覚悟を決めて臨みました。

ここでは凡そ2年ほど働きました。確かに好きな本を扱う仕事はやりがいがありましたが、その間、僕は殆ど上司から褒められることがありませんでした。週に1度は当時の上司に𠮟責を受けておりました。内容としては、営業部の電話に掛かってくる受注の電話の対応がお粗末であったり、仕事のスケジューリングがうまく出来ないことであったりが主でした。

営業部の電話に掛けて来る方は、本屋だけではなく、取次各社の担当者であったり、印刷会社の担当者であったり、はたまた一般の方や作家さんであったり、と様々で、そうした電話の応対や引継ぎも非常に苦労したのを覚えています。ここでも様々に仕事のあれこれで不向きを感じました。上司からも度々「向いてないかもね」と言われていて、自分でも「ここら辺が終い時だな」と思い至り、ここも2年弱で自主退職。

この頃は「俺は会社で就職して働く、という皆が当たり前にやっていることがどうにもならない」という黒々とした無力感を日々感じておりました。

ところが。捨てる神あれば拾う神あり、でこの出版社を辞めるかどうか迷っている時、前職で仲良くしてもらっていたおっちゃんと、出版社へ通勤する電車でばったり出くわしたのです。

久しぶりの再会に驚きましたが、おっちゃんとは前職の時と変わらない話題でおしゃべりができました。そして、「今やっている案件が大変でさ、猫の手も借りたいくらいなんだよね。○○君(僕)が暇だったら手伝ってくれると助かるんだけどな」と相談してきてくれました。こういうのを「渡りに船」というのだな、と実感したのを覚えています。

それから程なくして、おっちゃんには再会を祝して酒を飲みに連れていってもらったり、当時は出版社の近くにあった事務所に呼んでもらって昔話をしたり、IT派遣の会社に居た頃の愚痴を言い合ったり・・・とやっていくうちに気付けばおっちゃんの会社がある事務所で、仕事の手伝いをしておりました。当時、まだ出版社にも籍を置いていたので、出版社のアルバイトが終わってから、又は出版社の出勤が無い日に、仕事を手伝いに行きました。なかなかハードな日々ではありましたが、どうにか若さで乗り切りました。

そして、出版社も退職し、おっちゃんの会社にほぼ毎日行くようになり、周りのメンバーとも日常的に話が出来るようになり、既におっちゃんの会社への入社というのが既定路線になっていきました。

前項のハードな案件にある程度終わりが見え、事務所のメンバーも皆やや余裕が出てきたそんなある日のことでした。事務所のベランダにあった喫煙スペースで、おっちゃんと煙草を吸いながら話をしていると、

「いや~今回はマジで助かったわ」と労いの言葉をかけてもらいました。
「そんなそんな。俺も無職になるところを拾ってもらったので(笑)」と、僕も感謝と謙遜が入り混じった返事をしました。

そして、「よければうちの会社で社員にならない?」と聞かれたので、僕は「よろしくお願いします!」と即答しました。こうして、大学卒業から5年、晴れて僕は正社員という肩書をゲットしたのです。いやはや長かった。

そして、新しい会社は、おっちゃんを社長とした、小さなIT系のシステム開発会社でした。主に企業HPの作成や運用等を請け負っていたと記憶しています。そこでの僕の仕事は、言ってみれば『何でも屋』でした。せっかく拾ってもらった会社だったので、言われればなんでもやりました。

ちなみにこの会社のある事務所には、他に幾つかの会社がシェアオフィスをしており、おっちゃんの会社はその1区画を間借りしていましたので、幾つかの会社のメンバーと毎日を共にする形になりました。

そして、前項の大規模案件はおっちゃんの会社と、その隣の区画をオフィスとしている調査会社が共同で参画していたのです。僕はその最中に加わったこともあり、おっちゃんの会社と、その調査会社2社とでそれぞれ僕に仕事を割り振る、というところに落ち着いたのでした。こうして、僕は2社の名刺を常に持ち、それぞれ違う業務内容の会社にそれぞれ籍を置き、仕事をすることになりました。

慣れない仕事もありましたが、どちらの社長からも非常に良くしてもらい、色々な叱咤を受けつつも、ひとつひとつの案件を必死にクリアしていきました。

周りのメンバーもなかなか個性的で面白かったです。シェアオフィスの特性として様々な人種がいる、というのが特徴です。それは「Race」の意味だけではなく、専門や趣味嗜好が様々に違っている、ということでもあります。そんなメンバーと日々顔を合わせ、話をすることは、刺激にもなり、また息抜きにもなります。風通しは良過ぎるほどに良かったと思います。

そして、1年が経った頃。ここで試練が訪れました。

おっちゃんや他のメンバーと食事をしながら今後のお互いの展開を話そう、いわゆるランチミーティングというやつがあり、

「そろそろ○○君も1年だし、何かしら専門的な業務が出来るようになるといいね。ちょっとそれを試行錯誤してみてほしい」と言われました。

日々、仕事終わりにおっちゃんに見せるための資料を拵えたり、もう一つの会社の社長に相談したりしながら自分の今後を考えました。だが、なかなか明確なビジョンが見出せずにいました。

そんな日々が過ぎて、ある時、痺れを切らしたおっちゃんが「○○君の修行になりそうな案件持ってきたわ。しばらくこれ頑張ってみて」と、ある案件の話をされました。その頃、おっちゃんの会社はメンバーが一時的に外部へ出向していたこともあり、あまり多くの案件を請けていませんでした。当然、僕の担当業務もそこまで多くはありませんでしたから、適任だと思ったのでしょう。

その業務は、ほぼ毎日の更新がある某販売会社のサイト運営で、僕の仕事は客先の担当者への対応であったり、送られてきたデータや文面のサイトへのアップロード、商品の販売開始時間にバナーが表示されるように設定を組む、等それまで経験の無い業務が大半でした。日に何度となく客先から商品の写真データ、商品情報のテキストデータ、サイトに掲載するバナー等に関する指示が飛んできて、仕事が始まって1週間でおっちゃんに泣きを入れるほどでした。

この案件は、確かにこれまでにない経験が出来ました。が、同時に時間拘束も客先対応の煩雑さも過去の案件とは比較にならないほど多く、かなり消耗したのを覚えています。

この案件が結果的には僕をどん底まで追い詰めることになります。とは言え、もう一つの会社から割り振られる案件との兼ね合いもあり、所々手助けはしてもらっていました。

その頃、もう一つの調査会社では3つほどの仕事を担当していました。うち1つの仕事は他県への出張が入るようになりました。さらに1年スパンのコンテンツ制作の仕事もあり、そちらも締め切りは遠いとは言え、進捗のチェックは度々飛んでくるわけで、こちらも気は抜けませんでした。

そうした日々の中、僕は体調をわかりやすく崩しました。当時、実家から電車で事務所へ通っており、途中で山手線へ乗り換えがありました。その電車通勤の最中、過敏性腸症候群に似た症状が出始めました。乗り換えなんて言っている場合ではなく、酷い時には1駅で途中下車。この頃はほぼ毎日遅刻してしまう有り様でした。

ほぼ毎日、2社へ遅刻の連絡を入れていると、やはりというか当然ながら居心地は悪くなってきます。それでも仕事は待ってくれません。スケジュールはどんどん押していきます。メンタル的にも相当追い込まれていました。

2社の社長に相談しました。

「電車通勤が出来ません・・・体調がずっと優れないのです」

そこで出たのは誠にミラクルな回答でした。

「マジか~でも今休まれるとキツイんだよなぁ。

んじゃ、電車通勤が辛くない駅で一人暮らしすればいいじゃん!」

「なるほど!」

と、何故か初の一人暮らしへ向かって話が進んでいったのです。

そして、相談した翌日は休暇を貰い、僕は物件探しに出ることになりました。事務所のある山手線の駅まで可能ならば電車1本で到着でき、且つ電車に乗る時間は出来るだけ短く、そんな土地を探すとあっという間に候補は絞れました。そして選んだのはO線のとある駅でした。

そして、その駅に降り立ち、人生で初めて不動産屋へ入り、その日のうちに内見が出来る物件を紹介してもらい、不動産屋が貸してくれた自転車で物件の内見に向かったのです。こんなにスムーズでええのかい?と思いました。

そのうちの1軒、というか1発目の物件が自分の中でベストな立地でした。家賃は想定を越えていましたが、駅まで徒歩数分、窓から入る日光も申し分なく、「ここしかない」とその場で即決してしまいました。

こうして、僕は問題を抱えながらも、どうにかキャリアを続けていくために、実家を飛び出して、都会で一人暮らしを始めました。
通勤は格段に楽になり、慣れないかと思われた一人暮らしは、全てを自分で決められるので、段々と楽しめるようになりました。

しかしながら、仕事の方は相変わらず問題を抱え続けていました。2社の仕事は、自分の中で明らかにキャパオーバーな業務量になっていました。それでも一人暮らしを続けていくために、騙し騙し頑張っていたのだと思います。

この頃から夜な夜な一人で飲み歩くことが増え、且つ実家に居た頃に比べて明らかに酒量が増えていました。仕事が辛いので、仕事を忘れるまで飲む、という飲み方になっておりました。そうなると、貯金も大して積み上げることも出来ません。しかしながら、一人暮らしではそうした綱渡りの状態に対して苦言を呈す人もいません。ましてや飲み歩いていれば、無頼に生きる自分の先輩のような人種とよく出会ってしまうものなのです。そして、そうした人達と一緒になって厭世的な酒に溺れていきました。

閑話休題。

そんな中でも仕事は続けており、相変わらず2社の仕事は相変わらずでした。まず調査会社のとある案件が明らかに進捗を大幅にオーバーしていきました。何を言われるのかが恐ろしく、もはや進捗の報告が出来ないような有り様でした。同時期におっちゃん社長から「修行」と託された案件は客先の担当者が変更になり、その引継ぎのゴタゴタで時間だけが虚しく流れていきました。
一方で、そうした問題を沢山置き去りにしたまま、逃げるように出張した時は、それはそれは大きなカタルシスがありました。しかし、翌日も朝から仕事が待っているので、終電の新幹線で東京に戻る、という強行スケジュールも幾度か経験しました。

その間も身体にはありとあらゆる体調不良が襲ってきておりまして、この辺から不眠に悩まされるようになります。なんぼ酒を飲んでも寝られない、という夜が多くなりました。そんなギリギリの日々が続いていた夏のある日。決定的な出来事が起こりました。

その前の晩も、虚ろな眠りだったのですが、目が覚めてみると身体が鉛のように重く、まったく起き上がれなくなりました。これまでの体調不良とは異なる感覚に、僅かに働く脳が「Caution!」を出したのです。

その日から3日、ほぼ無断欠勤に近い形で会社を休みました。合間に出来たことはかろうじて動く身体でトイレに行くこと、肩で息をしながら、最寄のスーパーへ最低限の食物を買いに行くこと。それ以外はテレビも点けない部屋でベッドに転がっているだけでした。仕事のことを考えると、頭を絞られるような感覚に陥りました。

3日後、心配で僕の部屋まで様子を見に来てくれた事務所のメンバーが言うには、「髭がボーボーだった」、「死にそうな顔をしていた」とのことで、人生でも「どん底」と呼べる時期がここから始まります。

この話、まだまだ続きます。

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