エッセイ どんなに悲しくたって別にいいよ

クリスマスに別れることなんてあるんだと思った。しかも振られた方ではなくて、自分から別れを告げた方だった。僕はもう会わないというのに、最後に手を繋いで歩いた。自分勝手でわがままで最低だと思った。

数日前に彼女の家に何気なく遊びに行き、一緒に近所のパン屋で買ったパンを食べていた。せっかく買ったパンをトースターで焦がしてしまったのを彼女はケラケラ笑っていて、これだけ笑ってくれるなら焦がしてしまってよかったと思った。

パンを食べ終わって、一息ついた頃、「大事な話があるの」と彼女は立ち上がった。彼女は部屋の押入れから何やら資料を取り出して「私はこれを信じてるの」と言った。見覚えのある資料だったから、ああそうかとすぐに何かを察知して、そのあとにすぐに激しく動揺した。
出逢って半年程が経つ頃だった。

彼女が信じていたものはいわゆる新興宗教と呼ばれるものだった。彼女の願いは僕にも信仰して欲しいというものだったが、それはできないとすぐに反論して、ただそれで別れようとは思わないと言った。その日はそれで帰ったが、整理するのには時間がかかった。宗教自体が良いものか、悪いものかは正直僕には分からなかった。人を救うもの、指針になるものもあれば、人を破滅させるものもある。彼女本人は、宗教二世であり、その宗教を心から信仰していた。だからそれは彼女を救っているのだろうとも理解できた。ただ、僕はその教義には納得ができなかった。彼女の願いは僕も含めた人々が同じものを信仰していくことであるから、その思いを感じながら、この先一緒にいることは難しいことだと思った。
「この宗教の良さは私の存在でしか示せないから」
ずっと心臓に引っかかっている彼女からの言葉だった。
彼女は本当に優しい人だった。


彼女と別れてから、自分が彼女と別れる決断をした意味を模索する日々が続いた。僕は宗教を偏見で差別したのではないだろうか。恐怖というイメージを払拭できずに、逃げたのではないだろうか。いいえと言えない自分が確かにそこには存在した。彼女が教義や団体の内容を饒舌に話してたとき、僕の知らない彼女が目の前にいて、それはすごく怖かった。ただそれが彼女が最も大切にしているもので、それが本当の彼女だった。だからそんなの信じちゃだめだよとも、洗脳されてるんじゃないのとも言えなかった。自分が信じているものを否定されるのは悲しいことだから。

そもそも僕に宗教や信仰に対する理解が足りてないことは問題でもあった。インターネット、sns、YouTubeの類はよくないことしか書いていなかった。それでも中立の立場からであったり、教義の是非を問わず、成り立ちや教義内容を説明していた資料は参考にした。
そんな中でやはり、信仰している人間の心情に触れなければ、本当の意味での宗教は理解できないと思い、宗教を題材にした小説を探した。

そこで出逢ったのが、今村夏子の星の子だった。宗教二世の子どもの日常を描いた作品だが、その宗教の不穏さを描きながらも、宗教に前向きな人々、後ろ向きな人々、大人になっていく彼女の葛藤などが難しい言葉を使わずに暗すぎることなく、描かれていた。
僕はこのとき、これが自分が生きている世界なんだと強く感じた。あらゆる事象に関して色んな心情がある。その心情が混沌とした世界の中で、人間が生きている。僕はやっぱり、全ての人間が同じものを信仰することはできないと思ったし、混沌こそがこの世界なんだと強く思った。

星の子を読んで、宗教理解が進んだかといえば、そうではなかったかもしれない。ただこのときのこの本は僕に別な作用をもたらしていた。それはこの混沌とした世界や人間の心情を描き出した純文学の美しさを感じとれたことだった。僕はこの頃から自分はこのような純文学を書かなければならないと強く思うようになった。

純文学を書くと決めてから、たくさんの小説を読んだ。ハンチバック、コンビニ人間、推し燃ゆ。どの本も人間の悲しみや、残酷さ、醜さを綺麗事一切なしで書いていたように思う。そしてそのことが人間を人間たらしめていてそれが救ってくれている気持ちになった。これが人間なんだよ。別にいいんだよって言われてるみたいで、悲しみこそが真実なんだって思えた。こんな本が書けたらいいなとますます思うようになった。

新しい本を探していく日々の中でとある1冊の本と出逢った。運命的でもなんでもなく、ふと沈黙という映画の存在を思い出して、原作である遠藤周作の沈黙を古本屋で買ったのだった。

それは江戸時代初期のキリスト教弾圧が激しかった頃、日本長崎に渡ったローマ教会の司祭が主人公の小説だった。

「神は何故こんなときでも沈黙しているのか」

これがこの小説が突きつける信仰というものがなんなのかを深く考えさせる重大なテーマだった。

江戸時代初期の百姓達は過酷な税を課されたうえに、牛馬のように死ぬまで働かされ、とても苦しい生活をしていた。そんな彼らを人間として取り扱ってくれたのが、この土地にやってきたキリスト教の司祭達だった。そう考えると、彼らにキリスト教が染み渡るように広がっていくのは自然なことだったのかもしれない。宗教や信仰にはこのような慈悲の心を生むものであるということを、僕たち日本人は遠ざかっている気がする。「私の信仰しているものの良さは私の存在でしか証明できない」
彼女がそう言っていたことがフラッシュバックした。

日本にいたキリスト教信徒達は激しい弾圧を受け、踏絵を踏まされる者、拷問を受ける者、殉教(処される)する者が後を断たなかった。
これだけ酷い状況を目の前にして、主人公である司祭は「神は何故こんなときでも黙っておられるのか」「神は本当に存在するのだろうか」そんなことを考えてしまうのだった。
この表現、そしてこの小説はもしかしたら神やキリスト教への冒涜になってしまうのかもしれない。ただ遠藤周作自身もキリスト教信徒であることから、信仰というものと真正面から向き合ったからこその表現なのではないかと思った。
そして、司祭は最終的に信徒を人質に取られ、転べ(棄教しろの意)と命じられた時に、初めて神の声を聞いた。それは「踏絵を踏みなさい」という声だった。

司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。

沈黙


司祭は神は沈黙していたのではなく、一緒に苦しんでいたことに気付くのだった。そして、たとえ神が沈黙していたとしても、自分の今日までの人生が神について語っていたことを思った。

僕はまるでこの司祭が時代を超えて僕の心身に憑依したかのように憚らず涙を流した。僕は何故泣いていたのか分からなかった。当時弾圧を受けた全ての信徒、司祭、棄教したが神を信仰し続けるもの、元恋人、あらゆる人の魂が僕に乗り移ったようだった。

このとき、ようやく僕は宗教や信仰に対しての理解が少しだけ進んだように思えた。信仰というのは利己的であり、一方的であるのかもしれない。ただその先に目には見えない大きな救いがあって、それが人々を生かしているのだろうと思った。
僕はこの本に選ばれたのだと思った。この本は僕の為に書かれたのだと思った。初めての感覚で、何十年も前に書かれたものからこんなに強いエネルギーが存在していたことを知って、ますます言葉や本の偉大性を感じることとなった。


彼女と別れ、別れた意味を模索し、本を読み漁っていた日々が流れ、少し落ち着いた頃、会社から異動が発令された。今の店舗に1年もいなかったことになる。入社5年目、2回目の異動だった。人との別れはやはり僕をセンチメンタルにした。行けば会えるなんていう関係性はこんなにも贅沢だったということをこういった別れの度に思う。みんな人間的にも、仕事でも完璧な人はどこにもいなかったなと思う。ただ人間は補い合うしかない。自然の摂理のように、人々は補い合ったり、支え合ったりするのではないかということは、この混沌とした世界の中の希望なのかもしれない。

異動が出て、唯一親しい同期に連絡をした。同期といっても同じ職場ではなく、別なお店だ。1年目の初めての関東の研修で席が隣だっただけで親しくなった。勝手に運命にしていたけど、都合のいい事実を運命と呼びたがっているだけで、僕らは常に運命の箱に閉じ込められている。片想いをしていた時期があり、彼女が出来てからは会っていなかった。何より同期からしたら僕はただの同期であり、彼氏もいたのでノーチャンスだった。別れた話を聞いたときに、誘ったこともあったが全くもっての塩対応だったので諦めた恋だった。

「私は店長に辞める話をしたよ」

それはまさかの返信だった。同期はもう同期でなくなるのだ。4月に入った頃だった。


そんな同期から久しぶりに誘われたので誘いに乗った。新宿と聞いたから少しお洒落してチェックのセットアップを着てネオンが光る街に繰り出した。履く度に親指の付け根が痛くなるドクターマーチンの革靴を履いた。少しほこりがかっているところが自分らしいと思って指で埃を拭いた。
中華料理を肴に久しぶりに酒を交わした。いつ会ってもその目を見ると好きかもしれないなと思ってしまうものだから、ずるい女だなと思う。それと同時にそんな単純な自分のことを弱い男だなって思った。
久しぶりに人と酒を呑む。いつもストレス起因の一人で呑む不味い酒だったから、嬉しかった。本当に仕事辞めちゃうんだねとか、最近暗い小説ばかり読んでるんだと言いながら、中村文則の銃を勧めたり、またここでも犬に追いかけられたんだって話した。
二人で新宿の街を駅まで歩いた。いつも来ないから街の煌びやかさにのまれそうになって、いつも呑まないから僕は少し酔っていて気持ちよかった。この時間に名前がないことが寂しく感じられた。
私今日はJRなんだと言うから、理由を聞いたら、彼女は小指を勢いよく立てた。
僕は寂しかった。僕らは今日同じ暗闇の中で生きてるんだと思った。君には帰る場所があって、僕にはそれがないんだと思った。
だからこそ僕らはきっと永遠で、永遠はそれほどいいものじゃないんだなと思いながら、僕は同期の顔を目に焼き付けて、自分の人生に出てきた全ての人間の顔を頭に浮かべた。
永遠なんてものはなくていいのかもしれない。みんなそれなりに愛していたと思う。

電車の中でcryamyを聴いていた。
どんなに悲しくたって別にいいよ
別にいいよ
あなたの声はあなたが決めたように響くから
どんなに悲しくたって別にいいよ
別にいいよ
別にいいよ
別にいいんじゃないの?
別にいいだろう?

僕は車窓から見える人間達をみつめていた。

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