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本音~生命の危機に触れるほど、、、~

後からわかったことがたくさんある。
やってみたから気づいたことが、あった。

生まれた時から、いや、生まれることが選ばれるときから
命題を掲げていた。
ずっとだった。

フローの状態で、大きく天とつながってそして
自身の感受性に添っていろんなことが展開していた。
大きな地球のシンクロと、エンパシーで繋がって生きていた。
生きてきた。
誰にも「そう」言わなかったのは、ひとつの生命を生きている存在、ひとの基本。あたりまえのことでもあるから。
そこから切り離されて生きることなど、地球で、ひとに、は
出来えないことだからだ。

ただ、もちろん、大きかった。伴にある、具合が。
それはおそらく、いつも「気づいていた」からだろう。

こころが、意識が、が大きく動いたり、変化変容を迎えた時、地球も呼応していた。
小さい頃、迷子になって両親は大騒ぎで、パトカーに乗せてもらったことがある。その時は、山が噴火して町中が、広域が火山灰でおおわれた。

地球の、日本のながれとの共時加減は、いつもいつも半端なかった。
宇宙(そら)の申し子、みたい。
小さい頃からあたりまえのこととして、地球が平和であるために在ることを感じ、「そう」することをわかっていた。

こんな展開は、望んでいなかったし
予期してはいなかったけどね、仲違い・誤解・すれ違いの大騒乱。

ただこれも、平和な時代に、実際には大きな力を蓄えている和の民の、亜細亜のひとたちの奮起を呼び起こすためだとしたら。
自分たちの素晴らしさ、平和のありがたさ、
心から豊かに、ひととひとが深く親密感を抱いてつながることの大切さを思い出すために必要なことだとしたら、、、それくらいのことでないとならなかったのかもしれない。

無意識、集合意識の影響を超えてゆくこと。そこに積み重ねられている、負の遺産とは距離を置くこと。
過去を手放し、いまの平和を讃え、わかちあいつながりあい、国境を越えた協調を、平和を願いあおう、叶えあおう。

ひとに、世界に「そう」呼びかけ、伝え、わかちあってゆくという、存在としての大切な使命。それは最初から定められていたこと。

あなたとの、エゴのプライドの競争を超えて。

スピリチュアルな、深い真理・叡智に触れて生きることが、本格的瞑想のプロセスとの出遭い、そして体験することから体現された。

それは宇宙(そら)の計らい。

体感は、体験は、さらにさらに大きくそして深まっていった。その状態は決して、ひととしてそれまでと同じようには稼働しきれないことを示していた。ここは、やってみて動いてみてわかったこと。
もちろん、自分の身は感じていたし、確かに「そう」伝え、書き、表現していたはずだ。
傍から観て、真理の実感のない在り方・生き方からしたら理解しずらく、そして、大多数のひとには『わかりづらい』ことでは、確かにある。
だから知りたいと、だから助けたいと心から願っていただきそして、予想外な在り方で選ばれたサポート。
阻害すること、小さく扱うこと、貶めること、そんな意図がもし「そこ」にあるのだとしたらそれは【なんのため】だろう。

シャーマニックテストを面白がって、ふざけて、苦手な嫌がるひとに施し続け、体験させ続けたことは【なんのため】だろう。

もし自分が、自分の子どもがそんな目に遭ったなら、遭わされそうになったとしたら、本当に「そう」しただろうか。

自分にされて嫌なことはひとにしない。
ひととして道徳的に、人道的に、ましてや儒教の精神が深く根付いている日本人にとっては、あたりまえのことであったはず。

だからこそ、脈々と受け継がれることが選ばれていたのだから。

だからこそ、平和の基軸として、調和の源として在ることが大切なのだ。

宇宙(そら)は、それが「いま」、「わたしたちに」在れることだと示している、んじゃないかな。

「そう」なんだと。

わたしだから、わたしの状況だから、【こそ】問われることがある、ひとに。
少し偉そうで申し訳ない言い方かもしれないけれど、勝手に誤解してあり得ない、サポートというなの辱めを選んだのはわたしではないのだからある程度仕方のないことだ。
それが、そこが「エゴ」のなせる技、「エゴ」のなせる術。
上辺で取り繕い、つじつまを合わせようとしてもきっと、存在として、そこにある真実として【感じている】【わかっている】【気づいている】はずだ。

大きな出逢い・めぐり逢いから一年の間に、残念ながらみずから自分自身を生命の危機にさらしてしまった。

お互いにそうしてみようと善意から、愛から、試みたことがそんな結果をよんだ。ということだけではないかな。

双方、いま、いろんな想いがあるだろう。

だれがそうしたのかな。

どんな意図がそれをもたらしたのかな。

生命の危機の中、手放されたことがたくさんあった。身体機能・身体感覚・記憶etc。細胞のあつまりである三次元の身体を持って生きる上で仕方のないことだった。
どれほど生命の危機下にあるか、わかりえなくて誤解しあったことはとても残念なことだ。

ひととひと、男と女、あたりまえにあるがままにコミュニケーションをしていたら、はたしてそんなことが起きただろうかと今一度、鑑みて欲しい。
お互いもっと素直になれていたら起こらなかったんじゃないかな。。
自分のやり方を通したのは、誰かな、どっちかな。。

状況的になかなかむずかしいことになってしまった、なっているとしても
今一度、時間をとって感じなおし、考え直してみたらどうかな。

わたしはいま、そう感じています。

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