あたためる この世のすべてが類想になった時渡したい言葉を
あたためる この世のすべてが類想になった時渡したい言葉を/藤井
2022.9.17 うたの日『時』
愛おしいと思った時に、好きと伝えるように。
心を痛めた時に、悲しいと伝えるように。
感謝した時に、ありがとうと伝えるように。
傷つけてしまった時に、ごめんと伝えるように。
私たちはみんな違う人間なのに、同じ感情を抱いて、それを同じ言葉で伝える。
なんなら、同じ感情ですらないかもしれない。
感情を表すというのは、2人の人間がりんごを指差して「りんご」と言うのとは違う。
嬉しさにりんごのような形や色はないのに、きみが嬉しいと言って、私も嬉しいと言った時、その嬉しさが全く同じ感情かどうかなんてわからないのに、私たちは同じ「嬉しい」という言葉を使っている。
私は、きみの嬉しさとは違うかもしれない私の嬉しさを、きみと同じ「嬉しい」という言葉で表現するしかない。
私たちは、それくらいの語彙しか持たないのに。
それなのに、類想をどうして防げるだろう。
類想を肯定しているわけではない。
私は歌を作るときに、ありがちなフレーズや情景にはそもそもならないようにしたいと思っているし、怪しいなと思ったら検索したりもする。
逆に誰かの歌が、前に自分が詠んだ歌とはじめの5・7が全く同じだとか、構成が似ているだとか、そんなときはなんとなく息が詰まったりする。
でも、すべてはありふれてしまうから。
大切だと思うから、ありふれていくのだから。
言葉や語彙が少しずつ増えていたとしても、そうやってすべてがありふれていくスピードには、きっと勝てない。
何千年、何億年後に、この世界がすべて類想になってしまったら。
そのとき私は何も検索せずに、過去に誰が何をどんな言葉で表現したかを一切気にせずに、きみに私の言葉を渡すよ。
だからその時まで、私は私が抱く感情を、誰のものとも比べたりせずに、ただあたためていたい。
たいせつな言葉はいつかありふれる だからあなたの声で聞きたい
でも類想は気をつけます!ピシッ!
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