尾崎放哉先生の生きた足跡を辿る(須磨寺編)
須磨寺は神戸市須磨市にある真言宗のお寺。
JR須磨駅、山陽電車須磨寺駅から歩いて行けます。
ここに一年にも満たない短い時間ではあったけれど、放哉先生が過ごしていました。
まず前後の出来事について。
知恩院から寺を追われて、再び一燈園に戻った放哉先生。
その後、1924年(大正13年)の六月初旬に、須磨寺の大師堂の堂守として過ごしていた。一燈園にいたときに、兄事した住田蓮連という方の導きで、この寺にやってきた。
仕事は、お参りにきた人にロウソクを売ったり、おみくじをひいてもらったり。基本的に一日座っている仕事をしていたのだそう。
なお、このころから句に磨きがかかってくる。
師がこんなほめている、ウワーーーーー!!
しかも「放哉君」呼びなの、アカンーーー( ˙꒳˙乂)
という心の叫びは置いといて、大師堂の前には、あの『こんなよい月をひとりで見て寝る』の句碑がある。
そして、ここでは寺内での内紛があり、それに巻き込まれて追われることとなった。一年も満たないうちに、またも一燈園に戻ることになったそう。
さて、今回はここに来る前に、萩原井泉水先生の『放哉という男』という本を読んできました。こちらにかなり、放哉先生が須磨寺で過ごしていた時の情景が書かれていたので、このなかにでてきた場所を中心に回ってきたので、是非、この記事を読んでくださる方が、当時の光景を思い浮かべられたらなと思います。
大師堂
ここには、弘法大師さまを祀っています。ここで放哉先生は、木魚をたたいてお経を読んでいたり、この正面から見て左にあった机にて、句を書きつけていたそうです。
本堂
基本的には大師堂のほうで過ごしていましたが、ご飯はこちらで、他のお坊さんと食べていたそう。
鐘楼
宝物館
いつもは大師堂のほうで、比較的ゆっくりと仕事ができたいたそうですが、八月は忙しい期間だったそうで、放哉先生も本堂のほうへいって手伝っていた、とのこと。
ここは、今は須磨寺ゆかりのものが無料で見学できます。よく聞く、「青葉の笛」もここにあります!
奥の院
こちらは本堂の右横にある護摩堂をとおり、墓地に入って、山の中に入っていきます。
寺務所にて、奥の院の生き方や、十三沸・七福神めぐりの話を教えていただいて、せっかくならやってみよう!よいうことで、お札を購入し、いざ参道へ!
ここでは、放哉先生がお寺の方にマツタケが生えていると聞いて、取りに行っていたそうです。マツタケはなかったですが(笑)、ここを歩いて(かなり急な階段でした)たんだ、と思うと、奥の院まであっという間につきました。私は大体10分ちょい、寺務所の方は、お参り含めると平均20分くらいかかるよ~と仰ってました。
<番外?>須磨寺の遊園地について
ここを読んだとき、「遊園?そんなとこ地図にあったっけ?」と思い、ホームページで見られる須磨寺境内の地図を見たのですが、遊園地らしきところは何もなく…。あ~このころにはあって、時代が変わっていく中でなくなっちゃったのかなぁと思って、いろいろと検索をかけてみました。
分かったのが、
・国土交通省近畿地方整備局
・昭和初期の観光ガイド
・絵葉書資料館
以上のサイトを見る限り、堂谷池の周囲に遊園地があったのは確実で、放哉先生が足を運んだ場所はここなのかな…?と目途を立てていきました。
今は、サイト内に記載のあるように、遊園地のあとは残っていません。ですが、確かにボードで回れるくらいの池の広さはありました。
また、この遊園地が大正2年から作られ始めたそうなので、時期的にもあっているのかな、と。
なくなっちゃったのかぁ…。
もう完全に憶測で、ここらへんなのかな〜と歩いてきました👣⸒⸒
以上、井泉水先生の本を参考にしながら須磨寺境内を回った記録です👨🏻💻
ここで句を作ってたんだな、過ごしていたんだな、と思われるところを巡るのは、なかなか心にきますよね。
須磨寺は本当に広くて、何度でも訪れたい!特に、今回時間が限られている中回ったので、今度は須磨寺周辺も回ってみたいです!
海岸のほうや、銭湯探しをしてみたい…。
とても静かな息遣いが感じられる、落ち着いた場所でした。
参考資料など
須磨寺ホームページ
『放哉という男』萩原井泉水 有限会社・大法倫閣
『流浪の詩人 尾崎放哉』瓜生 鉄二 新典社
須磨寺遊園地について調べたサイトは、リンクをつけました。