空き家再生プロジェクト(その9)
弓削島で古民家再生のためのワークショップを連続して行っていたところ、上島町の方からお声がけをいただきました。上島町に寄付された古民家があるので、みて欲しいというリクエストでした。2014年2月ごろのことでした。少し時間があいてしまいましたが同年7月に上島町に行き、現地を案内していただきました。弓削島には「踊り場」と呼ばれる、祭りの中心になる集落の広場がいくつかあります。街路がそこだけ広くなっていて、お祭りの際にはそこに櫓が組まれ、踊りなどが踊られる集落の中心的な場です。その踊り場に面した古民家は、瀬戸内の特徴的な焼杉に漆喰、黒瓦の立派なものでした。これが「旧梅林邸」との出会いです。
これから掲載する写真は全て、その後、改めて島に行き、始めに現地調査を行った2014年8月に撮影したものです。寄付を受けた上島町もしばらくこの建物をそのままにしていたため、屋外の雑草は伸び放題で、内部を見るために玄関に到達するのも一苦労という様子でした。踊り場に面した立派な長屋門のある住宅だったのですが、踊り場から長屋門に向かうアプローチもこの通りです。
長屋門を通って中庭をぬけ、そこから玄関に向かいますが、背丈よりも高い雑草に行く手を阻まれてなかなか思うように進めませんでした。
長屋門に隣接して、この建物には蔵がありました。写真のように雑草に覆われ、妻面の漆喰壁も剥落し瓦もかなり破損していました。瀬戸内では、2001(平成13)年に芸予地震が起こり、弓削島でも震度5強を観測しました。この際、多くの土壁や漆喰壁の崩落が見られ、瓦などにも被害がありました。
母屋は2階建てですが、内部は住んでいたままの状態。写真は1階の様子です。
奥の間には靖国神社の写真と住民が晩年寝ていた介護ベッドがそのまま置いてありました。
別の部屋には様々な生活用品が詰め込まれていました。箪笥には和服がたくさん入っていました。
仏壇もそのままで、写真や位牌も置いてあるような状態だったと記憶しています。
2階は茶道具などが色々と置いてありました。
2階と同じレベルの屋根裏には大きな長持などが置いてありました。弓削島は高級船員が多く出た島で、海外からのお土産なども置いてありました。
台所のの様子。当時生活していたままです。元は、土間だったところに床が張られていて、このようなシステムキッチンが入り、昭和の台所の様子になっていました。古民家の中では一番新しくした部分だったのかもしれませんが、こうしたチープな設は経年変化には耐えられませんね。
最後に縁側の様子。南側の庭に面した気持ちの良い場所であるはずの縁側が、このように物置になっているケースも空き家にはよくあります。元はなかったと思われるカーテンが取り付けられ、障子を閉めて生活するようになってしまうと自然に裏方になっていくのでしょうか。悲しい成り行きです。
再び、同年9月に現地確認に行きました。この日の目的は、内部の不要なものを廃棄するに当たって、取っておくべきものと不要なものを仕分ける作業を行うためでした。
上島町の方があれから草刈りをしてくださったため、踊り場から見たアプローチもだいぶスッキリしていました。
前回は、雑草が背丈よりも茂っていたため撮影することが困難だった母家の外観です。2階の雨樋は外れてしまっています。瓦がだいぶずれ、所々に雨漏りがある様子。
長屋門の軒下の様子。長屋門もだいぶ傷んでしまっていました。
1階の奥座敷から見返した写真。家財などは前回と同じ状況です。
2階に上がる急な階段。2階から見下ろしています。
2階の写真。
2階の写真。奥の座敷からの見返し。
2階の写真。奥の座敷の床の間まわり。押し入れには布団が満載です。
今では、綺麗な「古民家弓削の宿」として再生利用されているこの建物の、ビフォアがどんな様子だったかという記録集でした。古民家再生をやっているとよくある居抜きの状態。前に住んでいらした方の生活の雰囲気が色濃く残るところにお邪魔して、勝手に内部を踏み荒らしているような気分になってしまうこうした状況は、家の寂れた感じと相俟って、未だにちょっと心が重くなってしまいます。
しかし、ここで気持ちを切り替えて、再生に向けて動くのがプロの立場。
この日の目的は、必要なものと不要なものの仕分け。
現地調査の後で、作った資料は、以下のようなものでした。
1階は、古い家具や道具などの面白いものは残し、建具、襖、屏風などは全て残し、それ以外は全て破棄の指示としています。
2階も同様ですが、古い写真など家族に関連するものは親類の方に確認していただくように指示しています。お茶道具なども残していただきました。平面図は今回の確認で実測した寸法を元にざっと書き起こしたCAD図です。本格的な実測は、この後始まります。
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