しかしね、現実にそんなものはないのだから……

 俺の世界にはなぜ、いい声をした女性がいないのか。
 急に発生した仕事をしながら、俺は考えた。

 いや、世の中には声優という素敵な声を持つ人たちがいて、確かにいい声がこの世界にはあるのだと、証明してくれている。
 しかし、俺の生きている世界にはいないのだ。
 自分が生きている世界と、自分が見ている世界は異なる。前者はどうしたって自分という起点を持たざるを得ないが、後者はそんなものに縛られることなく、どこまでも自由にのびやかに広がりを見せ、数多の可能性を内包している。

 前者の集合体が後者になるわけだが、だからこそ、俺の世界にいい声をした女性はいないのだが、いるのだ。俺の世界にはいないが、俺の世界と重なったいくつもの世界のどこかには存在している、という理屈だが、これはどこまでいっても理屈でしかなく、現実的な感触として触れることはできない。

 俺がいい声を認識したのが小学生五年生の頃だ。当時、なぜか夜中に目を覚ました俺がリビンブのテレビで見た「ToHeart」のアニメ版、神岸あかりの声、つまり、若かりし頃の川澄綾子の声を聞いて、俺はこの世界にはこんなにも優しくて暖かく、愛に溢れた声があるんだ! と驚愕したものである。その時、見た話は第三話。それ以降の話は、親にビデオ録画の方法を教えてもらって見たし、後年ゲームを買い、更にその後にアニメのDVDを全巻揃えたくらい、俺には衝撃的な出来事だった。

 それから二年後、田舎で暮らしていた俺はCSで「機動戦艦ナデシコ」を見て、再び衝撃を受ける。ミスマル・ユリカ役の桑島法子の声だった。その頃には中学生になっていた俺は、そこで大きく声優というものに興味を持ち、田舎だから限度はあったが、様々な声優ラジオを聞き出した。それから数年後にはインターネットラジオが広まり、今も残る老舗の「音泉」やランティスラジオステーションなどで、俺はラジオを聞くことになる。アニメイトラジオなんてものもあったね。ぱにぽにだっしゅのラジオ、好きだった……

 しかしながら。

 俺の人生において、良い声とはあくまで画面や機械の向こうのものでしかなかった。今でもそうだが、俺の手の届く範囲にいい声の女性は存在しないのである。
 こんな文章を書いておいて難だが、それを悲しい、とも思えなくなってきたのはおそらく、老化だろう。おじさんになった俺は、自分の人生の登場人物にそういう人を求められなくなった。そういった希望は、若者のために譲るべきであり、老人は大人しく死んでいけばいい、と思っている、というのもある。

 昨今、声優の数は増えたし、志望者だけならば更に多い。加えて、Vチューバ―という新時代の存在も現れた(まぁこれは新時代の存在でありながら、旧時代的なスキャンダルで自滅しているわけだが)。
 いい声に触れる機会は増えたはずだし、出会いも増えた。

 それでも、俺の世界にはいないのだ。

 だが、それでいい。

 俺の世界にいい声の女性はいないが、それを求める人の所にその声が、心が届く世界を守ることはできるはずだから、それでいい。

 諦めたのではなく、託す。
 それがきっと、老人になりつつある俺にできる唯一のことだ。エゴを捨てよ、公のために欲を持て、である。そんな言説を語っていたのは、俺が中学生の頃の藤岡弘、だった。たぶん、そういうことだ。

 私欲を捨てて、公欲に生きる。

 何も手に入られなかった俺にだってそれくらいはできるというか、できないのであれば、それこそ俺は生きていた意味がない。死んでいた方がはるかにまし、ということになってしまう。

 己が人生に意味を見出すためには結局、私欲を捨てるしかないのかもしれない。私欲のままに生きることで、公に尽くすことのできる超人たちのために死を恐れないことが、凡人にできる唯一の勇気ではないだろうか。

 いい声の女性を求めるからこそ、求めることを止めて、誰かの下に届いて欲しいと願い、行動する。そうやって生きて死んだその先にきっと、俺はいい声の女性と出会える。死後の世界は無だろうが、同時に、ありとあらゆるものが存在する世界に接続される、ということでもあるはずだと思いたい。そこはきっと、私欲を捨てて息づ点けた人が辿り着ける、極楽浄土だ。

 どうせ死ぬなら、俺はそこへ行って……いい声の女性の活躍を見ていたい。手に入る世界に行っても、俺はそうできないだろう。一度でも私欲を捨てた人間は、死んでもなお、私欲に任せて生きてはいけないものだから……

 最近のおすすめは、上田麗奈、早見沙織、種崎敦美です。人気者ばかりだから、誰からも支持されるから人気者だから仕方ないというか、俺は三人とも若手時代から応援していたから! と古参アピールをしつつ、この文章は終わりだ。もちろん、今でも川澄綾子と桑島法子が好きだし、そこに楠鈴音と佐本二厘を足せば、俺のオールタイムベスト声優が決まると言っても過言ではない……

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