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地名を探検 石巻市蛇田編 田道町に残る蛇田道公古墳 開墾した侍たち

石巻市田道町にある「田道神社」。敷地は狭く小さな神社だが、神社の鳥居の前には「蛇田道公古墳」と刻まれた石碑が立っている。田道町に残る「蛇田」の文字から〝へびた〟の地名の由来と、かつては田道町も含まれていた蛇田村について前後編と特別編で伝える。(石森洋史・2020年9月27日・10月11日・10月25日に掲載した記事を再掲)

いつから へびた?

「蛇田」の地名は約400年前の史料に記述があり、江戸初期には使われていたことが確認できている。
史書上の地名の初見は、寛永8年(1631年)2月10日付の「伊達政宗領知黒印状」(川村孫兵衛重吉あて)に記された「小鹿之内へびた」とされる。
北上川改修工事以後、石巻の開拓が本格的に始まり新田が開発されると、それに由来する地名も付けられた。蛇田の「小斎」は江戸初期、丸森村の小斎佐藤家が分家して入植し開拓に従事し、故郷の地名を付けたことに由来するといわれる。
寛政4年(1792年)成立の「伊達世臣家譜」中に、「元和8年(1622)、実信嘗受新田于牡鹿郡蛇田邑、開三百九十九石一升之由」と記されている。このことからも、江戸初期には「へびた」という地名が使われていたことが分かる。

へびたの地名の由来

それでは、約400年前から使われている蛇田の地名の由来とは。大きく2つの説が存在している。
【その1 田道伝説】
まず一つは、奈良時代の歴史書「日本書紀」にある仁徳天皇五十五年条中の伝説を由来とするもの。
日本書紀によると仁徳天皇55年(367年)、蝦夷が反乱を起こすと朝廷は上毛野田道(かみつけのたみち)将軍を派遣するが、伊寺水門(いしのみなと)で敗れてしまう。(ちなみに〝いしのみなと〟が石巻の地名由来とする説がある)
再び襲来した蝦夷が民を略奪し、田道の墓を荒らした。すると、眼を怒らせた大蛇が墓から出てきて、その毒で、多くの蝦夷が死んでしまった――。
この伝説を信奉した村人たちが「蛇田道公」と尊称してほこらを建て、まつったところからとする説で、これが田道神社だ。

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田道神社には蛇田道公古墳の石碑が立つ

田道神社を鎮守神社とする山下町の禅昌寺=桂田文隆住職=には享和元年(1801年)に発見された「霊蛇田道古墳」(高さ95センチ・幅34センチ)が大切に保管されている。

禅昌寺 (8)

現在の田道神社が建つ場所で発見された「霊蛇田道古墳」と刻まれた碑は禅昌寺で保管されている。手にする桂田文隆住職

また、同地区では田道将軍の命日とされる7月24日には、禅昌寺駐車場を会場に「蛇田道公祭典」を開催している。田道将軍の伝承を語り継ぐ祭りとして地域に欠かせない行事となっている。

禅昌寺 (22)

裏には占星術に由来するとされる2つの印が刻まれている


【その2 蛇多説】
もう一つは、安永2年(1773)3月成立の「蛇田村風土記御用書出」の冒頭に伝承が記されており、これを由来とする説だ。
百姓が、家に巣を作ったツバメがくわえていた瓜の種を植えたところ、大きな瓜に成長。割ってみると中から多数の蛇が出てきた。そこで村の人々が相談し、西南の方向に埋めて蛇塚とした。そこから蛇多という村名とし、後に蛇田と書き換えたとされる。
一方、その瓜を植えた場所は「大瓜」と名付けられた。蛇多説は稲井の大瓜地区と関連付けられて伝承されている。

昔はもっと広かった

なじみの地名の伝説・伝承を今に残す2つの説。昭和24年に当時の蛇田村の一部(北上運河以東部)が石巻市に編入されることになるが、それまで、現在の田道町や山下町、中里や開北は蛇田村の一部だった。今も広いが、昔はもっと広い村であった。

野谷地開墾に家中と家族で移住

川村孫兵衛の北上川改修工事で治水が進み、川の流路が安定すると、用水施設が整備され、各地で開発が行われるようになる。

正保3年(1646年)、伊具郡小斎(現丸森町)邑主佐藤氏から分かれた佐藤定信は、開墾して耕地としなければならない土地だった蛇田の野谷地を拝領。斎藤、星、伏見、小川、氏家、川村など侍40人と足軽33人、計73人の家中と家族を従えて蛇田村へ移住し、新田開発に尽力した。

地名が残す野谷地の姿

元禄11年(1698年)の牡鹿郡萬御改書上に記された蛇田村の規模は東西約891メートル、南北約1429メートルで、蛇田村之内高屋敷(現在の丸井戸)は東西約3005メートル、南北約3200メートルと記録される。

同書には金沼、上沼、下沼、龍宮沼など、7つの地名が記されており湿地帯であったことを今に伝える。佐藤氏が新田開発に苦労したであろうことが想像される。

今も残る地名と蛇田村の境

安永2年(1773年)の蛇田村風土記御用書出には山下や鳥屋崎、丸井戸、経塚など今も残る名のほか、「蛇田町」など7つの地名と3つの屋敷名が記述。家数は189軒で、人口は713人と記録されている。

村の東西は約2387メートル、南北が約3090メートルとされ、記された境界によると、北は北上川を境とした南境村、南は石巻村の明神崎山(現羽黒町二丁目)、東は石巻村の住吉町、西は丸井土(土は原文そのまま)までとされ、元禄よりも詳細な記録が残る。

地域を支えた蛇田町

蛇田町は現在の旭町に相当する場所で、寛文6年(1666年)に蛇田村の農民を移して開いた。当時、石巻村の村人は石巻に出入りする藩役人などの通行のための馬を世話する「伝馬役」を負担する義務を持っていたが、負担する者が少なく、藩は蛇田村に伝馬役を負担するように命じた。

しかし、蛇田村も負担する者が少なく、更に農事だけでは家の相続が難しい状況だったので、藩が蛇田村の農民の一部を移して宿場並みの蛇田町が開かれた。

旭町には蛇田町だったことを伝える石柱が立っており、宿場並みの町とされた蛇田町の区割りも残る。


石巻市旭町

旭町蛇田町石柱1

旭町には蛇田町だったことを伝える石柱がある

蛇田の名を残して一部が石巻村へ編入

明治7年(1874年)の地租改正により、蛇田町や蛇田頭(かしら・現中里一丁目)、蛇田浦内・蛇田浦外(現駅前北通り)が石巻村へ編入。これに伴い、蛇田町は蛇田村蛇田町から石巻村蛇田町に改められた。
明治17、18年ごろの「宮城県各村字調書」には蛇田村だけで120の小字名が記されており、山下や三軒茶屋、曽波神山、立野や沼田のほか、中里や水押も記載されている。

石巻との境とした水路

昭和18年に発行された「石巻市地図」には市境が記されており、昭和初期の地名も読み取れる。市境は現在の中里地区を横断しており、複雑に入り組んでいる。

昭和24年、蛇田村の一部(北上運河以東部)が石巻市に編入され、30年には石巻市に合併することになる。

地名は生きる文化財

蛇田在住で農家の氏家賢寿さん(74)は佐藤定信が引き連れた家中の末裔で氏家家の14代目。氏家さんは「蛇田は時代に合わせて開発してきた土地。これからも、時代の流れに沿った変化や町づくりが進んでいけば」と語っていた。

若き殿様の挑戦 家臣引き連れ荒地開墾

開発が進む新市街地や三陸自動車道、日本製紙石巻工場を望む蛇田の土和田山墓地。ここに373年前、家臣と共に、伊具郡小斎村から開墾のため蛇田村に足を踏み入れた「佐藤定信」を初代とする佐藤家の墓がある。佐藤家を守るように周囲の墓石には宍戸や高瀬、氏家、星、伏見、齋藤などの名字が刻まれ、定信と開墾の旅を共にした家臣団の名が並ぶ。

【写真5】佐藤定信が眠る土和田山墓地から石巻市内が見渡せる

佐藤定信が眠る土和田山墓地から石巻市内が見渡せる

定信と家臣たちは、今も、まちづくりが進む新市街地や時代に合わせて様変わりする郷土の発展を見守り続けているようだ。蛇田開発の祖とされ開拓団を率いた殿様・佐藤定信の足跡をたどる。

【写真4】蛇田の土和田山墓地にある佐藤家の墓

蛇田の土和田山墓地にある佐藤家の墓

戦国の動乱で伊達へ

佐藤家は、もともと、相馬藩の武家だったが、戦乱の中、伊達家に帰服する。その功によって、政宗から1千石の知行を受けて伊達家一族に列した。

蛇田に旅立つことになる佐藤甚三郎実信の次男「定信」は別家となっていた。しかし、領知は軍事上の重要な土地であるばかりで、実収は阿武隈川の氾濫や天候によって左右され、定かではなかった。

野谷地の拝領に歓喜

沖区の歴史を編さんした「沖古今誌」(平成13年発行)には、当時の様子が紹介されている。それによると、武士でも安心して生活できたのは長男家督だけで、次男・三男は「冷や飯食い」や「ごくつぶし」と言われた時代だった。

そんな折、仙台藩が「次男三男対策」として奨励していた新田開発の申し出が正保三年(1646年)、二代伊達忠宗から許可され、定信は蛇田の野谷地を拝領。野谷地とはいえ、開墾した土地は知行地として良いという条件もあり、定信や選ばれた若い家臣たちは大いに喜んだという。

若き家臣団蛇田を目指す

開拓団を率いた定信はこの時、28歳の若さ。引き連れたのは、今も蛇田地区ではなじみある名字も多く、筆頭家老の宍戸や重臣の森、高瀬をはじめ、斎藤、星、伏見、氏家、大田、遠藤、木村、小川、高橋など侍40人と足軽33人、73家中総勢150人ほどだった。年齢は18―19歳の若者から30代で、中には15人ぐらいの若い女性もいた。

3月のまだ寒い時期、丸森を旅立った一行は3日目の午後、広渕を経て須江村から蛇田村へ入った。開拓団が目にしたのは荒れ放題の湿地帯で、相次ぐ戦乱の果ての姿。まずは、若殿の宿だけでもなんとかしなければならないと、探し頼んで世話になったのが、経塚の渡辺家だった。

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