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て加減

ひとの力、能力、
表現
を、どう「感じ」るか、どう「判断」するか
あなたは何を基準にそれを決める?

先入観?
みため、じぶんの「せまい」経験、「みたことがある」こと、もの、世界
から、勝手にじぶんで「そう」だと、思わず決めたくなったりするかもしれない。

それは例えば、「子ども」だから「大人」だから
「男」だから「女」だからetc

けど、それってホント?
だって、何故「そう」思ったんだろう。何故「そう」決めたんだろう。
もしかしたらそれは、言葉の表現形態の枠にすぎなかったり、しないかな。

子どもだから、男だから、女だからって て加減を

あなたが いつも、必ずもっていがちだったとして
それがもしかしたら少し勝手だったとしたら、、。


ひとの生命、存在のかけがえのなさ
生まれ、逝く巡りを何度か体験し、感じること・動きのはじまりをみて
そんな全部が、思考の枠、思い込みにすぎないんだなと気づいた。

「思い出した」という表現のほうが近いかな。


「そう」なんだな、

純粋にありのままあるがままに、本当は本質的には、

いま、
そのようである
、というだけのこと。


子どもは、わかっていない、出来ない存在にしときたくなるのは、

表現、語彙、場数、の違い
身体、言葉、表現を、つかい慣れてるか、慣れていないかの違いがあるから
なのではないかな。

そんな風にみてみるとしたら、その動き、その瞳はあなたになにを語りかけてくるだろう。

年齢と、見た目と、  思考と、ことばと、  自分の過去の体験
だけで、
決めつけない、判断しないとしたら、
目の前のそれ、その人、そのことは、
どんな風にみえ、感じられてくるだろう。

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