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樋口一葉「たけくらべ」の思い出

樋口一葉の「たけくらべ」を翻訳しています。
原文は青空文庫などで無料で読めたり、豆本の本文にも使用できますが、現代語訳となると著作権の関係でそうもゆきません。
そこで自力で翻訳、ということになるのですが、これが早々簡単にはいきません。

樋口一葉は明治の女流作家です。五千円札の肖像になっているので、お顔をご存知の方も多いのではないでしょうか。24歳の若さで夭折した天才作家です。

私が「たけくらべ」という物語を知ったのは、漫画の「ガラスの仮面」でした。ガラスの仮面の中で舞台として上演されていた演目でした。なので、何となく物語の筋書きを知っている程度でしたが、原文もてっきり児童文学のようにやさしくわかりやすいものだと思い込んでいました。
ところが、豆本をつくるにあたって、青空文庫でたけくらべの原文を読んでびっくりしました。

こんな感じで始まります。

「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き、三嶋神社の角をまがりてより是れぞと見ゆる大厦もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利かぬ處とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形に紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田樂みるやう、裏にはりたる串のさまもをかし、...」

このだらだら?とした文章が章の区切りまで、句読点なしに(「、」はあるけど「。」がない)続きます。

ましてや初っ端から意味不明です(^◇^;
まず、大門とは何ぞや?(そもそも「大門」の読み方は?「だいもん」?「おおもん」?)この大門に見返り柳という柳があるらしい。そこを廻るのか?長いとは何が長いのだ?柳の枝が長いのかなぁ?
てな調子で、一向に意味がつかめない。

これは果たして日本語なのか?昔(明治)の人はこんな文章をすらすらと理解していたなんてスゴイ!と感心ばかりしているわけにはいかないので、とにかく調べてみることにしました。

たけくらべを読み解くためには、まず明治当時の時代背景を知る必要があります。この物語は東京の吉原界隈の子供たちの様子を描いたものです。
余談ですがタイトルの「たけくらべ」は「背丈くらべ」という意味です。ところが私はずっと「子供たちが竹馬に乗って遊ぶ様子」を描いた無邪気な物語だと勘違いしていました。

吉原といえば、江戸時代から続き江戸幕府によって公認された遊廓の総称で、いわゆる売春をする処です。私がそのような場所のことを詳しく知っているわけもなく、なので最初から意味不明でしたが、そうだと知れば何となく意味がわかってくるような気がしました。
さて、それでは最初のほうだけちょっと翻訳してみましょう。

「廻れば大門の見返り柳いと長けれど」

『私の住むこの辺りからすると、吉原遊郭の入口の大門までは、表通りを東へぐるりと長く回ることになる。その道筋は、遊郭帰りの客が名残惜しんで振り返るという見返り柳の枝のように長い。』

となります。
「大門」というのは吉原遊郭の正門のことで、当時、吉原への出入り口は大門ひとつだけだったそうです。これは治安の為だけでなく、遊女の逃亡を防ぐ事が目的だったと言われています。
「廻れば」というのは、私の住むこの辺りから大門までは、ぐるりと廻らなければならない距離だから、ということらしい。「私の住むこの辺り」とは一体どの辺りのことなのだろう?という疑問は残るが、おそらく著者の住んでいたとされる東京台東区竜泉辺りのことだろうか。
その距離が見返り柳の枝のように長い、というところにかけてある。
見返り柳というのは大門のそばにあって、客が馴染みの遊女のことを、未練たらしく振り返る場所に生えていたことから名づけられました。
のように、たった16文字を訳すだけで、当時の時代背景の知識と、現在のかたぎの一般庶民には縁のない、遊郭などといういかがわしい(^◇^)?場所の知識も必要になりました。

こんな調子なので、全文訳すにはかなりの時間がかかりそうですが、他の現代語訳なども参考にしてやってみたいと思っています。

ところで私が特別に「たけくらべ」という物語に執着があるのにはワケがあります。私は台東区にある「樋口一葉記念館」に行ったことがあります。

それは中学3年の時でした。
高校受験も終わり、希望の学校に入学をひかえた私は、入学祝として時計を買ってもらえることになり、台東区にある父の知り合いの時計屋に出かけました。
その家には私と同い年の少女がいて、その子と一緒に時計屋のすぐ近所にある「樋口一葉記念館」を見学しました。

記念館に歩いてゆく道すがら、いろいろとお話をしました。
彼女は時計屋夫婦の実子ではなく、姪にあたる続柄でした。彼女の両親は交通事故で亡くなっており、叔母夫婦を保護者として時計屋で暮らしていました。入学祝に時計を買いに来た私たち父子を見ていてか、話題は高校進学についてでした。

彼女は私に
「入学する高校は普通科ですか?いいですねぇ、普通科にゆけて。私はホントは普通科に行きたかったのだけど、叔母が私には両親がいないので、将来の自立のためにも商業科に行きなさいと言うので、厄介になっている身の上でもあるし、しぶしぶ商業科に行くことになりました。」
と話しました。

そのとき私は、はっ!としました。自分の進路について、自分の希望する道を進めないなどとは、それまで一度も考えたことも想像すらしなかったからです。当たり前のように、両親から生活も保護され、進路も自由に決められることが、いかに恵まれたものなのか、私はそのときに初めて気が付きました。
彼女はけして卑屈な感じの人ではなく、さらりと身の上を語ってくれましたが、理不尽な身の上に悲しい思いをしていた気持ちが伝わってきて、申し訳ないような気持になりました。希望の高校に入学できて、いそいそとその祝いの品を父子で買いに来た私を、彼女はどんな思いで見ていたのでしょう。

「たけくらべ」の主人公美登利はいずれは遊女になる14歳の少女です。自分の進む道を(とくに女性の)自由に選べなかった時代とはいえ、美登利はどんな思いでいたのでしょう。そんな主人公の姿が、私には彼女と重なって見えて、何とも哀しい胸が締め付けられるような気持になりました。
たけくらべに触れるたびに、私は彼女のことを思い出します。今はどうしているのだろう、幸せに暮らしているだろうかと。
そんな思いを抱きつつ、私は翻訳を進めています。

最後に樋口一葉の文体についてですが、内容を理解し読み進めると、まるで音楽を聴いているような、とても流ちょうでしなやかなリズムが感じられるようになります。物語の内容だけでなく、文学というものはその文体の美しさにもあるということが、理解できるようになりました。やはり「たけくらべ」は名作なのです。

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