自己紹介~どん底から現在まで~
会社員時代、様々な体調不良を抱えていた僕は、1年目からメンタルクリニックの常連客でした。その頃は月に2回ほど通院しておりました。
そして、遂にというか、とうとう訪れてしまったエマージェンシー。
僕は藁にも縋る思いで急遽クリニックの予約を取りました。現在、心療内科は、なかなか予約の取りにくい場所になりつつあります。それでも僅かな隙を見て、いつもの先生の下へ駆け込んだのでありました。
そこで諸々の症状を伝え、導き出されたのは『抑うつ』というものでした。
その日から会社は休職。というか、とてもじゃないですが、会社に行けるようなコンディションではありませんでした。それでも、担当している仕事は引き継がなければなりません。
おっちゃんや、もう一つの会社の社長、そして客先から引っ切り無しに掛かってくる電話やメールに対して、殴られたような状態の頭脳でどうにか返事をし、どうにか仕事の棚卸しを終えた僕は、溜まっていた有給と代休を全ツッパして、2ヶ月という長さで家に引きこもることになりました。
この間、PCを開くのも億劫になっていました。仕事に対しての恐怖心は、僕を蛙に例えると、蛇どころかゴジラくらいの大きさに膨れ上がっていました。ですので、可能な限り仕事のことを考えずに、「生活」に集中することにしました。
これは今だに大事にしていることです。仕事が嫌になった時は、料理をしたり、掃除をしたり、とにかく家事をすると頭が整理されて、メンタルも安定していきます。オススメですよ。
閑話休題。
外に出るのは、食料品を買いに出る時、そして体調を整えるために散歩をしに行く時だけでした。部屋着同然の恰好で昼間に出歩くと、世の中から取り残されている感が、空から降り積もってくるようでした。
が、「案外お前のことは誰も気にしていないぞ」と思い込み、街中をプラプラと歩いて過ごしておりました。
この間は、好きだった読書も出来ず、映画も観ず、自分でプレイする(僕はギターを趣味としています)ほど好きな音楽も遠ざけていました。唯一聴くのは、Amazonのprime musicに入っているヒーリング音楽だけでした。これを掛けながら、宝焼酎ハイボールを呷り、睡眠導入剤を飲んで、効いてくるのを待つ、というのが定番の夜の過ごし方でした。
そして、どうにか日々をやり過ごして、2か月が経ちました。
久しぶりの事務所は相変わらずでしたが、メンバーの目が辛かったです。「大変だったのはわかるんだけど、この人、どう言葉をかけたらいいんだろう」というような心配と困惑が見て取れました。
僕の方も「ソロモンよ、私は帰ってきた!」というガトーのような勇ましい凱旋には思えませんでした。正直、担当していた仕事を何とか静めるために止む無く復帰した、という意味合いが強かったように思います。
その頃は、飲んでいる睡眠導入剤が強かったため、午前中は頭がぼんやりとして全く使い物にならなかったので、「出勤できるタイミングで出勤し、その日のタスクが終われば即帰宅」という特例が出ていました。
「すまないな」という気持ちしかありませんでした。
同時期、おっちゃんの会社の方で担当していた仕事は、僕の体調を鑑みたのか、「撤退」ということになりました。まだ体調も万全でない中、引継ぎをしましたが、面倒くさかったな、という記憶しかありません。この案件に関しては思い出したくないことが沢山有り過ぎて・・・。
意外にも、もう一つの調査会社の社長の方が僕を気に掛けてくれていて、療養で引きこもっていた時もよく外に連れ出してもらっていました。というか、こちらの会社の案件は、僕が抜けて何とかなる状態ではなかったので、どうにか残って欲しかったのだと思います。客先その他のやり取りが全て集まっているのが僕だったからです。完全に属人化してしまっていました。
それで、どうにか調査会社の仕事は続けていたのですが、前回記事に書いた通り、締め切りはデッド寸前でありまして、どうしようか、と思っていたのですが、社内のメンバーを総動員して僕の案件をどうにか「完遂」することができました。めでたしめでたし、としたいのですが。その過程でも初歩的なミスや遅れがあり、且つ扱っているものが刷り物だったため、後からボロボロと不手際が見つかる等、最後の仕事でも会社に迷惑をかけてしまいまして、社長からは、
「○○君、もう少し休んだ方がいいのではないかな?」
と言われてしまう始末でした。そして、止む無く退職。
遂に、僕は完全な無職となり果てました。とは言え、解放感も何もありません。生活が出来なくなるからです。
そこから失業給付やらその他の給付金やらを調べたり、区がやっているサポートステーションに駆け込んで相談したり・・・と今度は「生きていく」ための奔走が始まりました。
どうにか、失業手当は確保できそうですが、大した貯蓄も無かったために、繋ぎで世間では蛇蠍の如く忌み嫌われている「生活保護」に頼った時期もありました。この話は役に立つ方も居そうなので、いずれ別の記事を書きたいと思っております。
失業給付も期限のあるものなので、その中でどうにか生活を維持していくための職探しが始まりました。とは言え、フルタイムの仕事はまだ手が出せる体調ではありませんでした。
その時、僕は働き盛りの20代後半でありました。それでも、一度無職に落ちてしまうと就活界隈では厳しい戦いを強いられます。それを痛いほどに実感したのが、この無職の暗黒期です。
間は割愛しますが、というか、無職って恐ろしく暇なのですね、思い出せることがとても少ないです。無様に年を重ねてしまったな、と。
そして、その後に運よく真摯な対応をしてくれるハローワークのおばちゃん担当者に当たり、現在の2つをアルバイトを紹介してもらい、それらを掛け持ちしながら今に至り、僕は糊口を凌いでおります。
誰かが「人間、息をしているだけで金がかかる」と言っておりましたが、現在はそれをよく実感しています。
とは言え、このどん底の時期、「自殺」とか考えなくてよかったなと思います。
ただ、1日だけ、危ない日がありました。
「抑うつ」で倒れる数日前だったと思います。その夜は身体は疲れているはずなのに、どうにも眠気がありませんでした。とは言え、明日も出社しなければ・・・と思っていると、家にあるハサミが急にキラキラと輝いて見えたのです。それだけではなく、家にある金属類がやたらと輝いているのです。「俺を使え!」と言わんばかりに。
この時は「これはヤバいな」と思いました。すぐに酒をガブ飲みして、毛布を被ったのを覚えています。あれは怖かった・・・。
と、紆余曲折ありまして、どうにか生きております。
まったく、人生というやつはどう転ぶかわかりません。
だからこそ、最後にお伝えしたいことがあります。
それは
誰しもが「どうなるかわからない」ということです。
だからこそ、他の人が辛い目に遭ったり、人生のレールから転落した時に、
「他人事じゃないな」と思っていただきたいのです。
別に、どん底に生きている人に優しくしろ、とは言いません。
今の自分は大丈夫でも、いつ何が降りかかるかわからないから、保険をかけておこう、と思ってもらってもいいです。
そういう人達にも「色々あったのだな」と想像力を少し働かせてあげてもらえれば、僕が自分のこれまでを書いたかいがあったというものです。
昨今、とかく他者に対して攻撃的な物言いがネット界隈含め、見られがちなです。
僕は、そういう人達の言動を見ると、こちらにその言動が向いてこないかと恐ろしい思いがします。読んでくださる皆さまも、どうか、傍にいる方が何かあった時には、少し「想像力」を傾けてあげてください。
僕もこれからどう人生を巻き返していこうかと試行錯誤しております。
なかなか厳しい世の中ですが、生き延びてやろうと思います。
どうか皆さまも前向きに、周りの人達を大事にして過ごしていってくださいね。
長々と失礼いたしました。次の投稿からはもう少しライトな話が出来ると思います。
それでは。
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