施政方針演説(能登地震)

第二百十三回国会における岸田内閣総理大臣施政方針演説、能登編。

こうした厳しい状況の中でも、なによりも素晴らしいのは、被災者の皆さん、また、支援に携わる皆さんの整然とした行動と「絆(きずな)の力」です。発災直後の大混乱した状況は、皆さんの忍耐強い協力によって段々と落ち着きを取り戻しています。「能登はやさしや土までも」と言われる、外に優しく、内に強靱(きょうじん)な能登の皆さんの底力に深く敬意を表します。

首相官邸

これらに共通しているのは、日本人の伝統的な強みである「絆の力」がデジタル、スタートアップ、新たな官民連携、資源循環など新しい要素と組み合わされてパワーアップし、日本の「新たな力」となっている姿です。

首相官邸

「絆の力」これを主軸に書かれた原稿。今回の演説はポイントとなる箇所にこの言葉が複数挟まれた。誰が考えたのか、文学的要素は残念ながら見られず、些かセンスに欠ける言葉遣いである。「絆の力」だなんて厨二病のようで、ちょっと痒い。

それはさて置き、

「日本人の伝統的な強みである絆の力」というところに強烈な違和感を持った。

私だけが知らなかったのか、「絆の力」が「日本人の伝統的な強み」だったなんて、今まで、感じたことはついぞ無かったが。私だけかな?

絆という名のステークホルダーの範囲を中央政府が決め、その範囲内だけで助け合う姿、なら嫌というほど見て来たが。それは「日本全体」ではない。

伝統的かと言えばまぁそういった狭い範囲内で絆を感じあっている連綿と続くボーイズクラブのことを指すならそこはそうなんだろう。

しかし私が岸田文雄氏と絆なんて感じたことは未だかつてない。もちろん彼らの言う絆の範囲内に、ヒエラルキー最下層の私はもちろん入っていないから仕方ない。

日本の権力者が「絆」と口にする時に感じるこの違和感はおそらく以前菅義偉氏が宣った「自助・共助・公助」ということを連想させるからだと思う。
もはや先進国の首相が口にするとは信じられぬお粗末な言葉が、時の首相から聞かれた時のあの失望感。

何が「自助」だと白けたが、恐ろしいのは市民の声が上がらなかったこと。こんなふざけた言葉、盛大にブーイングが起こるべきではないか。プリプリ怒って不機嫌なのは、周囲では私くらいだった。

岸田文雄氏が、ライターの書いた原稿を朗読しただけだとしても、この原稿を彼が読む時に「能登の皆さん、お行儀よく協力してなんとかやってくださいね。私たちは応援しています(何もしないけど)」という書かれていない字幕が見えるのは私だけではあるまい。

思えばコロナ禍で、安倍晋三氏に殺されると本気で震撼とした。何せ、彼は何も政策を進めないのだ。

安倍晋三と言えば、星野源の歌と共に彼がお茶を飲む動画が忘れられない。あの動画から受けるメッセージは、ステイホームしよう、でも政治家が日本ポップスと組み合わせて政治を身近なものにした、でもない。

あの動画から発せられる強烈なメッセージは、ただ一つ。
「日本国の首相はうすらバカ」
ということしかなかった。
あの段階で、あの動画を、しかもあの内容で、平気で出せるところが、盛大なバカである。
後世に語り継いでほしい。あれが、一国の最高権力者であったという悲劇を。
私はあの時、おそらくこのまま私が息絶えるまで、時の権力者に放置されるのだろうと思ったものだ。そして実際、放置され続けていて私も順調に息絶える方向に進んでいる。

しかも「何もしないで放置」するだけでなく、「今それじゃない」政策を出したり「それだけはしてほしくない」政策を出したりするのだから害悪極まりない。マスクとかも。gotoとかも。

話は戻り。

被災者の所業を讃え、ボランティアなども褒め称えるが、中央政府としては高みから見物する。「絆の力」という言葉に、こんな意味を感じる。

今回の能登半島地震の初手に、首相や馳知事が盛大に「ボランティアは来るな」アピールをした。私は胡散臭を感じ、なるべく情報を集めようとしたがなかなか集まらない。記者がおそらく彼の地にいないのか、情報規制されていたのか、真実は分からない。判断材料が少なすぎる。

人間のして来たことを判断するのは、常に後世の歴史家であった。だから今この段階では、首相や知事の決断が正しいか否かは、誰にも判断できないと思う。ぜひ後世の歴史家に期待したい。

しかし、小泉純一郎くらいから、いや、もしかしたらもっと前から、日本は「検証する力」を失っていやしないだろうか。検証とは、「様々な事実を照らし合わせ分析をする」「第三者」による、検証のことだ。

これには、公文書はもちろん欠かせない。(だから粗末に扱う人たちのことは私は酷く憎む)なるべく些細なことでも情報は大切にしてほしい。

そして、検証するのは第三者でなければならない。本当の意味での第三者というのは難しいかもしれないが、少なくとも自民党の「政治刷新本部」などという茶番には、熱湯を浴びせたい。

だから、私たちが沈黙していては、彼らはこの能登地方地震の振り返りなんてしない。検証するように、声を上げたい。検証しなければ、今後災害が起こった時にはまたお粗末な公助がお恵み程度に施されるだけなんだ。

今回の能登半島地震では、中央政府は本当に災害に向き合ったと言えるのか、それを、落ち着いたら必ず検証してほしい。

これだけの災害大国で、30年前の阪神淡路大震災から、何も進歩していないと見られるのは、私だけだろうか?明らかに予算配分の誤りであり、政策のミステイクではないだろうかと感じるのは、私だけ?

こう言う言い方は気をつけなければならないが、私は先を予想して動くことが苦手な発達特性を持つ。だからなんとなく感じられるのだが、中央政府の所業を眺めていると、永田町全体が、何かの発達障害を抱えているのではないかと心配になる。(こんな例に発達障害を使ってはならないが、国の政は私のような障害を持つ人には委ねたくない)。災害対策は、個々人では限度がある。公助がなんとしても必要なのだ。これはベネフィットとか、国民を甘やかすということではない。人権の問題なのだ。自助は嫌と言うほどして来たのだから、今後は公助の尺を増やさねば、同じような状態が続いてしまう。

「できることはすべてやる」という不毛な言葉も演説内で聞かれたが、お笑い芸人の禅問答紛いの意味のない言葉である。

もはや、まつりごとが、「絆の力」「日本の伝統的な絆」「できることはすべてやる」などというまるで宗教のようなあやふやなふんわりした言葉で彩られてしまった。

今回の災害の支援について、中央政府以下、自治体までも、私の目にはお粗末にしか見えないし、これだけのGDPがある国の災害支援には見えないし、あまつさえ

たくさんの人たちを見殺しにした

ようにも、見えた。

しかしもしかして私が誤解しているのかもしれない。岸田文雄氏はgood jobだったのかもしれない。これが我が国の精一杯の支援であり、世界的に見たら最高水準の対処だったのかもしれない。

とにかく何年後か、歴史家が検証するのを、楽しみにしている。岸田文雄氏は、馳氏は、本当に全力で災害に向き合っていたのだろうか、と。

能登半島地震で、日本法医学会は、所属する医師19人が検案した犠牲者131人の死因をまとめた。家屋倒壊による圧迫死が7割近くを占めた一方で、低体温による死亡も16%に上った。家屋の下敷きになって避難ができず、寒さで体温を奪われたとみられる。日本法医学会は1月3~22日に石川県に医師19人を派遣。警察の要請を受けて、輪島市64人、珠洲市56人、穴水町11人の計131人の死因などを調べた。同会が、各医師から死因の報告を受けてまとめた結果、家屋の倒壊による圧迫が88人で最も多く、67%を占めた。胸などを圧迫された人が目立ったほか、窒息した人もいた。

 続いて多かったのは、低体温による死亡で21人。家屋の下敷きになったまま救助を待つ間に命を落とした可能性が高い。

 そのほかに病死が4人、焼死が2人いた。死因が不詳の人は16人いたが、このうち11人は焼死体の状態だった。損傷が激しく死因が特定できなかったとみられる。今回同会が死因をまとめた131人の中には、津波によって溺死した人はいなかったという。

 同会庶務委員長の池松和哉・長崎大学教授は「今回の地震は耐震化が進んでいない地域で起きた。建物の倒壊で多くの命が奪われることが死因の分析から改めて浮かんだ」と話した。

2024/1/30読売新聞オンライン

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