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先生 と 私

まるで漱石の『こころ』のような書き出しですが、私は小林昌廣先生のことを「先生」と呼んでいます。「コバヤシ先生」でも「まさひろ先生」でもなく「先生」です。なぜなら私が師事するのは小林昌廣ただ一人だからです。

先生と初めて出会ったとき、私はまだ大学生でした。先生もまだ30代で本務校に腰を据え始めた頃で、私の大学には非常勤講師として出講されていました。その初年度に開講された芸術生理学という授業が私の学問への道標になったことは間違いありません。

当時(1990年代後半)は「臓器移植法」が施行され、「人体の不思議展」が全国で開催されるなど、命のあり方や表現についてさまざまな方面から議論が起きていました。芸術大学の学生であった私は、「生きること・死ぬこと」の意味を深く深く考え、芸術作品や文芸作品からなんとかそのヒントを得ようとしていました。しかし、二十歳そこそこの若者がそれらから意味を見つけることはあまりにも難しく、大きな手助けが必要でした。

そこに医学部出身の先生が私の前に現れたのは天啓のように感じました。

これまで自分一人で読んだり観たりして、わかったような気になっていた多くの作品について、先生が示唆した解釈や意味は私の心の霧を晴らすには十分すぎる説得力と魅力があったのです。

「この人の考えていることを知りたい」それが当時の私のモチベーションでした。無理を承知で押しかけで指導をお願いし、非常勤講師である先生に特例的にたった一人の門下生としてゼミを開講していただきました。

毎週土曜日、新大阪駅近くのジョリーパスタで、ときに天王寺の喫茶店で、参考文献を一緒に読み、意見交換し、自分の書いたものを添削してもらいました。先生のご指導のもと卒業論文を書き進めていく中で、私は医学と芸術と哲学の三角形の中心にある「身体」というものに魅せられ、これを考える研究をしたいと願うようになったのです。

そこから四半世紀の紆余曲折を経て、私は再び先生に学ぶ機会を得ました。公的な記録としては最後の弟子となるでしょう(それはバーンスタインと佐渡裕のようだと思っています)。

そして私もまた、先生と同じように学生に指導をする職を得ています。これまでの実務経験に下支えされた専門ではありますが、その指導スタイルやゼミの形式は先生のそれを強く受け継いでいると自負しています。

先生は私にとって永遠に先生であり、僕は先生にとって永遠に教え子です。先生があらゆる方面に出されたバトンのいくつかを受け取り、またそれを誰かに渡すための一つの方法論として「日々の哲学」は生まれました。

日常の、ある種の軽さ(逆に重さといっても意味は同じでしょう)にひそむ不可思議(のようなもの)に思いを馳せてみたいと思います。

日々の哲学から哲学の日々へ

ほんの少しでも何かが心に引っかかったとき、それは長い時間をかけてその人の人生に大きな意味を残すことになります。わからないままにするのではなく、わかろうとする態度を示し続けることが「日々の哲学」で私と先生が目指すところでもあるのです。

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