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掌編小説 | 禁断の果実


 深夜1時の少し前、バイトから帰ると玄関に見慣れないハイヒールが置いてあった。母ちゃんが新しく買ったにしてはえらく若作りだ。こんなにも華奢な靴を履いた日には母ちゃんの脚かこのヒールのどちらが先に折れるのか、想像してみるとちょっと笑える。廊下の向こうからうっすらと明かりが漏れているので、珍しくまだ起きているらしい。

 あれじゃ靴の方が耐えらんねぇよ、という俺の皮肉はリビングに入った瞬間「あれじゃ、」という最初の四文字と「たえ・・・?」だけが音になって消えた。この “たえ” というのは耐えらんねぇよの “耐え” ではない。

「よっ、そーちゃん。うわ、なんかまーたデッカくなった?」

 ごくちいさな電気の下でフォークに刺さった林檎を掲げて微笑む女。それは、数年ぶりに会う血の繋がった実の姉・妙(たえ)だった。



「・・・妙、なんでいんの?」

 朝からせかせかと掃除機をかけて動き回る母ちゃんの丸い背中にそう問い掛ける。結局昨晩は驚きと戸惑いでまともに会話もできず逃げるようにシャワーを浴びてしまうと、妙も自室に消えた後だった。

「お母さんにも分からないのよぉ。有給消化?らしくてしばらくこっちにいるけど、私のことは気にしないでーって。なんかお土産にいっぱい林檎持って帰ってきたから、アンタも食べていいわよ。」

 相変わらずヘンな子ねぇ〜とまるで他人事のように話しているが、そのヘンな子を産み育てたのは紛れもない貴女自身だ。

「でも、お母さん嬉しいわ。ちょっとの間だけど妙と蒼(そう)と3人で暮らすの、11年振りよ。」


 8才離れた姉・妙は、高校卒業と同時にすぐ実家を離れて一人暮らしを始めた。俺が10才の頃からほぼ盆と正月にしか会わない人になってしまい、人生の半分以上を離れて過ごした今となっては “姉” というよりも “親戚のおねーさん” という感覚に近い。ここ数年は友人との集まりを優先していたのでその帰省中すらじっくり顔を見ることがなく、あまりに突然の再会にどうやって話せば良いか分からなくなったのもそのせいだった。
 
 夜の闇に溶けてしまいそうなリビングに響いた、シャク…シャク…という音がまだ耳に残っている。骨太で健康体そのものみたいな母ちゃん似の俺とは違い、昔から青白い顔で薄っぺらい身体をした妙。

「妙は、あの人の血を継いだのね。」

 いつか母ちゃんがぽつりと呟いたその血を指す人物が “血縁上の父親” に当たることだけは理解できたが、いちばん古い記憶の時点で既に母ちゃんと妙との3人家族だった俺は “青白い顔で薄っぺらい身体をしているらしい男” のことを今もよく知らないままだ。



 母ちゃんが期待していた11年振りに過ごす一家団欒の雲行きが怪しいと判明したのは、妙が突然帰ってきてから3日目のこと。

「あの子、林檎ばっかり食べてるのよ。」

 バイトや飲み会でほぼ夕食の時間が重ならない母ちゃんと久々に食卓で顔を合わせたその夜、自室から一向に出てこない妙について訊ねてみると溜息混じりに奇妙な言葉が返ってきた。昨日も一昨日も夕食を摂らない妙にどうしたのかと問えば、病気でも体調不良でもないがあまり食欲が無いのだと言う。

「その代わり、お母さんが朝起きたらキッチンの三角ゴミに林檎の芯と皮が残ってるから夜中に食べてるらしいんだけど、毎日毎日林檎だけ、って・・・」

 流石に今回は、相変わらずヘンな子ねぇという常套句は続かなかった。今日もきちんと食事をしましたよ、と言わんばかりに残されたそれらは妙から放たれる唯一の意思表示で、母ちゃんも俺もその意図を汲み取れないまま、とにかく少し様子を見るかという結論に着地せざるを得ない。

「ま、なんか食いたくなったら食うだろ。いつまでも食欲旺盛な母ちゃんと違って、三十路手前で胃もたれでもしてんじゃねぇの?」

 そんなことより早く食べろという怒りが聴こえるように湯気の上がった目の前のトンカツをがぶりと噛めば、じゅわぁっと肉汁が溢れた。そういや妙はカリカリに揚がった両端部分が好きで、ぶ厚い真ん中1切れと両端2切れをいつも等価交換しながら食べてたっけと懐かしいことを思い出した時、向かい側で笑いもせずバラエティを見る母ちゃんがやけに小さく感じた。

「………呑んでる、、!」

 日付が変わったリビングのテーブルには、缶ビール・じゃがりこ・サラミ、という俺のお馴染み夜更かしメンバーが並んでいて、音も立てずに回したドアノブを握りしめたまま目を丸くして突っ立つ妙に気付かずその声に驚かされたのは俺の方だった。

「っうお!!ちょ、突然現れんなって!白くて薄くてこの時間に見るとマジでビビるから。」

 んはっ、と笑いながらまっすぐ冷蔵庫へと向かう妙が野菜室から取り出すものはもう見当が付いている。

「ビビったのはこっち。そーちゃんが呑んでる。そーちゃんが、缶ビール呑んでる〜!!」

 ジャー、ザクッ、ザクッ、シュッシュッ。
 流し台で包丁を握る薄っぺらい背中は、掃除機をかける母ちゃんのそれとは似ても似つかない。

「・・・呑むよ。もうとっくに成人だし。にじゅーいちだし。」

「にじゅー、いち。・・・ふふ、そっか。ちびっこだったそーちゃんも立派な大人かあ。」

 ぽつりぽつりと会話を交わす間に切り終え、ふにゃりと眉を下げて後ろのソファに座った妙の手には、かき氷のように林檎が盛られたガラスの器が乗せられている。いただきまぁす、というちいさな声と共にふんわり甘酸っぱい香りが届けられて、俺は何故だか鼻の奥がツンとなった。


「………飽きないの?」

 何のことかも、その5文字に隠された質問の意図も、すべてを言わなくとも伝わると思った。人生の半分以上を離れて過ごしたとて、妙と俺は姉弟なんだから。


 労力が、あるんだよね。

 少しの沈黙の後、シャク…シャク…というあの咀嚼音に混じって妙はゆっくりと語り出した。

「いろいろ試したんだけど。バナナは剥がすだけ、葡萄は洗うだけ、桃は厄介なんだけど柔らかすぎて、イマイチどれも手応えがなくて。林檎はさ、ちゃんと固いの。グッと力を入れて包丁を刺して、4等分して、芯を取って、皮を剥いて、そこからまた2等分ずつして。食べる前に一度努力しなきゃいけないところが、いいの。」

 へぇ、という言葉の代わりに喉を鳴らしてビールを飲んだ。後ろに座ったままの妙の表情は分からないけれど、なんとなく、どんな顔をしているのか分かるような気がした。

「だから丸齧りはだめなの。事前の労働があってこそ、力を使った身体にぐんぐん沁みる水分だから。あと、咀嚼力がつよいのも林檎の魅力だよね。」

 ーーー咀嚼力、初めて耳にする言葉の組み合わせだ。

「噛み応え?とはまた違うんだよなぁ。うん、なんていうか、咀嚼力。絶対固形のままでは飲み込めないんだけど、かといって砂肝とかスルメみたいに噛めば噛むほどってタイプでもなくって。でも、ゼリーみたくつるんとしていつの間にか飲み込まれる感覚じゃぁ全然物足りないでしょう?」

 ・・・ごちそうさまでした、と呟いた妙がふうーっと満足げに息を吐いた。


「ちゃんと噛んで、ちゃんと食べる。林檎は咀嚼力がつよいの。それは命に関わる力なの。」

 私は生きてる、という妙のメッセージが不思議なほど真っ直ぐ俺の胸に届く。質問に対する正しいアンサーとはまるで違うその演説は、何を言っているのか良く分からないくせに解りすぎるほど解って、ああ、やっぱり血が繋がってるんだなと思えることがとても気持ち悪かった。


「………晩めし、トンカツだったよ。」

 右手に握ったままの缶ビールは冷たさを失っていて、手のひらから漏れ出したいろんなものが吸収されたみたいだ。何か言いたくて、でも何も言えなくて、掠れる声で絞り出した言葉には我ながら女々しさが満ちている。

 トンカツ、とゆっくり繰り返した妙が後ろで立ち上がった気配がしたと思えば、シンクに水を打ち付ける洗い物の音が深夜の会話に終わりを告げた。

「おやすみ、そーちゃん。」

 またしても静かにドアノブを回して消えた妙の代わりに、蛇口から時折零れる水滴が確かに妙が存在したことを教えていた。これならいっそ幽霊の方が良かったのに、と俺は思った。



 それから結局6日間ほど妙は見事に林檎だけを食べ続け(母ちゃんと俺が知る限りは)、俺が大学に行っている7日目の昼過ぎに自宅へと帰っていったらしい。

「スッキリしたから、もう大丈夫。」

 そう告げた妙の顔は痩せていたけど目がちゃんと生きていた、と述べる母ちゃんの持論に頷きつつ、深夜に交わした会話のことは黙っておくことにした。妙と俺が姉弟なように、母ちゃんと妙はもっと強い母娘という繋がりで結ばれていて、だからきっとすべてを言わなくても解るのだろう。

「林檎残ってるから、蒼も食べちゃってね。」

 切ろうか?と訊ねてくれた母ちゃんの誘いは断った。その水分が沁み渡るだけの事前の労働は、今日のバイトで充分賄ったからだ。


 風呂上がり、野菜室に並ぶ真っ赤なそれらを見ていると、なぜかツヤツヤしたものとそうでないものがあることに気がついて “林檎 ツヤ” とスマホで検索をかける。それは『油あがり』と呼ばれるものらしく、林檎そのものに含まれる天然のロウ物質で自身の鮮度を守る為に保温や水を通さない役目を担っているのだそうだ。

 妙の強くて脆い心も、そんなうつくしい鎧が守ってくれたらいいのに。

 そう願いながら、願うだけで、何もできない俺はいつまで経っても「ちびっこだったそーちゃん」のままで、そんな自分の無力さや虚しさを掻き消すようにツヤツヤしたそれにガブリと歯を立てた。口いっぱいに溢れるみずみずしさに、むせ返りそうだ。艶やかで、凛々しく、花のように香り立つ。この真っ赤な果実は、妙にとても良く似合っていた。狂おしいほど、良く似合っていた。


・・・


この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』9月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「のこる」。読後にもじんわり感動がのこるような小説が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。



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