自分で自分を名付けたら、きっと体を表してはくれない

 強めの雨が降りだして、家を出るのは一時間くらい後にしようと思いました。天気予報は一時的な雨だって言ってるし、家でゆっくり待つのも悪くないから。

 裁判所へ向かう電車の中で、これから名前を変える手続きをしようという勢いと共に、制服の小学生が下校の輪に笑う隣で、私は自分の名前への、少し早い弔いを始めていました。


 お母さんから貰った名前は安直で、私らしい名前ではありませんでした。まあでも、そう名付けるのも無理はないと思います。
 敢えて実名を出すのは気が引けるので、例えば、私の名前が「真直」とかいて「ますぐ」だったと仮定して。
 そうすると、ひねくれものの私だから「名前は真っ直ぐなのに」なんて皮肉を言われて育つことも、まあ珍しくないでしょう。
 どうしてそんな名前になったかと聞かれたら、「生まれてすぐに泣かないひねくれ者だったから、せめて名前くらい真っ直ぐでいてほしい」みたいな、希望を込めた名前だって分かるわけです。

 希望というのは現実と解離しているからこそ希望なのです。私の名前はいつでも希望そのものでした。希望ちゃんと名乗っても良いくらいに、少なくとも、私の体を表す名前ではない。
 そう考えると、名は体を表すではなく、名は体、あるいは希望を表すのですね。


 そんなことを考えていたら、裁判所の近くの駅に着きました。桜田門ですが、桜田門といえば井伊直弼が浮かびますね。変な話です。
 厳密には霞ヶ関駅を使うべきなのですが、路線の都合で少しばかり歩きます。雨止みを待った甲斐もなく、未だにしとしとと雨が降っていました。嫌なものね。
 初めて千代田に出たような気がしますが、恐らく初見の感想として、さすがは千代田区だな、と思いました。
 高い建物が並ぶ点は何も東京ですから、珍しくはないのですが、少し毛色の違いを覚えます。左右には総務省や高等裁判所があり、振り向けば皇居の方に繋がる道は、よく整備された赤めの歩道で余計な靴音が鳴らず、代わりに水溜まりをぱしゃりと踏んだときの、軽い水音が楽しめます。

 さて、まずは郵便局で800円の収入印紙を買いました。ついでに84円の切手、ならびに10円の切手を各四枚いただきまして、目的地である家庭裁判所はすぐ三分。
 ここで正面玄関らしき場所に出たのですが、ここにどうにも看板がありまして、「一般のご来客は裏手の玄関へ」とのこと。
 手荷物検査があると書いてありまして、少し鞄に余計なものが多々入っているのを見られてしまうのではないかと、いっそ、側溝に捨ててしまおうかと思うくらいに、鞄の中を見られるのは恥ずかしいなぁと考えつつ向かいます。ゴミのポイ捨てはダメですよ。

 想像していたのは荷物の中身を改める、例えば警察が麻薬の取り締まりをする光景だったのですが、これは全くの誤りでして、空港の手荷物検査そのものがありました。
 鞄や手提げをトレーに入れて、私は単身、ゲートを通れば解放されます。刃物などの検査なんですかね、分かりかねますが、安全管理を徹底していて惚れ惚れしてしまいました。

 その先は市役所そのもの。ここは区ですから、区役所ですか。番号札を発行して、呼ばれたら「名前の変更です~」と軽口に、書類を出しておしまい。
 事件番号と担当の係が決まりましたので、本日のお散歩は終了です。後日また追ってお手紙が来るのでしょう、楽しみですね。



 さて、ついに私の新しい名前が、公的に認知された次第です。名前が変わるってどんな気持ちだと思いますか?

 結婚をしたら、名字くらいは変わる人があるかもしれませんが、名前が変わる経験って、とても珍しいことでしょう。
 とてもわくわくしている? 嬉しい? 悲しい? どうなんでしょうね。私としては、何も思わないものです。だって、もう二年間くらい、この名前で生活しているんですから、敢えて「名前を捨てた」と言うなら、とうの昔の話になるのです。
 その昔においても、「今日から捨てる!」といったものではなく、徐々に名前を使う範囲を広げていったかたちになるので、いつの間にか変わっていたという感覚に過ぎません。

 お母さんから貰った大切な名前はいつの間にか捨てていたのですが、この度の手続きが終われば、ついに完全に捨てきってしまうわけです。よく考えたら、申し訳ない気持ちです。

 でも、あんまり反省していません。これからも、元の名前とは違うけれど、やっぱり希望みたいな名前で生きるので安心してほしいのです。


 裁判所からの帰り道、いつの間にかきれいな陽が差していました。崖上の、今にも落っこちてしまいそうな紫陽花が、とても瑞々しく咲き誇っています。あんな風に、瑞々しい希望をもって、これからも生きていきます。

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