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人生はそう、うまくいかないから生きがいがある

「私はこれから、やりたいことを形にできる人生を送ろう」。そんなことを想ったのは、1年前の2017年12月3日。私にとって大きな決断を心に抱いたのは、日本武道館で行われていたサンボマスターの初めての武道館ライブ。

ファンのみんなで送ったお花

noteでも何度か触れているように、私は学生時代にサンボマスターのとある楽曲に出会ったおかげで私立高校を辞め、通信制の高校に転校する決断ができた。17歳から22歳ぐらいまでの人生は、ほぼサンボマスターの音楽と共に歩んできたと言っても過言ではないぐらい、大事な時間を一緒に過ごすことになった。

よく、「北は北海道、南は沖縄まで」なんて言葉を聞くことがあるけど、私がこの言葉を実際に自分の口から発するようになったのは、サンボマスターのライブに行き始めてからだと思う。

専門学校を休んで行った北海道公演と沖縄公演。沖縄公演が終わって朝イチに大阪に戻り、キャリーケースを引いたまま外部の専門学校であった救命救急講習に行ったことは、私の人生の記憶のなかに色濃く残っていて、きっと何歳になっても忘れられないのだと思う。

世間では「青春」と呼ばれる時間をサンボマスターの音楽に捧げてきた自分にとって、サンボマスターは生きるためにすがっていた場所なのかもしれない。

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初めて訪れた武道館。公演が始まるまでずっとソワソワしてた。いつも通りのSEが流れ、舞台袖からいつも通り3人が出てきただけで、息ができなくなるぐらいに涙があふれて、口がモゴモゴして心がギュッと苦しくなった。

今思い出しただけでも、涙が溢れそうになるけど、その涙の理由は、いまだによく分かっていない。でも、心が燃えるような熱さを感じたと同時に「この公演が終わってからの私の人生は、私自身で新しくするべきだ」と思った。

だからこの瞬間を。少し遠くの舞台にいる3人を。座席から見えるアリーナ席にいる大切な知り合いのみなさんのことを目に焼き付けておかなきゃいけないってよくわからない使命感すら感じて、これまでにないほど集中して講演を見続けた。

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武道館の日の1か月前に、知り合いが病気で亡くなった。その人は、私の大切な友人の旦那さんで、会ったことは少ないけど、会うたびに「本当に魅力的な人だな」と感じていた。

「やりたいこと」に意識を向けて、前向きに生きていたその人の目はエネルギーに溢れていて、自分の生き方に納得できていなかった私にとっては目が合うだけで反射的にそらしたくなるぐらいキラキラした目。

それだけキラキラした目を輝かせていても、自分ではどうにもできない未来が待っていることがある。「人生はそう、うまくはいかない」なんて言葉がこの世の中にはあるけど、残念ながらそれは事実で、自分の力ではどうしようもできないことがこの世界には本当に多い。

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私にとって「人生はそう、うまくはいかない」と思うようなキッカケは忘れもしない去年の夏から秋にかけての数ヶ月だと思う。

去年の夏、私はとある病院でADHDと診断をされた。ずっと疑問に思ってたことだったから、診断に納得した気持ちもあるし、モヤモヤしていた気持ちは晴れ、22歳で、やっと人生の道が開けたような気がした。

「もう自分の”できないこと”にモヤモヤしなくていいんだ」とキラキラ輝く日々を想像しては、なんでも挑戦しよう!と貪欲に生きることを誓ったとき、ありがたいことにADHDの自分についてエッセイを書かせてもらえる機会をもらった。

エッセイのタイトルは「始まりの日」。これから訪れるであろう「私らしく生きる」未来を想像して書いた記事は、今読み直しても甘酸っぱくて、汗ばむ夏を想像してしまう。それでもこの記事が希望に溢れているのは、私がこの先にある未来がまっすぐで明るいものだと確信していたからだ。

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ADHDの診断を受けてから、自分の世界を”なんらかの形で表現すること”に意識を向けるようになり、アクセサリーを作り始めた。大切な姉が「あなたの世界は形で表してみるべき」と言ってくれたので、不器用ながらも頭に想い受かんでくる世界を形にしようと必死だった。

実際アクセサリーを作るようになると、自分の頭の中が整理されていくみたいで楽しかった。それに、周りの人から「欲しい」と言ってもらえることが、本当にうれしくてたまらなくて、今までに感じたことのない「幸せ」でいっぱいの日々。でも「人生はそう、うまくはいかない」

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10月のとある日に体調が悪くておとずれた内科。いつも通りの診察。のどをあーんと触り、触診される。そんな流れ。

だけど先生の顔がいつもと違う。「ん?」とおかしな顔を見せられ、いつもより長めの触診を終わった後、「ここに腫瘍があるので、エコーをとりましょう」と一言。あまりよく理解できていなくて、気づいたときには診察ベッドに寝転がっていた。

先生は、淡々としていてパパッとナースさんと連携をして、エコーをとってくれた。エコーをとりはじめてすぐに、「ここみてください。甲状腺のここにね。両方にうつってるこれが腫瘍です。今日時間ありますか?生研をした方がいいので、今日時間があれば検査をましょう」とまた先生が言う。

私の頭はあまり上手に働いていなかったので、とりあえず「わかりました。大丈夫です」とだけ返事をして、検査の準備を待つために待合室へ。

席に戻ったときに、一番最初にしたことは家族に連絡をするわけでも、友人連絡をするわけでもなかった。ただ、無心で「甲状腺 腫瘍 死ぬ」とだけ調べていた。

これはもう現代っ子の象徴ともいえる行為で、なんでも調べれば「欲しい答えが見つかる」と思ってしまっている気持ちは、こういう時にも起こってしまうのだろう。ネットで出てきた”答え”は今すぐに死ぬとかそういう病気ではなく、悪性腫瘍なのか、良性腫瘍なのかで処置も変わるとのこと。

少しだけホッとした気持ちを胸に待合室で座っていると、タイミングよく友だちとのグループLINEが動いたので、今起きたことを報告した。一呼吸置いて両親に連絡したら、病院まで迎えに来てくれるとの連絡だけが届いた。

そんなこんなで先生に呼ばれたので処置室に向かう。細くて鋭い針をプスッとのどに突き刺され、人生で一番痛い思いをしたあの検査は、できることならもう二度と受けたくない。針で刺した後、笑っちゃうぐらい大きな絆創膏を首に貼られて、いろいろ待っていると、父親が病院に来た。

帰り道。車の中には母がいて、いろいろと心配そうに聞いてくる。そうすぐに結果が出るものではないし、実際とても体がしんどいわけではない。両親がとても心配してくれているのをよそに、なぜだか私は「書く仕事」「ライター 仕事」と検索をしていた。

今でもどうしてそんなことを突然調べたのかはよく分かってないけど、本能的に「いつか死ぬなら、今やりたいことを」と感じていたんだと思う。

「ここから自分らしい人生が始まるんだ」と未来に希望を抱いていた夏は、「こうやっていつか病気になって、簡単に人は死んでしまうのか」と実感した秋に変わった。

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病院で家族より先に連絡を入れたのは友人だった。偶然動いていたグループLINEで今起きたことをそのまま報告。その時に冒頭で少し触れていた友達の旦那さんが励ましの言葉を私に送ってくれて、なんだかとても落ち着いたことを覚えている。

友達の旦那さんは癌を患っていて、余命3か月と宣告をされていた。連絡を取っていたときは、余命を宣告されてから3ヶ月目ぐらいの時期。大事な友だちが初めて「結婚するから」と紹介してくれた大切な人。そんな人からかけてもらった言葉は、とても暖かく、「大丈夫だ」と信頼ができる言葉だった。

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友人の旦那さんが亡くなったのは、私事に励ましの言葉を送ってくれてから1か月後ぐらいだったと思う。亡くなる数日前にご実家に遊びに行かせてもらっていた矢先の話で、お菓子でも買いに行こうと向かったセブンイレブンの自転車置き場で友人からの連絡をみて、ぼ~っと家に戻った。

人が亡くなってからの一連の流れというものは、本当にあっという間で、お葬式に参列をしたのもすぐの話だったと思う。お葬式の最後に、友だちの旦那さんが参列者に向けてボイスメッセージを残していた。

「みなさん、本当にやりたいことをやって生きてください」。「後悔はしてないけど、やりたいことはまだまだある」といった言葉が心に奥底に刺さっていく。

あれだけ貪欲に楽しいことを追求していた人から向けられた言葉は、お葬式という会場のなかでもまっすぐで、透き通っていて、心の中にストンと落ちた。

ご家族はもちろん、”奥さん”になった友達に挨拶をして会場を出た後、少し寒い夜の中をちょっと遠い駅まで友人たちと歩きながら、いろいろな話をした。

みんなと別れて電車のなかでひとりになったとき、頭の中を駆け巡ったのは友だちの旦那さんが残していたボイスメッセージ。私の頭の中は「本当にやりたいことってなんだろう?」でいっぱいになった。

そこでふと思い出した。友だちの結婚式に参列したとき、旦那さんが「●●はやりたいことをやってるのが似合う」という言葉。そのときはバタバタとしていたので「ありがとうございます」と笑顔で返したけど、私にとっての”やりたいこと”ってなんだろう。それが似合う人生ってどんなものだろう。

たくさん考えたけど答えは見えなくて、でも、自分に病気があるときに分かった衝動で始めたライターの仕事は、ぼんやりながらも”やりたいこと”な気がしていた。

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それからあっという間に日が流れて12月3日がやってきた。色々なことを感じた1ヶ月。「私の生きる意味や価値は?」なんて答えのでないことばっかり考えては、音楽に逃げる日々を過ごしていた。

音楽に逃げる日々。私は、学生時代に「音楽に逃げる方法」を知ってから、人生の重きを音楽に捧げてきた。サンボマスターの音楽は自分のことを唯一認めてくれる音楽で、あるときからそれがないと息をするのもしんどくて、辛いことがあればすぐにイヤホンをして周りの音をシャットアウトするようにもなっていた。

今思うと、依存していたんだと思う。その心地よさに執着もしていたんだと思う。自分が欲しい言葉をくれる人。自分のことを認めてくれる言葉。そんな場がイヤホンの中の世界にあった。

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武道館でのライブで私が感じた「今日から新しい日だ」という感情は特別なもので、ライブが終わって、サンボマスターを好きな人たちと飲み会をした後、東京ドームシティのジェットコースターが見えるホテルに帰り、部屋で一人お酒を飲んだ。

普段は選ばないストロングゼロのレモンサワーを選んだのは、いろんな気持ちが心の中に押し寄せていたからだと思う。珍しくなんとも強いというか、美味しさの感じられないお酒を飲んで、ベッドの上でボーッとしていたら、急な衝動に駆られそうになる。

いろんなことが頭の中を駆け巡り、ネガティブな感情は一旦無視してみた。残った缶チューハイを目一杯口に含んで、ゴクリと喉を潤わせる。「よし」と心で決断した後、私は自分でやっていたアクセサリーのブランド名を「1203(イチニーゼロサン)」と決め、この日をキッカケに”自分の人生を変えること”を心に誓った。

居心地の良い音楽と、執着したくなる言葉にはも頼らない。大好きな音楽は”だいすき”と思えるままで在り続けたい。そんなことを決めた夜から約1年がたった。

明日は武道館以来のサンボマスターのワンマンライブに行く。1年前に「決断」をした私に、1年後の私からひとつだけ言葉をかけてあげれるとしたら、「ちゃんとやりたいことを見つけられているよ」と声をかけてあげようと思う。

そして、「人生はそう、うまくいかないから”生きがい”があるんだ」と教えてあげたい。










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