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シェアハウス・comma 「白洲 彩絢 編」


この作品は、生活に寄り添った物語をとどける文芸誌『文活』1月号の無料公開作品です。定期運営マガジンをご購読いただくと、ほかの小説をすべてお読みいただけます。


 人生が、終わった。

 5桁の番号が大量に並ぶ掲示板を見て、何度も見て、穴が開くほど見て、焦点が合わなくなるほど見て、それでもあたしの見たいものだけがそこになかった。“膝から崩れ落ちる”という表現はこういう時の為にある言葉なんだ。そう冷静に思いながら直立している自分を今すぐ誰かに褒めて欲しかったけれど、その誰かが全く思い付かないあたりに己の孤独さを突きつけられたようで余計に膝が震えた。

「だめでした」

 大学を背にほんの数十分前に降りたばかりの駅へとUターンし、ホームの隅で白洲家(4)のグループラインに送った5文字は一向に既読がつかない。凍えそうな寒さで震えて指が上手く動かせなかったし、何よりもそれ以上に伝えるべき言葉が思い当たらずただ事実のみを送るしかなかったから、たった5文字。誰かから返事が来たら乗ろうと思っている間に、電車は3本過ぎていった。純粋にまだ読んでいないのか、はたまたトークルームを開かずとも見られるその文字を確認した上でのスルーなのか。ひとつだけ確実に分かっているのは、大学受験に落ちるなどという現実が実際に存在するのを理解していない人々であるということだ。理系のパパ、文系のママ、両方から才を授かった国立大生(無論現役合格)のお兄、足が速いあたし。代々運動音痴な白洲の家系で突然変異だ!なんて褒められたのはせいぜい小学校低学年まで。

「さあやちゃん、スポーツ選手以外で足の速さが役立つ事はほとんどないの。」

 彩絢、というきらびやかな名を付けたママはニッコリと笑って幼いあたしに言った。

「やくだつ?」
「そう、役立つ。この世に生まれたからには誰かや何かの役に立たないと。」

 真っ当で嘘のないメッセージは人生指針として脳内に刷り込まれ、同時にそうなれないことは恐怖の対象であるとも強く刻まれた。大学に入ることがゴールじゃないのよ、社会で役に立つ為に大学に入って勉強するのよ。淡々と告げるママの声が聞こえた気がしてスマホを見ると、吹き出しは増えることなく既読が3になっていた。

 サクラは咲かず、それでも春はきた。
 なるべく派手な音が鳴らないよう慎重にキャリーケースを引きながら、あたしは10数年振りに訪れた街を歩いている。ロータリーの綺麗なレンガ絨毯をしずしずと踏み締め、高級ショップが立ち並ぶ大通りの面構えに気圧されながら、ただ斜め下を見つめて黙々と。
 繁華街から数本横に逸れた閑静な住宅街に入るとようやく深い息が吸えた。パパが生まれ育ったこの街・とびヶ丘は、緩和を許さない“強者の気配”がする。清き街・美しき街を創り上げた誇りと護り抜く意地、あたしが物心ついた頃から嫌でも背筋が伸びる場所だった。そしてここが地元であるというステータスは、パパの根底に多大な価値観を根付かせている。
 豪邸、豪邸、一つ飛ばしてもまた豪邸。眩しい家々を眺めながら目的地が近づくにつれドクドクと心臓のポンプが加速してゆくのが分かる。とびヶ丘駅から徒歩20分、地図アプリに入力した場所がいよいよ目の前に現れたその瞬間、時間の流れが止まった気がした。

「・・・長、」

 広い、というよりも、長い。先々まで続く見事に剪定された生垣が土地の大きさを物語る。淡い黄色やピンクの外観が愛らしい洋風の豪邸に囲まれた街並みで一際異彩を放つ和モダンな装いの大邸宅は、まろやかな味を引き締める黒胡椒のごとく界隈にガツンとしたスパイスを与えているようだった。
 ぐるっと外壁を眺めるように歩けば、美しくツヤがかった木目調の門前に辿り着いた。達筆な文字で描かれた表札【白洲】とその下に貼られた横文字のプレート【comma】ーーーコンマ?と疑問が浮かんだが今はとにかく挨拶だ。前髪を手櫛で整えシャツの襟を正してから、改めてインターフォンを鳴らす。門の向こうで横開きの大きなドアから現れた姿よりも先に、懐かしい澄んだ柚子の香りがやってきた。

「理津子さん、お久しぶりです。」
「まぁ、あんた、でっかくなったねえ。」

 きらりと光る銀色ベリーショート、クッキリひかれた鮮やかな紅、粋に襟が抜かれた和装、シミ一つない足袋。年齢不詳の魔女こと・白洲 理津子、あたしの父方の祖母にあたる人だ。
 と言っても、世間一般でいうお婆ちゃんと孫の微笑ましい関係性ではない。そもそもあたしが生まれる前からパパとは折り合いが悪いらしく、お正月やお盆など親戚が集うような行事も白洲家では随分前から開催されていなかった。最後に会ったのは、確かあたしが小学校に上がった頃。理津子さんの夫でありあたしの祖父が亡くなった時以来だ。家の中だというのに常に完璧な出立ちのこの人が“お婆ちゃん・ばあば”などという甘ったるい呼び名を許すはずもなく、あたしは昔から“理津子さん”とお呼びしている。

「さぁさお入んな。4月頭だってのに今日は冷えるだろ。」 
「花冷えですね。」

 よく知ってるねェという目配せに、キャリーケースを玄関脇に避け上り框で靴を揃えながら苦笑いをして、

「・・・受験生だった、から。」

 と、瘡蓋になりきっていないジクジクした膿を吐く。まだ真新しい痛さを感じた自分に、更に痛みが増してしまった。

「洋と和、どっちだい?」
「・・・へ?」

 ん、と尖った顎であたしが左手に握った紙袋を指す。

「智恵さんのことだ、あんたの父親が好きなフィナンシェか豆大福か、どっちかだろう?」

 今朝方、家を出る時にママから無言で手渡されたそれは理津子さんへの献上品だったらしい。

「この重みは、たぶん豆大福かな。」

 ハンッと鼻で笑ってずいずいと歩く背筋の伸びた後ろ姿を慌てて追いかける。玄関から続く廊下は突き当たりで二手に分かれており、そこを左に曲がって少し進むと客間、その奥に居間、更にリビングダイニング、と続いていた。外観に反して意外にも質素なサイズ感の室内には驚いたけれど、磨かれた床や壁掛けの一輪挿し、どこまでも新鮮な空気が漂う家中に凛とした品の良さを感じる。

 あたしから紙袋の中身を受け取った理津子さんは「店のじゃなくていちいち花柄の紙袋に入れ替えるところがあの人らしいったらないね」とママのよそゆきな性格を深く理解した独り言を放ち(まったくその通りだった)、

「さてと、じゃぁまずはあんたに美味しい煎茶の淹れ方でも教えようか。」

 初修行だよ、と面白げな顔をしてキッチンへと手招きした。流し台で手を洗い冷たい水でピリッとしたこの心のまま、必ず言おうと決めていた言葉を先立って伝える。

「今日からお世話になります。白洲 彩絢、19歳です。」

 隣で深々と頭を下げたあたしに驚くでもなく、理津子さんはまたハンッと鼻で笑った。

「あれみたいだね、ジブリの、ほら、名前が消えるあれ。あたしゃやだよ、あんなイケズな婆さんに見えるのは。」
「え、いや、そんなつもりじゃ、」
 
 やり取りする間にも口と手が同時に動かされながら、急須や湯呑み、小皿がテキパキとキッチンカウンターに並べられてゆく。

「ま、そんな肩肘張らずのびのびやんな。よく来たね、サーヤ。」

 そうだ、理津子さんが呼ぶあたしの名前は、何故かカタカナで聴こえるんだった。まるでいつでもそこにあったようなすっきりとした声色を思い出して、身体と心から一気に強張りが解けた。

 白洲 彩絢、19歳、無職。
 あたしは今日から、この家で暮らす。

 中学の頃から目標という名で洗脳されていた第一志望の国立大学に落ちた後、全ての気力を失ったあたしは滑り止めの私立に行くことも浪人をして予備校に通うことも何もかもが嫌になり、生きる屍・バーンアウト状態のまま約1ヶ月を過ごしていた。最初の方こそ「まだ間に合う!娘に全うな人生を!」と半狂乱していた両親だったがあまりの惨状を見かねて持ちかけてくれたのが、ひとまず環境を変えてとびヶ丘で理津子さんと暮らしてみることだった。

 あの時、一言も返してくれなかったくせに。

 胸の奥で火種はずっと燻り続けていたけれど、それを燃やせる酸素すら持ち合わせていなかったあたしは逃げることを選んだ。とにかく、離れたかった。パパからもママからも、受験からも勉強からも、現実からも人生からも。

「おばあちゃんな、今はマンションじゃなくて一軒家で暮らしてるみたいだ。彩絢もそこへ行きなさい。」

 パパが言う“マンション”とはいわゆる実家で、とびヶ丘駅からすぐのところにあるタワーマンションだ。

「・・・引っ越したの?」
「いや、パパもよく知らんがそこで仕事をしてるらしい。」

 何一つ詳細の分からない曖昧な情報が返ってきたけれど、別にどうだって良かった。早くはやく、と準備を済ませキャリーケースに収まるだけの荷物を手にあたしは家を出たのだった。

 ぽつりぽつりと世間話をしながら向かい合って豆大福を食べ終わると「じゃ、部屋を案内するよ」と理津子さんはまたずいずい歩き出した。行動に一才の迷いがない。風呂場やお手洗いなどの説明を受けながら、6畳の和室を好きに使って構わないと言われた。机も本棚も何も無い真新しそうな布団一式が置かれただけの部屋は、空っぽなあたしにピッタリだ。最後に玄関へ逆戻りして固く絞った布巾でキャリーのコロコロを拭きながら、この家の違和感とも言うべき最大の疑問を尋ねてみる。

「理津子さん、廊下の突き当たりの右側は?何があるの?」

 既に説明された部分で生活スペースは完成されているのに、外から眺めた大豪邸の半分以下しか見ていない。

「あれ、あんた父親から何も聞いてなかったのかい?」
「えーっと、マンションじゃなくて一軒家に住んでて、あ、仕事してるらしいって言ってた。じゃぁあっちが理津子さんの職場?」

 ハハッ職場ねェ、と豪快に笑ってまた廊下を進む後ろをピカピカの床を傷つけないようキャリーケースを持ち上げて追いかけるあたしに「よく躾けられてる、素敵な親御さんだ」と絶妙なラインのジョークで揶揄いながら、その突き当たりでピタッと止まって理津子さんは振り向いた。

「ここから先はね、サーヤ。シェアハウスなんだよ。全部で6室あるのが今は2階の1部屋以外全部埋まってて、いろんな大人が暮らしてる。私はその大家、管理人なんだ。」

「シェア、ハウス、」
「そう。『シェアハウス・comma』オモテにプレートも出してあっただろ?だからあんたがウチへ来ても今更1人増えようが私は何も変わらないのさ。まァ人手が増えるに越したことはないから、住み込みの大家見習いを雇ったってとこだね。」

 どうやら、あたしは孫 兼 アルバイトとして引き取られたようだ。

「でも、大家って言ってもやることはほとんどないんだよ。向こうの棟にキッチンもトイレもお風呂もあるけど掃除は自分達の当番制、食事も各々自由。みんないい大人だから自由に好きに暮らしてる。」
「・・・じゃぁ、あたしは何をすればいいの?」

 心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。“この世に生まれたからには誰かや何かの役に立たないと” いちばん苦しいあの言葉が、ここでもあたしに容赦なく付き纏ってくるなんて。
 突然弱まった声色に何かを悟ったらしいけれど、理津子さんは平然と続けた。

「何って、なんにも。あんたの好きなことをすれば構わないよ。日常生活では勿論こき使うけどね、それ以外は手伝ってほしいことがあればその時に声を掛けるさ。」

 好きな、こと。あたしは、何が好きなんだろう。何が好きだったんだろう。

「言っただろう?のびのびやんなって。まだ若いんだ、ゆっくり考えればいい。すぐに正解を求められるのは勉強の世界だけだからね。」

 そう笑って、理津子さんはポンポンっとあたしの背中を叩いた。冷たく見える細く骨張った手が驚くほど温かくて、そこから熱がジンジン拡がるみたいだった。

「さ、部屋に荷物置いてきな。そしたら夕飯の支度だよ。」

 人使いはちょっと粗そうだけど、この人と暮らす毎日をあたしはきっと好きになると思う。

 そこから一緒に夕飯作りをしながら、シェアハウスと5人の居住者達について教えてもらった。1階は男性専用で2階は女性専用、つまり男性3名女性2名の男女が住んでいる。いちばん長い人で、理津子さんがシェアハウスを始めた10年前からずっとここに住んでいるそうだ。みんな年齢も仕事もバラバラらしく「面倒だからまた直接会った時に教えてもらいな」とそれ以上は匙を投げられた。

「あたしが会うことはあるの?」
「まぁ離れてるとはいえ同じ屋根の一軒家で暮らしてるからね。たまにパーティなんかもするんだよ。餃子やら鍋やら。」

 そんな話をしているうちにちょっと買い出しに行くから煮物の火を見ておいて、と言付けられ理津子さんは30分くらいで戻ると家を出た。甘辛い香りの湯気が立ち込める夕暮れ時のキッチンは、安心感に満ちている。


 理津子さんが切った均一なものとあたしが切った不恰好な野菜が入り混じる食卓は、家で食べていたカタカナ料理とは色味も味も全然違ったけれどとても美味しかった。
 洗い物とお風呂を済ませると理津子さんがお茶の準備をしていたので手伝いを申し出たが、いいからあっちで座んなと制されたので黙って居間に向かう。あっという間の一日が、終わろうとしている。ふと思い出して見た長らく放置していたスマホには一通の知らせも届いておらず、寂しいどころかむしろ居心地が良いとさえ思った。

 ガチャッと鳴る音に顔を上げると、お盆に2人分のティーセットとショートケーキを載せた理津子さんが机の向こうで腰を下ろしたところだった。

「サーヤのは、こっちだよ。」

 そう言って差し出されたショートケーキには“happy birthday”のチョコプレートが付いている。

「えっ、うそ。えっえっ、なんで。」

 慌てふためくあたしを一瞥してケラケラと笑いながら、今日あんたが言っただろう?と理津子さんは美しい所作で紅茶を淹れた。

「白洲 彩絢、19歳です、って。そういや4月頭の生まれだったなって、それで思い出したのさ。」

 4月2日生まれに、良いことなんてひとつもなかった。エイプリルフールと笑えることもなく、学校が始まる前で祝ってもらえることもなく、新年度の慌ただしさでいつも忘れ去られるのに年だけは早く取る。良いことなんて、ひとつもなかったのに。

「1日遅いけど、こればっかりは仕方ないからね。サーヤ、おめでとう。良い1年にするんだよ。」
「・・・ありがとう、理津子さん。ありがとう。」

 食べるか泣くかどっちかにしなよ、と寄越されたティッシュでは拭き切れないほど次から次に涙が出た。ずっとずっと欲しかったおめでとうの一言は合格できなかったあたしにはもう貰えないと思っていたけど、理津子さんだけが真っ直ぐ伝えてくれたその5文字が、最高の誕生日プレゼントだった。

「良い一年に、なるかなぁ?」
「なるんじゃないよ。するんだよ。」

 すぐに手厳しい一言も付け加えられたけれど、ふわふわと甘いショートケーキにはそれが丁度いい塩梅に思えて途端に笑えた。

「食べて泣いて笑って、忙しい子だねェ。」

 そう呆れる理津子さんがとても優しい目をしていることに、あたしはもう気づいている。この人と暮らす毎日をきっと、大好きになる。

 白洲 彩絢、19歳、シェアハウス大家見習い(仮)。
 あたらしい人生が、始まった。


・・・

この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』2022年1月号に寄稿されています。今月も読み切り企画「雪の日のぬくもり」ほか、文活の参加作家が毎週さまざまな小説を投稿していきます。投稿スケジュールの確認と、公開済み作品へのリンクは、以下のページからごらんください。

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