見出し画像

掌編小説 | 橙色の箱


《 ストレージがいっぱいです。》

 はいはい解ってます、ご親切にどうも。瞳子はスマホの液晶画面に浮かび上がるポップアップに独りごちて、OKボタンをタップした。ここ数週間で度々表示されるメッセージはすっかり見慣れた定型文になりつつある。それは、あの島で暮らす母親からの定期連絡よりも遥かに安心して確認できるほどに。


ストレージを追加購入されますか。
白線の内側まで下がってお待ちください。
歩行者は通路の右側を歩きましょう。
3点で15%オフになりますがよろしいですか。
今度いつ帰ってくるの、良い人はいないの。


 今日も世界はとても親切で、そしてすこしだけ煩わしい。お知らせにご案内、心配に注意。誰かが誰かに投げたメッセージに溢れた世の中で暮らしてゆくのは、安心と窮屈のハッピーセットだ。はいはい解ってます、ご親切に、どうも。

 だから、瞳子が断捨離をしようと思ったのはごく自然な流れだった。だってストレージがいっぱいなんだもの、ギガを増やすか容量を空けるか、はたまた無視し続けるか。物事を解決する為の選択肢なんて、自分が選べる程度のものは大抵限られているのが世の常だ。


“ 断捨離 方法 ”
 検索窓にふたつの文言を並べただけで、何万件もの答えがぶわっと押し寄せてきた。くらくらと目眩がして熱い紅茶をひと口啜る。

“ 断捨離 方法 要 不要 ”
 埒があかないのでもうふたつ、文言を追加して検索。それでも似たり寄ったりの結果だけれど、根気よくスクロールしては幾つか閲覧を重ねるうちに、瞳子の求めていたやり方に近そうな答えが見つかった。


《 3つの箱を用意しましょう。必要、不要、3ヶ月保留。目の前のものを片っ端からそれらに分類していってください。判断にかけられる制限時間は10秒です。》


 たった数行の、簡素で端的な説明が気に入った。適当な箱はあるから用意するものも無ければ、お金だってかからない。前書きとして 〜断捨離の心得〜 的な文句ったらしい言葉がないのも満足だ。“捨てる勇気を持とう!”・・・まったく甚だ馬鹿らしい。だって、最初からそれが出来る人はそもそも断捨離をする必要などないのだから。

 今度のごみの日に捨てようと思い続けて数年鎮座したままの畳んだ段ボールを、ベランダからいそいそと運ぶ。毎年必ず母から送られてくるあの島の箱は、ゆうに3つを超えてずらりと隅に立てかけられていた。ストッパー代わりに置いた、枯れかけのガジュマルが風に揺れる。何か言いたげなその様子に思わず、今は忙しいのよと言い聞かせるようにしてぴしゃりと引き戸を閉めた。大体、あれはあのひとが買ってきたのだから持っていってもらうべきだったし、渡されたところで育てられるはずなんてないのにーーー、
 頭を使わない単純作業というのは、つい思考を深めてしまう。だから、3箱組み立てる間だけは沈潜させて終わった後はすぐにざばりと引き上げるのだ。まったく考えないことは難しいけれど、考えすぎることを止めることはできる。そうやって瞳子は、いつしか必要以上に悩んだり傷ついたりしなくなった。それが大人になった証だと、思っていた。


 コピー用紙に太いマジックで《必要》《不要》《3ヶ月保留》と書いた紙をそれぞれの箱の側面に貼ってゆく。昔から、こうして物事に名前が付く瞬間が好きだ。

「ただの箱」から「必要の箱」へ。
「友達」から「親友」へ。
「取引先の津田さん」から「恋人(兼不倫相手)」へ。

 ラベリングは愛で、鎖で、つよくてこわい。この先、何かに繋がれていると明確に分かるものを一体幾つ持って生きてゆくのだろう。なるべく自由でいたいと思うのに、すべてから解き放たれることを考えるだけで途端に足はすくむ。人生の容量はそんな風にして保険を掛け続けた末に、案外容易く埋まってしまった。
 それが幸であるのか、或いは、不幸であるのか。検討がつかないまま、瞳子はすっかり冷めた紅茶に口唇をつけて眉をひそめる。ダージリンの風味など疾うに消えたそれは、ざらっとしたつめたい渋みだけを遺していった。


「制限時間は、10秒です。」
 誰もいないベッドルームで独り、意思表示を込めてルールを口にする。手にはスマホのストップウォッチ画面、目の前には散乱した衣服・バッグ・靴・化粧品・食器・エトセトラ。よれた部屋着の袖をぐいっと腕まくりしながら見渡したそれらは、瞳子に無言のアピールをしているように見えた。はじめて出逢った時の高鳴り、やっと手に入れた時の感動。ねぇ、すべて忘れてしまったの。あなたは今から、何を残して何を捨てるの。

「よおい、どんっ。」


 ツイードのセットアップ。可愛かったな、でも一回着て満足しちゃって。《不要》。8万円のフォーマルブラックドレス。結婚式なんてもう滅多にないけれど、きっと40代でも着れるから。《必要》。鮮やかな深緑のバッグ。単体ではいいのに洋服と合わせられない、いつもこんな買い物ばっかり。差し色で映えるんだけど。・・・《3ヶ月保留》。先の尖ったパンプス。靴擦れするのは分かってても履きたくなる、まぁもういらないか。《不要》。繊細な小花模様のティーセット。すぐに割れてしまいそうで全く使っていない。島を出た時に母に持たされたもの、来客用よと言っていたもの。《不要》。・・・不要?ほんとうに?あと2秒。どうしよう。《3ヶ月保留》だ。



 思考が深くなる隙などまるでないような制限時間・10秒との闘いが終わった頃、気がつけば窓の外には夕暮れが広がっていた。溢れ返りそうな《不要》と整然と並んだ《必要》、そして居心地の悪そうな《3ヶ月保留》といった具合のそれぞれの段ボール箱。そこから改めて《必要》の中の物たちをひとつずつ取り出してゆく。ちょっと瞳子さん丁重に扱ってくださいよ、と言わんばかりのVIP顧客然としたそれら。思えばそこに残っていたのは、かつての自分が心底渇望して手に入れたものばかりだった。そして同時に、これからも当時と変わらず確かに愛してゆける品たちでもあった。

 そういえば3ヶ月保留の箱は、期日が来たらどうすれば良いのだろうか。キッチンであたらしく紅茶を淹れる為にお湯を沸かしている間、先程見ていたwebページを再び辿る。小鍋でミルクも温めることにしよう。疲れ切った今、スパイスの効いたチャイが飲みたい。コンロの横で待機している白磁のたっぷりとしたマグカップは《必要》から取り出した。可愛い子、大切な子。


《 仕分けが終わったら、3ヶ月保留の箱をテープで固く閉じます。3ヶ月の間で必要になったものがあれば取り出してください。もしそうでなければ、固く閉じたまま処分しましょう。その箱は、あなたにとって本当に必要か不要か、見極める為の場所なのです。》


 チャイは、あまくて辛い。ソファに背を預けて相反する不思議なその液体をお腹に入れると、胃からぽかぽかと身体があつくなった。“あなたにとって本当に必要か不要か” ぼんやりした脳で眺める文字の羅列。断捨離の話をしているはずなのに、マグカップから立ち昇る湯気に紛れて思考が溶け出してしまいそうで。
 たとえばーー、そうたとえば。目の前に並んでいたのが洋服や食器ではなく、家族や、仕事や、故郷や、親友や、恋人だったら。どれがどの箱に入ってゆくのだろう。迷ってしまった場合の制限時間は何秒貰えるのだろう。一切迷わずに《不要》に入れてしまえるものがあったら、どうしよう。

 このチャイを飲み切るまでと決めた沈潜は、火傷しそうなほどの熱さに邪魔をされてなかなか引き揚げることができずにいた。深くふかく、光の届かない深海まで落ちてしまう思考。次々と浮かんでは消える誰かの顔。嫌というくらい年々似てきた母親、出産後に会って以来もう3年近くなるかつての親友だったあの子、お土産だよと笑ってガジュマルを抱えたいつかの津田。ねぇ、すべて忘れてしまえるの。私は今から、何を残して何を棄てるの。


 
 ブブッと机が震える音に思考が止まってスマホに目をやると、久々に見た母の名前。ふん、と落胆のような試合前のような鼻息をちいさく漏らしてポップアップを軽く叩いた。


『瞳子へ
 あなた、せとか好きでしょう。今年も送りましたから早いうちに食べてください。』


 それは、昔から瞳子が大好きな蜜柑の品種だった。目が醒めるほど鮮やかな橙色の、ほとんどゼリーくらいにぷるぷるとした冬の味覚。思い出すだけで唾液がじゅわりと湧き上がる。送りましたから、といういかにも母のそれらしい事後報告や手紙のように律儀な書き出しに苦笑が漏れたところで、続けてもう一度スマホが鳴った。


『追伸
 二箱あるので、会社の人にもお裾分けしてくださいね。勿論他の人にも。それで、今度いつ帰ってくるの。瞳子ひとりでも十分なので、たまには元気な顔を見せなさい。  母より』



 海底から見えた青白い光はいつもよりまぶしくて、視界がじわりと滲んだ。今日も世界はとても親切で、やっぱりすこしだけ煩わしい。そんな安心と窮屈のハッピーセットはいつだって、うざったくて愛おしくて。
 カップの底に残るあまく濁ったものを流してしまってからベランダの引き戸をゆるりと開けて、身体中の何かを入れ替えるようにありったけの息を吐き出した。

 そうだ、最後にあの箱を閉じなければ。


 引き出しの布テープを取り出して、ベッドの側でちんまりと居心地が悪そうに佇むそれをつーっと指でなぞる。もう何を入れたかさえも定かではないけれど、果たして3ヶ月後のタイムリミットまでに開くことはあるのだろうか。ちらっと霞んだ名残惜しさを断ち切るように、テープをびいっと引っ張って端からゆっくりと押さえてゆく。その時、ふいに甘酸っぱい香りが鼻先を掠めて、思わず一度手を止めた。それは側面に貼られたコピー用紙に透けて見える柑橘模様から漂った気がして、しずかに伏せた瞼の裏側であの島をそっと想う。穏やかな南風はきっとガジュマルによく似合うだろう。母は昔から植物を育てるのが殊更上手い。
 馥郁とした記憶が、箱の中に満ちている。瞳子はそのすべてを封じ込められるように、固くきつく蓋を閉じた。


この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』1月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「あける」。「何がはいっているの?」のワクワクや、目の前がひらけるような体験が詰まった6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひ訪れてみてください。



価値を感じてくださったら大変嬉しいです。お気持ちを糧に、たいせつに使わせていただきます。