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母を泣かせた日の話

寒空を歩いて助けに来てくれた母を拒絶した

私は大学生の時に精神的に不安定になった時期がありました。
大学4年生の春から
「あれ?おかしいな」
と思いつつダラダラと過ごし気づいた時には1人では解決できない状態になっていました。

毎日の感情のジェットコースターの中でその時なりに論理的に導いた最良の人生選択は
「死ぬこと」
でした。

とは言いつつも生物としての活動はせねばならず数日に一回食料品を買いに行って、安いワインをガブガブ飲んで昼夜逆転ながらも寝て、そんなに元気でない下っ端を慰めてという日々を送っていました。

それから月日は流れ10月か11月になってメンタルクリニックに行くことにしました。
これは内面の問題を解決したいからではなく、「病院に行った」という結果を求めていたからだと、振り返ると思います。

そもそも私が抑鬱状態になったのは就職や大学の課題から逃げたいという内なる欲求が作り出した精神状態だからであり、大学卒業後も逃げるためには「病んでいるヤツだ」
という実績が欲しかったからなのです。クズですね。

案の定大学は留年しました。

後学期の必須単位が取れず、翌年の前期への持ち越しとなったため半年の留年です。そのことを父親に報告すると「実家へ帰ってこないか」と言われました。幸いコロナ禍であったため足りない分の単位認定は大学に行かなくてもできるものでした。

しかしその時の私はとにかく一人でいたく、実家へ帰ることを拒みました。2月ぐらいの話だったと記憶しています。

私の家の近くには叔母、母の姉も住んでおり、叔母は癌に侵されていました。
叔母を心配に思う母は月に1回ほど見舞いに来ていました。
月1と聞くと少ないように聞こえるでしょうが、北海道で200km以上離れたところに住んでいるので、車にしてもバスにしても4時間ぐらいの旅路です。

癌に苦しんでいる叔母と何をやっているかわからない息子に会いに行く、
その時どんな思いで母が車を走らせていたのか想像すると目頭が熱くなります。

「実家には帰らない」と言った後、母は何日も経たずに叔母の見舞いへ来ました。LINEでは部屋の掃除、と名を打って私が住んでいたアパートにも来ると言っていました。私は「私は来なくていいです。」と言いました。

2月の雪深い日に、母は私のアパートまで来ました。

私はその時何日かお風呂に入っておらず汚かったし、部屋も汚いし、とにかく会いたくありませんでした。私は居留守を使いました。

それでも母はチャイムを鳴らし続け、ドアをドンドンと叩き、私の名前を呼びました。電話もかかってきました。

電話を取ると母は泣いていました。

「とにかく開けて。雪の中で転んで体痛いけど来たんだよ。」

と母は涙声で言っていました。もうドアを開けないわけには行きませんでした。
「どうしちゃったの?今まではこんなことなかったよ。」
と言われました。
こんなこと、というのは部屋の散らかり具合に対してですね。
一人暮らしのアパートではそれまでは割と綺麗にしていて、母もその様子を見ていたので書類や本や段ボールがそこかしこに散らばっていて、シンクにも何日も洗われていない食器が散乱していた惨状を見てそう言ったのだと思います。

その日母とはこれからのことについて話しました。
私は相変わらず一人でいるつもりでいましたが、家賃を親に払ってもらっていたのでそのお金をこれからどうするかと言った話や生活費の話などをしていたと思います。

お金の話となると現実的な話ですが、本音は生活が荒んでいる息子を見て一人にしておくなんて感情的に無理だったでしょう。私が親でも絶対に一人にしないと思います。


これが私が母を泣かせた日の話でした。
すみません、感情的になり変な文章だと思います。
実はこの記事は何か月も前に書き始めたのですが、書こうとすると涙が出て書こうにも書けず、といった状態でこれまで放置していました。
この日の出来事から2年以上経った今、書き終えることができました。


この数日後だったと思いますが、私は実家へ帰りました。その時のアパートも退去しないままに一旦帰りました。
実家に帰ってからはお昼の12時ぐらいまで寝て、そのあとは適当に過ごしていた日々を2か月ぐらい送っていたと記憶しています。

4月初めには、叔母が亡くなりました。
コロナ禍だったため入院中は叔母の親(私から見て母方の祖父母)も面会を許されませんでした。近くに住んでいるのにも関わらず会えませんでした。
子供が自分より先に病に侵され、苦しんでいるのにも関わらず会えないなんて本当に辛かったと思います。

叔母の死を受けて、私は「自死は絶対にしない」と決めました。
お葬式で悲しんでいる祖父母を見て、この思いを私の父、母にさせてはいけないと思ったからです。

それから私は徐々に回復しながら自分の活動を進め、今は東京でWebエンジニアをしています。
これから私の親や祖父母には自分の元気な姿を見せて、恩返しをしていきたいなと思っています。

ここまで読んでいただきありがとうございました。


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