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あっちとそっちをやって、まん中を探る~体験~

両親に、誕生のかけがえのなさをこころから愛でられ、親族じゅう、そして近隣縁者から無条件に護られ愛でられ育ったわたしは世界に対して、生命の価値にたいして絶対的な安心感をいだいてきた。

だから、じぶんfirst=ひともwin=世界もwin 前提の世界しかしらなかった。

当然、子をもち始めた毎日は、感覚優先、体感優先、『いま、じぶんはどう感じ、どうしたいのか』に耳を傾け、互いに伝え逢い、そして選んでいく。を重ねながら、それぞれの「したい」を、送りあい、聴きあい、新しいコタエを見出すことを繰り返し、
子ども達は子供たちの地球人か月を、わたしはワタシのひとりの母か月、ふたりの母か月を、育ちあいはぐくみあってきた。

それは、意見すると常識外れ感まんさい、かも

食べる時間、食べるもの、遊び方、遊ぶ時間etc
ほかの方とはかなり違ったとしても、子らとの調和は容易かった。生命をわかちあった仲間どうしの聴きあいだから。

おのずと源からのヨロコビと伴に在りつづけ、常にpowerfulで在れた。

使命に素づいた、キワキワの選択を生きるなかで、いったん脇にpauseしていた生命をわかちあった家族との調和。
自ら興した革命に、最前線で身を投じゆさぶる中でかなりカラダが荒んだ日々。

いま、最近、とうとうイノチが悲鳴を挙げた。
子ども達が味わってもみたい、そんな風に感じているようなので、
我が家流の本質的やり方、在り方がどれほど生命に従順で、源のチカラと伴にあることか、
たぶん我が家にとっては三人にとってはそれが当たり前すぎで、有難みを感じられないから、なんだろうな。。
あるもの、持てるもの、ことは、あたりまえすぎて見えない、感じないなんとなく、じぶんの人生になかったトコロをやってみている

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