吾輩は猫であるを微塵も知らない私が吾輩は猫であるという物語を書くということ

第一幕 プロローグ
私は猫である。いかにも猫に名前という概念が存在するのかという問題はさておくとして私は自分の呼び名とでも言うべきものが思い出せない。なにぶん気がつくと薄暗くじめじめとした所でニャーニャー鳴いており、それ以前の記憶が自分でも恐ろしくなるほどに無いのである。ここで私が「自分でも恐ろしくなるほどに」などと表現したのは、なにも言い回しに文学的センスのようなものをチラつかせ、私の語り手としての才能をひけらかしたかった訳では無い。正確に言えば私のそれ以前の記憶は無いのではない。確かに存在したという根拠の無い確信が私にはあるのである。あるのではあるがこれまた文学的な豊かさを含ませるのであれば、存在したはずの私の記憶は春を迎えた山々の白粉の如くいつの間にやら消えてしまったのである。

第二幕 本能
なくなってしまった記憶にいつまでも悲観していてもどうにもならないではないかと私の中の本能的、あるいは野性的とでもいうべき何かが私に語りかけ、その何かに促されるままに私は歩を進めた。半分無意識下なのではないかと思うほどに、ただただその何かに引っ張られるように歩く。そんな中私はもはや頭の奥深くにまで追いやられた意識の中で「悟りを開いたブッダもこのような感覚だったのであろうか」という実に無意味でなんの生産性もない戯言を唱えた。私は最早脳を通さず脊髄が発したその言葉が妙に引っかかった。というのも私はブッダなるものの存在を知らない。だが私は確かに無意識下のような意識下の中ブッダというどこか概念のようなものの存在を認知していたのである。そんなことに困惑していると、近くに黒く光沢のあるボディーに羽のようなものを携え、カサカサと動く小さな生き物が見えた。私は、仮に百匹集まろうが私には大きさでも強さでもかなわないであろうほどのその小さな黒い生き物に恐怖感にも似た嫌悪感を強く感じた。私はこの食べてしまえるほどの大きさの生き物に少し興味が湧いたが、先程私の足を動かしたのと同じ何かによってそれ以上の干渉を拒まれるように再び私の足は前へ前へと動き始めた。

第三幕 ヒトという生き物
感覚にして半日は歩いたであろうか。突然私に警戒することなく近づいてくる私たち猫とは構造が明らかに違うと見られる二足歩行の生き物が私の頭に触れてきた。先程から私のことをみーにゃん。かわいいかわいいなどと呼び私の体中を躊躇なく撫で回してくるこの無用心且つ無礼なこの生き物を私は知っている。ヒトである。このヒトという生き物のことをどこで覚えたのか私にもとても不思議であったが、すぐさまそんなことはどうだっていいと思えるほどの衝撃にかき消された。先程から私はこの生き物の言葉がまるで魔法のこんにゃくを食べたかのように理解できている。道中あまりに腹が減ったので茶色い羽の生えた空を飛ぶ生き物を食べたことがあった。その生き物は互いにコミュニケーションを取っているように見えたが、それらの言葉などは理解できなかった。しかしこのヒトという生き物の言葉だけははっきりと理解出来たのである。

第四幕 〝猫〟
私は少し疑問に思いながらもただなされるがままにヒト科のメスに撫でられることに満足感を得てさえいた。するとどこから現れたのかいつの間にやら私の他にもう1匹、そのヒトの空いた左腕に猫が擦り寄っていた。その猫はどうにもヒトに可愛がられるのに慣れているような素振りで、こうであろう?と言わんばかりにどうすればヒトが喜ぶのかを心得ているようだった。これ程までに世渡りの上手そうな猫がいるものかと感心していると、おもむろにその〝猫〟が話しかけてきた。
「にゃーご、にゃーご」
私は愕然とした。ヒトの言葉でさえ理解してきた私が同種である猫の言葉が分からない?すると間髪入れずに〝猫〟が続けた。
「冗談です。僕の名前はハルト。よろしく。」
にゃーごにゃーごに続くとは思えぬほど模範解答のような妙に味気のない挨拶に私は困惑したものの、久方ぶりのコミュニケーションというものに些細な違和感をかき消す程のことは朝飯前であった。
「冗談じゃない。私は今実に短時間ながらも確実にこの後の人生に落胆し絶望したんだぞ。」
〝猫〟は続く。
「はっはっは。悪い悪い。唐突に君。名前は。」
私は続ける。
「名前はまだ無い。既に思い出せないと言った方が近いのかもしれない。」
猫に眉毛のような器官があるとするならばピクリと動かしているであろうその〝猫〟は少し考えたあと数拍置いて口を開いた。
「難しいことを仰る。それではまるで生まれたての子猫、あるいは死にたての老猫。とでも言ってるようではないか。しかし僕には分かる。この怪異な文章と同じくらい、君は君自身に違和感を覚えている。」
「……」
「違いましたか?」
私は私自身も認識していなかった潜在意識を見透かされたような感覚に羞恥心と恐怖心を覚えたが、同じく社交性とユーモラスの合間から漏れ出す知的で不思議な印象により、この〝猫〟に強い興味と厚い好感を感じるのにはあまり時間は要さなかった。

第五幕 手がかり
「何故そのような事がわかる。まあそんなことはどうでもいいんだけど。」
またも心の奥を見透かされそうな気恥しさから私はつい話を逸らしてしまった。
「実はですね、僕もそうなんですよ。なんというか、今ある自分は本来あるべき自分ではないのではないか、と。」
冗談を言っているのか否かの判断を妨害する専用のジャマーのようなものを隠し持っているのではないかと思うほどに軽快且つ、それでいて全く真意が読めぬ彼の物言いからは珍しく、微塵も混じり気のない真剣な眼差しで彼は言った。
「と、言うと?」
私には痛いほど身に覚えがあったがあえて問いた。
「またまた。私にはこの体で過ごした記憶が長く存在する。しかしながら最近思うのだ。この体が私にはどうも窮屈だと。比喩的表現ではあるがこの表現意外にないと言った具合に窮屈なのだ。確かに今存在しうる私のこの体がであるぞ。」
「窮屈…か。」
「いかにも、それに最近気になることが山ほどある。特に毎夜決まった時間になると、そうだなぁ、ちょうど月が東の岩山をまたぐ頃。唐突に、且つ耐え難く訪れる頭痛と前足の痛み。何かが突き刺さるような。突き抜けるような。前足を突き刺したその小さな悪魔は嘲笑うように私の体内を這い上がり、そして脳の深部に飄々とちょっかいをかけるのだ。」
淡々と話す彼の言葉は私の海馬をまるで言を成す幕末の警備隊のごとく捜索してまわった。
「驚いた。たった今君の証言に記憶を引きずり出されたのだが、私はあの湿っぽい薄暗さの中ただ必然のようにニャーニャーと産声をあげていた訳では無い。私は前足から伸びる激痛にニャーニャーとただのたうち回ることしか出来なかったのだ。」
今までおとぎ話でも語るかのように恭しく話していた彼の表情が一瞬固く、そして冷たく裏返った。

第六幕 とある仮説
「嘘ではないね?」
彼は本当の意味での〝念〟の為と言った程度に形式上の確認をしたあと、私の返答を待たずに続けた。
「実は僕、ある仮説を元に僕の過去を調べていたところだったんだ。君はここを東に進んだ所にある肋新地という集落のはずれに柳の木が印象的な夏目荘という…」
私は状況が読めず脊髄で彼の言葉を遮っていた。
「ある仮説…?」
「そう。お預けをくらった猫のような君に結論から話そう。まあ猫なんだけどね。×××。」
猫が豆鉄砲をくらったような顔をした私は全てを悟ってはいたものの、確信をついて欲しく強請るように彼の口が再び開くのを待った。
「僕、いや、僕達は×××××××のだ。」
彼の言葉は期待半分諦め半分、おまけに不安と疑心も半分ずつという小学生の方が幾分かましな物が作れるのではないかと思うほどの計算式にいとも簡単に答えを出してしまった。

第七幕 夏目荘
「話を遮ってしまってすまない。しかしながら君。さすがにそれは暴論と言おうか、そのような話信じろと言われても」
「急には無理であろう。だからこそ私には確信があれど仮説と表題を打ったのだ。」
そんなことを言われたところで私の本心は揺るぐ気配もなかったが彼の言葉を待った。
「僕は今から先程少し話した夏目荘に向かう。君も来るんだろ?」
またである。何故こうも私の考えに先回りするのであろうか。
「勿論。」
しかし断る理由などノミの頭程も見つからない。私は彼に連れられるままに東に歩き出した。しばらくすると柳が囲む小道の間にいかにも連日昼夜を問わず妖怪達が鍋でもつついていそうな木造のボロアパートが数ある建造物の中異彩を放っていた。ここまで禍々しい雰囲気をこれ見よがしに漂わされるとここが話に聞く夏目荘であろうことは誰に言われるでもなく察しがついた。そんな私の心中を察してか否か、当然のごとく外付けの階段を登っていき、二階の一番奥の部屋の前で立ち止まった。そこは柳の陰になっており他の部屋と比べてもより一層じめっとした雰囲気が漂っていた。

第八幕 206
風格漂う角部屋の木製の小窓には時間が経ち過ぎたがゆえの歪みなのかなんなのか、立て付けが悪く閉まりきらなくなりちょうど猫一匹が通れるほどの隙間ができている。なんのためにあるのか分からない妙な出っ張りを踏み台にし、私達は鼠の手を捻るようにいとも簡単に部屋の中へと入った。ここまで簡単に入れてしまうと誰に語る訳でもないが少し熱い展開に欠ける、などと戯言を垂れていると目の前に飛び込んできた光景に言葉を失った。前言撤回である。そこにはおびただしい数の注射器とその替えの針、そしてなんと書いてあるかは分からないがラベルの付いた薬品が無造作に散らばっていた。戦慄し動かない体とは裏腹に、私の頭は妙に冷静であった。そのことが幸をそうしたのか、はたまた見なくてもよいものを見てしまったのか、私は手前の注射器に着いたまだ新しい赤黒い液体を見逃せなかった。
「ハルト…」
私自身も驚いた。この奇々な状況がそうさせたのか、それとも私の中でいつの間にやら彼のことをすっかり信頼してしまっていたのかは定かではないが、私は彼の名を口にしていた。そもそも彼や君というのがよそよそしすぎたのかもしれない。〝猫〟なんてのはもってのほかである。
「うん。タイミングが少し悪かったかもしれない。」
ハルトの言葉が終わるのを待たずに居間の襖が息を吸うがごとく当然のように開いた。

第九幕 バッドエンド
「猫…。」
襖の奥に立ち、少々驚いた様子のいかにも冴えない男は私たちの想像を超えてこない特徴のない声でぼそぼそと発した。男は変わらずぼーっとした表情のまま少し考えたあと、ニヤッと口角を上げ私たちに歩み寄った。男の真意は分からなかったが第二幕で私の足を動かしたのと同じものが、ただ「危険だ」と回りくどい私の文章とは正反対に簡潔且つわかりやすく訴えかけた。そんな簡単な信号でさえ聞き終える前に私は小窓の方へと飛び移っていたが、私の惹かれたハルトの論理的且つ頭脳派な性格は男の狂気に数秒劣っていた。男はハルトの首根っこを掴み、したくもない想像をかき立てられるほど染みの着いた机の上に押さえつけた。私はその光景に見覚えがある気がしたが次の瞬間知りたがっていた過去を最悪な形で思い出した。男はハルトの前足にミミズほどの注射針を刺し、得体の知れない液体を流し入れた。滝を登る鯉のように刺された所から頭に向かって毛が逆立っていくのが分かった。血走るハルトの目は私に何かを訴えるようであったが私の悪い癖で理解しようとする心に逆らうように男の前足に噛み付いていた。

第十幕 エピローグ1 張り紙と真相
あれからどれくらい経ったのだろう。目が覚めると私はハルトに添うように横たわり寝てしまっていた。最後の記憶にある頭に走る耐え難い激痛が嘘だったかのように引いているあたり相当な時間が経ったのかもしれない。私はハルトに思い出した全ての記憶を話したい衝動にかられたが、体を揺すり起こすのも何か忍びない気がして天井に話し始めた。
「実はな…………」
どこから話せばいいのか、そもそも私とハルトは今回の一件で出会ったのではなく、一度顔を合わせていたのだ。私たちはうだってしまうほどの真夏日を抜けた、わりかし過ごしやすい秋口に出会った。全ては柳がよく映える夕暮れ時、夏目荘の共同トイレに貼ってあった【高額報酬。猫が好きな者大歓迎206藤田】という酷く怪しい張り紙に興味を持ってしまったのが始まりであった。私は酷くお金に困っており、今考えれば考えなくてもわかるような絶対に関わってはいけない張り紙に興味を示してしまったのが運のつきであったのだ。そもそも猫にお金の概念があるのかと思うであろうがこれから話す真相を聞けばそんな疑問も無くなることであろう。
「私、いや、私達は元々人間だったのだ。」

第十一幕 エピローグ2 〝ハルト〟
あまりに金欠であった私はそのいかにもな張り紙に引っ張られるように外付けの階段を登っていると、先に登っていた色白で天パの男が話しかけてきた。
「にゃーご、にゃーご」
私は愕然とした。ただでさえ関わるべきでない張り紙を頼りに上階へ来ているのにこんなにも関わるべきでない男ランキング4年連続堂々の第1位みたいな男に話しかけられることがあっていいのか、と。
「冗談です。僕の名前はハルト。よろしく。」
にゃごにゃーごに続くとは思えぬほど模範解答のような妙に味気ない挨拶に私は困惑したものの、そもそも開口一番がにゃーごにゃーごな時点でその後の些細な違和感などかき消されるのは当たり前であった。
「冗談じゃない。私は今確実にこの後の人生に落胆し絶望している。」
〝男〟は続く。
「はっはっはっ。悪い悪い。唐突に君。あの張り紙を見てここにきましたね?」
私は痛いところを見透かされたことによる羞恥心ともしやこいつもそうなのではないかという恐怖心を覚えた。
「実はね、僕もなんですよ。」
そうであろう。ノストラダムスの世紀の大予言が当たらなかったことくらい当然のことである。私達は恐る恐る206号室のドアを開けた。

最終幕 エピローグ
ドアを開けるとそこには握手を交わせば腕の骨が折れてしまうのではないかと思うほどに骨と皮でできた少々不気味な男が立っていた。私はその男の本当に人の心を持っているのかと疑いたくなるような冷たい目の間から漏れ出す知的で不思議な印象により私はその〝男〟に強い興味と厚い好意を感じた。
「実験がしたい。」
〝男〟はぼそぼそとしているがそれでいて深みのある声でそう言った。どうも彼は猫が大好きで、趣味で猫の様々な研究をしているようだった。どうも彼は人に猫の遺伝子の一部を入れ、一時的に人間を猫化させる実験がしたいらしい。そのために被検体がいるためアルバイト募集の張り紙を貼ったのだと言う。
「これが成功したらすごいよ。だって自由気ままに猫になれるどころか兵器やスパイ活動にだって応用できるかもしれない。」
彼の目はいたって本気だと言った眼差しでそれどころか私には嬉嬉としているようにさえ見えた。
と、こうして人間だった頃の思い出に浸っていると再び居間の襖が開いた。

「おいおい。またこんな所に死んだ猫を置きっぱなしにして。実験が終わったら捨ててくれって言っただろ。そもそも【猫に本当は自分は人間なのではないかと錯覚させる実験】なんてなんの意味があるんだよw藤田くんの考えることはいつもわからん。」


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