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アカシックガイドセッション

4日間のアカシック講座が昨日終了しました。
今回の受講で求めていたのが、クライアント自身がアカシックの体験をリーダーと共に体験していく体感型のワークだったから。
言葉で理解するよりも体で体験してみることが、何より大事だと痛感していたのでとても楽しみにしていました。

講座が進む早い段階でアカシックガイドの体験が始まりました。
感情解放型のワーク、ヒプノセラピー、インナーチャイルドセラピー、
内面を掘り下げていく体感型のワークは既にたくさんありますが、
導く過程は一見似ているようで、目的としているところが違っていました。

解決を求めていることでもなければ、
蓄積したものを解放することでもない。 

ガイドセッションで辿るその道筋全てが完結したプロセスでした。
どんなところへ辿り着くか、その目的地が意味をなすのでは無く、
過程そのものからクライアントが感じ取るものが全て、でありそのものなのだという感覚です。
これは言葉では中々説明のつかない、体験者にしか理解できないものかもしれません。
新しい手法、新しい角度からのアプローチでした。
私自身も今まで様々なワークを体験してきましたが、
論理的に説明することが難しい、頭では到底理解できないけれど
深いところでは何かしらの叡智を受け取っている、
その手応えを奥深いところで受け取れるセッションだということだけは分かる、
そんな感覚です。

最終日、最後のワークでペアを組ませていただいたお相手は、
今回サポートチームとしてご協力くださった数年に及び研鑽を積み、プロコースを歩まれた方と光栄にも組ませていただけました。
講座の間も何回かご一緒するワークをしており、深いご縁を感じていた方だっただけに、なんとも有難い気持ちでいっぱいになり、この時間内で多くのものを全吸収させていただく思いで、その方が導くガイドセッションを受け取らせていただきました。ありがとうございます。

ガイドセッション前に行ったリーディングセッションで出た私からのキーワードの中に、「信仰とは一体何なのか? 神とは何なのか?」があります。
アカシックは「スピリチュアル界」として一括りにされてしまう傾向がありますが、そういった安易に括れるものではないことと、天使や龍と名つけて、まるで流行りのアイテムを一過性に楽しむような風潮に物凄く嫌悪感を抱いていたし、神を崇めるその行為自体に疑いをずっと持っていました。
ですので「信仰・神」に関するものがリーディングの中の過去生で開かれた時、とても深く納得するものがあり、ガイドセッションのテーマに選んだのです。

ガイドセッションのプロセス一部を記録のため、残しましょう。

「神様」という意識を私のなかで反芻させて、意識レベルを下げ、誘導に従っていきます。
感覚を微細にして、揺れ動く様をそのまま見ていき、身体を動かしながら表現していくと、柔らかなエネルギーから一転、背後に物凄く冷たい仏像が立っているのを感じます。この仏像の表情はよくよく見ていくと、モアイ像のような瞳孔が開く目をしており、さっぱり無表情なのです。
何も喋らず、動かず、ただ居る。
小さな仏像ではありましたが、背後から感じるその仏像の圧から感じたものは
「動かないから怖い。ズドンとしているから怖い。」
でした。
普段の私は揺れ動くことを軽快に楽しむ傾向があり、
ズン!とした不動の存在に対し、恐れを感じる傾向があります。

さらによく見ていくと、その仏像の頭部には螺髪(らほつ)という巻貝のような髪の毛の末端から鋭く差し込むような光を感じ始めました。
その光をさらに拡大させていくと
「選ばれしものと選ばれないもの」
というとても冷徹で冷酷なエネルギーを感じた私は胸が押さえつけられるような痛みを感じていきました。
とても不条理な選択に悲しんでいる、そんな感覚でした。
その鋭い光は私を抑え続け、怖さでいっぱいになった私は
「もうやめて、怖い」と泣き叫びます。
動けなくなった私でしたが、周りを見渡すと真っ暗な空間にいることに気がつきました。
さらに周囲を見渡してみると真上にピンホールのような小さな白い穴が空いています。そこへ梯子を渡し、上へ登ってみる事にしました。
上界は真っ白な空間でさらにその上には水色をした空と雲。
爽やかな風をうっすら感じます。
雲に乗ってみることにしました。
少女になった気分で、雲の上で寝転び、足をパタパタと揺らしながら絵本を読んでいます。
特段したいことはありません。
このままで充分。何もしたくない。
そんな感覚です。
しばらくゆらゆらとする時間を楽しんだ私に
ガイドは周囲に何か見えないか、誰かいないか、を
リーディングで受け取ったであろう誘導が入ります。
そうね、確かにそう言われてみるといるような感じもする。
イメージは自由ですし、居る感覚になってみました。
周囲にはたくさんの雲があって、その一つ一つに子供が乗っています。
その表情はまるで子供がいたずら書きをしたへのへのもへじのような
線と点だけの顔です。
この中で気になる子はいませんか?と聞かれましたが、
別に興味がない、といった感じで(人間界でも他人にあまり興味がありません)
ただそこに居る、特段差し障りもなく、といった感覚でした。
そこでガイドは雲の下と雲の上を見るようにと進め、
敢えて言うならと、雲の上にある虹色に揺れる無数のカーテンの帯のようへ行ってみることにしました(どこまでも億劫なの。不動宮強し笑)

虹色のカーテンに触れ、そのゆらめきを楽しみ、小さく小さく繊細に感じ取っていきます。
そのエッセンスが伝えてきたのものは
「儚さ。切なさ。まるで線香花火のように命短く燃え尽きて終わってしまう。」

なぜだか泣けて泣けて堪りません。
人の命はまるで線香花火のようにあっけなく、小さく、燃え尽きてしまう。
小さな小さな命の粒。
小さくて儚い。だからとても尊くて、愛しくて、命を味わって大切にしたい。

その言葉が私のどこか遠いところからやってきて、私の口を伝って外に出て
それは私というよりもっと大きな存在からやって来る眼差しでした。

「神様」という命を生み出し続ける母なる存在のようなところから
小さな命が生み出され続けているのかもしれません。

大きな存在から見れば、人間は切ないほどに儚い命なのかもしれず
でもだから、その希少な命の粒を大切に大切に尊いものを扱うような気持ちで
感じているのだとしたら。

そんな大きな視点から見た輝く命の粒。
そして限りある命を持つ人間である私。

切なさと愛が同時に混ざり合うなんとも言えない感覚。
人間でいるけれど人間を体験している私。
どこか遠いところからやって来ている私。

味わい深いほどの人間というものを
そして神秘をこれほどに体験できる素晴らしさ。

言葉では言い尽くせませんね。

本質とはなんですか?
その問いには、このようにただのエッセンスとして
存在しているだけ、ということが身を持って体感でき
命の神秘性に触れられる貴重な時間となりました。

ガイドセッションのドリーミングの内容に関して
さらに深く掘り下げることはいたしません。
この中で受け取ったものが全てで、
何を感じ、何を受け取ったのか?その全ては受けた側の体感で
開かれているものだから、意味づけの必要さえないところ。
これもまた、私にとっては何より大切にしたい部分ですので
ガイドセッションには深く感銘を受けています。

思考のずっと奥で揺れ動き、働きかけている命のエッセンスからの響き。
このガイドセッションを皆様にもぜひ早く体験していただきたい思いです。

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