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掌編小説 | インディアン・サマー


前日譚:世界のすべては3.24㎡


・・・



 小学4年生の時に出された国語の宿題は「あなたの名前の由来を調べましょう」というものだった。帰宅後、変わらぬリズムで野菜を刻む母の背中に問い掛けたあの日の夕方をあたしはきっと一生忘れない。たとえ、記憶力が良すぎるという短所のような長所を抜きにしたとしても。

 《小春日和》晩秋の穏やかな気候の日を意味し、俳句の世界では冬の季語、それなのに春という漢字が当てられていて、ちなみに英語で訳すと辞書に出てくるのは “Indian summer/インディアン・サマー”。・・・まったくおかしな話だ、四季がぐるりと巡ってしまった。季節はずれな暖かさって、つまりは感謝されているのか邪険に扱われているのか。まぁそんなことは別にどっちだって構わない。

「ふたりとも秋に生まれちゃって。アキって先に付けたお姉ちゃんと被って困ったのよ。」

 シャッシャッと牛蒡を笹掻きにする音。両手鍋一杯に作られるであろう豚汁はあたしの好物なのだけれど、その一言に空腹だったはずの胃がキュウッと縮こまった気がした。エプロンの結び目をじっと見つめる視線に、いつまで経っても母はまるで気がつかない。それから少しして、後付けのように言い訳のように「小春日和みたいに人の心を温められるひとになってほしい、って書いときなさい。」とひどく忙しそうに告げられた。
 土の匂いで溢れていたはずの母の手元はいつしか、蒟蒻を手で千切る作業に変わっていた。

 小春ーーーあたしにぴったりの、曖昧でちぐはぐな名前。


「…………ね、憶えてる?高校から帰ってきたアキちゃんにこの話したらさ、被って困ったもなにも仕込んだのはそっちでしょ、って言ったの。」

 先に飲んで待ってて、と告げられたとおりにリビングで冷えた白ワインを開けながら、キッチンでパスタを茹でている姉の後ろ姿に話しかける。几帳面に整った必要なものしかないこの部屋は、アキちゃんのさっぱりとした性格そのものみたいだ。あぁ良い香りがする。おそらくボンゴレビアンコ、赤いランドセルをとうに脱いだ今のあたしの大好物。

「えっ、それあたしが小春に言ったの?」
「そうだよー。10才だったからちんぷんかんぷんだったけどさ、なんかその吐き捨てるみたいなアキちゃんの言い方がすっごく残ってて。何年か後に意味が分かった時は笑っちゃったよねぇ。」
「やばいね、ほんと小学生に何教えてんだか。でもさ、ふたりとも秋生まれってのが如何にもって感じでやだったんだと思うのよ。」

 お待たせ、とやはりボンゴレビアンコを置いてくれたアキちゃんのグラスにありがと、とワインを注ぐ。6つ離れた姉はあたしが記憶する限り小さい頃からずっと大人で、大人になった今でも勿論ずっと大人のままだ。

「如何にも?」
「ほら、クリスマスと年末年始で、」
「やぁーだ!親のそういう生々しいやつ、いっちばん考えたくないんですけど、」
 
 前菜として出されていたルッコラとシラスのサラダを思わず吹き出しそうになってしまった。口直しに含んだ白ワインがほろ苦さを消してゆく。それにしてもアキちゃんの家で食べる料理は、いつもお洒落で綺麗な味がする。

「あー、ごめんごめん。まぁあの人達にもさ、そういう時代があったってことよ。お陰様で小春と姉妹になれた訳だし?感謝だよそこは。」
「まったく想像したくないけど、ぜんっぜん想像出来ないよね。」
「何それ、どっちなんだか。」

 たぶんあたし達は今、ふたつの同じ顔を思い浮かべている。禿げ上がった丸い背中の父親、美人の部類だけどいつもどこか冷たい目をした母親。決して嫌いではないし、大切に育ててもらったと思える。有難みもある。だけど、両親が好きかと問われればどうしたって返答に迷ってしまう、そういう存在。

「………我儘言う子は、」
「「うちの子じゃありません?」」

 どちらともなく目配せをして、苦笑いしたままグラスを合わせた。脳裏にこびりつく母の口癖は20数年の時を経たら乾杯の挨拶になるんだよ、とあの頃の我々に教えてあげたい。

「でも、小春は何で急にそんな昔のこと思い出した訳?」

 もう親の話はお終い、とでも言うようにアキちゃんは手酌でお代わりをなみなみと注ぎながら明るく口調を変えた。もうひとつ感謝すべきことは姉妹揃って酒好きの遺伝子を受け継いだことだな、とふと考える。

「あー・・・久々にね、訊かれたの。小春ちゃんって春生まれなの?って。」
「ふうん?男だ?好かれてるのね。」

 完全に面白がりながらこちらを見透かす真っ直ぐな瞳に捕まった。このひとの前で、あたしは昔から嘘などまるでつけない。

「なんで、好かれてるって思うの。」
「名前の由来が知りたいだなんて、心底あなたに興味があるか、よっぽど話のネタに困ってるか、大体どっちかでしょう。」
「・・・後者だったりして。」

 逃げるようにしてパスタを頬張ると、あさりの旨味がじゅわじゅわと詰まった刺激的な海が勢いよく押し寄せた。そういえば、あの日の豚汁はまるで泥みたいな味がして中々飲み込めなかったな、と苦い記憶がふいに蘇る。記憶力というものの正体はすこぶる気分屋で、ほんとうに憶えていたいことは簡単に忘れてしまうのに、今すぐ忘れたいことほど色濃く残ってしまうのだ。記憶に刻まれる、なんていう表現はとても正しいと思う。ナイフで血が出たとはっきり分かる痛みを、馬鹿なあたしは何度も何度も味わってしまった。


「んね!そんなことよりさーぁ、アキちゃんをここまでめろめろにさせたのってどんなひと?やっぱり竹野内豊系?アキちゃん、昔から反町よりも竹野内派だったもんねぇ。」
「めろめろ、ってちょっと死語よ死語。令和のこの時代にビーチボーイズで2択するのもあんたぐらいじゃないの。」

 あぁーおっかしい、とくつくつ笑って目尻を拭うアキちゃんは身内贔屓を差し引いたとしてもすごく色っぽくて艶っぽくて、なんというか愛されてる女の香りがそこら中にぷんぷん漂っている。『あのひとだけいれば、他にはもう何も要らないって思うの』ーーー電話越しですらドキッとするほどの溜め息をこぼしながらうっとりと告げていた大恋愛の真相を探るべく、今夜はこうして姉の家へと押しかけたのだった。

「だってー、アキちゃんが恋愛にのめり込む姿なんて生まれてはじめて見たんだもん。それはそれは結構な衝撃、っていうか、」

 淋しいよ置いて行かないでよ、と続きそうな本音は残り僅かなグラスの中身と共にぐいっと流し込んだ。さっきまで口いっぱいに広がっていたはずの荒れた海が、途端に凪ぐ。

「竹野内系?ではないけど。んんーっと、律儀なひとよ。いつも淡々としてる。」
「えっと、上司、なんだよね?」
「そうよ、毎日5メートル先にいるわ。電話を取り次いで、書類をまとめて、会議をして。」
「・・・えろいね。」
「んふふ、ちゃぁんと真面目に働いてるわよ。仕事は仕事、それはそれ。」

 悪戯に微笑みながらすこしだけ遠い目をしたアキちゃんは、ああきっと今、竹野内(仮)のことを思い出しているんだなと嫌でも分かるような顔をしていた。不思議なことに、それはたしかな自信で愛されている女の顔であると同時に、まるで我が子を慈しむような顔でもあった。

「ねぇ、訊いてもいい?」
「ここで駄目、って言っても結局訊くのが小春のくせに。はいはい、なぁに。」

 そうだった。あたしは昔から実の母親よりも、ずっとずっとアキちゃんのこのやわらかい眼差しに救われて生きてきたんだった。いつもあたしにはアキちゃんがいて、それなのにアキちゃんは6年間もひとりぼっちで、だから大人だったんだと今更ながら哀しく思った。あたしのグラスにお代わりを注ぎながら、ん?と続きを促してくれる愛情と幸福に満ち溢れた姉に、不安定な関係だとしても幸せなのかと問うのは明らかに野暮だ。そしてそんなつまらないことが訊きたかった訳でもなく、どうやらあたしは年甲斐もなしに竹野内(仮)にただ嫉妬しているだけらしい。
 だから、違う質問を探している途中で何故だか代わりにこの言葉が突然こぼれ落ちて、話しながら自分が一番驚いてしまった気がする。

「・・・・ホッカイロをね、あげたの。冬の、うんと寒い夜に。役目が終わったら捨てるのよって言ってその子に渡したのに、冷たくなってもカイロなんて要らなくなっても、まだずうっと、きゅっと握ってて。どうしたら捨ててくれるんだろう。」


 誰かを所有したくないのは、そして誰かに所有されたくないのは、喪失したくないからだ。所有には必ず喪失が付き纏う。それはナイフで滲んだ血が、痛みと引き換えにあたしに教えてくれたとてもシンプルで大切なことだった。どうしていなくなるの。どうして離れたくなるの。痛い、痛い、いたい、いたい。
 いつかの夜。捨てられることと振られることの違いがまるで分からなかった傷だらけのあたしは、検索サイトをぼんやりと眺めていた。たどり着いたベストアンサーには「誠意の有無」という記載があったのだけれど、誠意がある終わり方ってなんだろうと可笑しくなってしまう。誠意?振られる時の誠意って一体なあに?もしもそんな恐ろしい “誠の意思” とやらが本当に存在するのであれば、あたしは優しく丁寧に振られるよりもいっそ使い捨てカイロのようにポイっと捨てられたい。役目は果たしますから。必死に8時間温めますから。その代わり、後でちゃんと捨てるのよ。それでもいい?出逢った時点で予防線を張るようにそう約束させて、あたしは必要以上に傷つくことから逃げ出した。

 それが不倫でも恋人でも夫婦でも、この世に永遠なんていうものは存在しないのに。それなのに、みんな何かを必死に願って祈って、不安定で不確かな関係を築こうともがくことは果たして幸せと言えるのだろうか。あたしには分からない、苦しくて怖い。もうあんなに惨めで心がばらばらに引きちぎれそうな気持ちを味わうのは嫌だ。
 “どうしたら、捨ててくれるの?” 本当にそう訊ねたかったのは、きっと姉でも他の誰でもなく、重々気をつけていたはずなのに近づきすぎてしまったあの子に対してだった。


「・・・そうねぇ。でも一度渡してしまったのなら、捨てることを決めるのはもう小春の権利じゃなくって、その相手なんじゃない。」

 アキちゃんは変わらず、やわらかい眼差しのままぽつりと呟いた。あたしに言ったようにも聞こえたし、どこかでは自分に言い聞かせているようにも見えた。

「小春にとってはただ一晩の寒さを凌がせるためのホッカイロだったかも知れないけど、もしかしたら貰った相手からすると人生が変わるくらいの宝物になったのかも知れないわよ。だって要らないひとはそんなもの、もうとっくに捨ててるはずだもの。それって、なんだかすっごく幸せなことだと思うけど。」


 あれぇ、わらしべ長者ってこういう話だっけ?と首を傾げるアキちゃんのその言葉は、どんよりした寒い曇り空をかき分けて差し込むひとすじの陽射しみたいにあたしの深い深い傷口まで届いた。切り傷にそうっと薬が塗られてゆくように、泣きたくなるほど心臓がジンジンしている。ほんのりと頬を薔薇色に染めたうつくしい姉の横顔はやっぱり聖母マリアに良く似ていて、あたしは下世話だけれどクリスマスと年末年始に2回盛り上がってくれた両親のことが初めて好きだと思った。あたしをアキちゃんの妹にしてくれてありがとう、こんなにも素晴らしい人と血が繋がっている。その事実だけは永遠だから、何があっても安心して生きてゆかれると誇らしくなった。

 そして、もしもホッカイロをあげたあたしがわらしべ長者になれたのならば、代わりに手に入れたヤマシタくんはきっと天使だろう。どこか南のほうで生まれたらしいヤマシタくん、こめかみを乗せると肩の出っ張りが最高にジャストフィットするヤマシタくん。彼と過ごす日々は「ずっと一緒にいたい」と「はやく離れたい」が、同じ分量だけいつもぶつかり合っている。堅く閉ざしたはずの扉が今にも開いてしまいそうで、あたしはひどく怖かった。けれど、自ら去ってしまうとそのまま永遠に彼を所有してしまう気がして。あたしのことはやく捨ててね、毎日の終わりに縋るようにしてそう告げることしかできなかった。

 この先、何かと引き換えにいつか彼も消えてしまうのだろうか。きゅっと握ってくれたカイロが、要らなくなる日がくるのだろうか。あたしにはもうそれを決める権利がないのならば、せめて今だけは。


「………ねぇ、アキちゃん。今度さ、名前の由来聞いてくれた子、ここに連れてきていい?」
「もちろん!一緒に飲もうよ。えっやだ、もしかして反町系?」
「うーーーん。ヤマシタくん豆柴っぽいから、それが全っ然真逆なんだよなぁ。」
「反町に豆柴感はまったくないもんね。どっちかと言えば、あれは完全にドーベルマンだから。」

 げらげら笑いながら酔いの回ったあたしとアキちゃんは、ちょっとこれビーチボーイズ観るしかないよねぇと言っていつものように見飽きるほど見たDVDを付けた。必要なものしか無いはずのこの部屋に何故かビーチボーイズのDVDBOXがあることが、人生は厄介で愛おしいという証拠だとあたしはつい嬉しくなってしまう。



 インディアン・サマー。小春日和だけでなくそこには “人生の晩年で過ごす穏やかで幸福な時間” という意味もあるらしい。晩秋から初冬にかけて、誰だって訳もなく人恋しくなって淋しさを感じてしまう季節に生まれたあたし達。けれど、ほんの一瞬。コートの襟を合わせて身震いするほどの隙間風の中で、穏やかなひとときが降り注ぐ短い奇跡が起こったら。そんな一瞬一瞬を重ねられたらーーー?
 願わくば彼とふたりで、その続きを見てみたい。微笑む聖母マリアの隣で、あたしはちいさくそう祈った。ちいさくつよく、そう祈った。



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