学生たるもの
終わらない、途切れることなく続く道をただひたすらに歩く。散って歩く。歩き続けていく。
隣に誰かがいても、ひとりでいても、歩き続けることに変わりはない。ぐっと気が済むまで、私の心に寄り添うなにかを見つめている。それを探している。
例えばあの師走のはじめの休日だった。勉強を教えたのだから、本屋行くのに付き合って、と前後関係が嚙み合わない理由で声をかけた彼との散歩は心地良かった。
散歩なのに、歩いている意識がどこかに消え去っていた。くだらない他愛もない話が永遠に続いた。本屋は静かな場所なはずなのに。脳の中の意識の大半が会話に集中していたから、道を歩いているという状態を忘れて危うく迷子になるところであった。好きだった中学時代の先生のお話、好きな本のジャンル、親兄弟の愚痴…。列挙してみるとよりくだらなさがはっきり分かってしまう。
でも、この上なく幸せで満たされた気持ちになるのはなぜだろうか。
歩くだけなのに。ただ話すだけなのに。
学生は大人に比べて話すことの価値を尊く感じることが出来る、と思う。限られたお小遣いやバイトで使えるお金の量は少ない。だからこそ、お金を投じる時には、なるべく多くの時間をその場所で費やそうと考えるし、些細な休憩時間の合間にでも、机をくっつけあって大きな声で話そうとする。彼らは話を続けるための遊び場をいつも探している。
大人になっていくと話す内容はおのずとだんだんと固定化されていってしまう。それは話を続けるための遊び場の固定化に繋がっていく。
だから学生は散歩上手なのかも知れない。
くだらない話から相手のことを知っていってその相手とだけの特別な、それこそ尊ぶべき間柄を築いていく。
それは同時に優しく壊れやすくもある。
難しい日々を話して歩き続けることで彼らは毎日を必死で生きていく。ただのくだらない
話で満たされるのは相手のことをもっと知りたいと思っているからであるし、話すことで自分自身のことを知ることができるからである。
散歩よ、
続くのだ。それは私たち学生が毎日を送る根本にあるもの。歩き続けて新しい自分と
相手を見つけてどんどん好きになっていってまた明日って言いあいながら次の朝を待ちわびる。そこには優しい時間が流れているから。
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