「ダンスについて書く」ことについて

「ダンスについて書く」ことについて書く。

以下、DanceHouse黄金町4422主催のトークセッション(乗越たかおさん進行)を聴講して考えたことの羅列。


言葉を媒体として扱う限り、それは道具であるが、鏡ではない。
道具に吸収された光は、また別の像を映し出す。

「言葉を超えたところで表現したい」
この言葉に私が違和感を覚えるのは、この世界はそもそも言葉ではないからだと思う。大抵のことは言葉にできないけれど、その努力をやめてしまったら私たちは裸であることにも未だ気付けない。その方が楽だったのかもしれないが。

「作品が全て」「作品だけをみて感じてほしい」
なら、それを作品と呼ぶ必要があるのか。
作品は、檻の中の動物や、水槽の中のメダカではない。

言葉にするのか、しないのか。それを受けるか否か。
それは人間が持つ普遍的な自由である。

手に入れた言葉の後ろには、手に入り切らなかった無限の言葉の存在がある。
その存在を忘れた言葉は、時に暴力性を帯びる。
またそれを忘れられた言葉は、あらゆるものを分断する。


以上のことを前提として、「ダンスについて書く」ことを考える。
「ダンス」という言葉は厄介なことに、
「ダンス」=上演、作品 なのか、「ダンス」=行為、身体 なのか、
辿る文脈によって映し出すものが異なる。
行為、身体としての「ダンス」が言葉の誕生以前から存在していたと仮定すれば、前者の「ダンス」と後者の「ダンス」は、全く別の行為によって書かれるべきだと私は考える。

 「ダンス」=上演、作品について書く場合、「ダンス」は往々にして言葉によって立ち上げられるものであるから、その言葉を辿り、解体、拡張、攪拌するには言葉が必要となる。辿った道をふり返りながら、書き手の到達点とそれまでの道のり、そこから見える風景や作品との距離が、尽くせる限りの言葉と具体的な質感を持って書かれるべきである。また「ダンス」のつくり手も、作品と鑑賞者と言葉との距離を十分に吟味すべきだ。そこで発せられる言葉は、鑑賞という行為がただの謎解きに陥ることを回避させる(ただしその配慮が作品内でも行われるべきなのは言うまでもない)。

 「ダンス」=行為、身体について書く場合、これは、難しい。
なぜなら、この「ダンス」は言葉によってつくられるものではなく、言葉をつくりあげる事象そのものであるから。そのため、私たちは「ダンス」を書こうとするその度に、新しい言語の獲得を必要とする。
私は今、この言語獲得の過程に関心がある。


 “ダンスと演劇の違い” この問い自体ナンセンスだと思いながらも、舞台上の身体を眺めているとよくこの問いに戻ってきてしまうのは、そこに既存の言葉を見るからだろう。行為としてのダンスが「踊り」であるとして、ダンス作品は「踊り」なのか否か。「ダンス」と呼ばれる事象は、「踊りを踊るという演劇」とどう違うのか。

持論だが、「踊り」は上演ではなく、状態である。
良い踊りに必ずしも演劇は必要ないが、良い演劇には踊りがある。踊りを上演するためには、演劇が必要である。現在巷で「ダンス」と呼ばれる事象は粗方、演劇である。


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