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コンビニ店長の権利は景品か?罰ゲームか?つづき

昨日の記事で、仮想コンビニポイント制度のお話しをしました。お店の運営に関わってもらい、ポイントをgetする、そのポイントを使って商品をお金とは違う比率で商品を購入できるシステムです。

それを提案した理由は、自分たちの暮らしに便利なもの、ことへの主体的参加権、選挙権に似たものですね。そして、無駄な流通、無駄な廃棄を少しでもなくしたいという想いもあります。

たとえば、こどもや、高齢のかた、手間をかける時間を節約したいけれどもさほどお金を費やすこころの余裕がない状態の場合、運営、経営、販売にかかわりながら、廃棄時間前に廃棄になりそうなものをポイントだとお金よりも比率よく購入できる、などの場合、もちろん、定価で売れなければお店の売り上げが落ちる危険もあるわけですが、そこは、もうすでに共犯者側に回っている立場「のはず」、お店がたちゆかなくなってしまってはそもそも意味がないなのですから。

このようなシステムが思い浮かんだときに、もう一つ思ったことがあります。全国チェーンのファースト・フードやファミレス、などでもそのお店がすき、というひとたちで情報を共有し、いまの時間この店が空いてる、最近このお店は売り上げが落ちてる、そこを助けにはせ参じた場合に、なにかポイントのようなものが付加されて、そういったお店でも地球やひとの身体にやさしいが、なかなか競争にかつためには使用できない素材・レシピの高級メニューを特権としてお得意様は食べることができる、というもの。いつもならべていなくてよくて、競争の必要もない、けれど、そういった配慮の必要性・大切さをどんな店も認識し「出来る」環境、流れを敷いてみる。先に出来る、が設定されれば、そしてそれが美味しかったら、当然予約してもすこし高額でも、それらを利用したい、購入したいという層は必ず派生してくると思うのです。

ここでもたいせつになってくるのは、自分にとって、自分たちにとってなにが大切かということを、行動しながら暮らしながら、楽しみながら「問う」姿勢を持つ機会があたえられるということです。

本当はよくない、本当は、、、そう思いながらもやめられないこと、じつは結構、ひとはやっていたり、もっていたりするものではないでしょうか。

そういった小さな積み重ねのひとつひとつが、なにかを、誰かや何かのせいにし責めたり、攻撃したり、奪ったりしたくなるきっかけとなる。

自分が、自分の大切なこと、ニーズに繊細に丁寧で在れていた時に、いったいどんな理由でひとと争ったりしたいと思うことでしょう。同じ、ひとのこ、おなじ生の享受者、おなじ人間同士でした、ないのですから。

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