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お狐様と黒峰さん

 春。京都の街に新たな季節が訪れたことを告げる風が、規則的に植えられた街路樹を揺らす。青く澄み渡り、白い雲が流れる綺麗な空が、今日はピクニック日和だよ! と、道行く人々に語りかけ——。

 そんな現実逃避をしながら、私は髪の薄い嫌味な上司の説教を受けていた。
「聞いてるのか黒峰! そうやってお前はいつも人の話を聞いていないから——」
「はい、はい。申し訳ありません」
 分からないことがあったらすぐに聞け、と言われたから質問したのに、何故私は怒られているのだろう。ただただ疑問であり、どうでもよいことでもある。きっと、ただ単に日頃の鬱憤を私で晴らしているだけなのだろう。言い返すことなどとっくに諦めている私は、上司のどうでもいい叱責に合わせて、ぺこぺこと頭を下げていた。
 私の人生はどこで間違ったのだろう。いや、間違っているのは私じゃない、この会社だ。小中高、そして大学まで順風満帆だった私の生活は、ブラック企業だったこの会社が見事に潰してくれた。まさかこんな、上司もおかしい会社だったなんて。早朝から夜遅くまで働き続け、帰る頃には日付が変わりかけている生活。果てしなく続く仕事に追われ、同僚と話す余裕もほとんどない。家に帰っても、あとはご飯を食べて寝るだけ。毎日帰れるだけまだマシな方なのだろうか。いつも寝不足だけど。
 ネットじゃ『ブラック企業はすぐに辞めろ!』なんて言ってるけど、私はその後が不安でなかなか踏み切ることが出来ない。きっとこのまま会社に縛られ、身体と命を犠牲にしながら人生を終えるのだろう。
「――分かったか? 早く仕事に戻れ!」
「はい、すみませんでした」
 今迄の人生を振り返っていたら、いつの間にか上司のありがたーいお説教が終わっていた。仕事を止めてたのは誰ですか、と私は思う。やっと解放されたけど、仕事はまだまだ終わらない。
「ふう……」
 私は椅子に座り、パソコンを点け、天井を見上げながら深くため息を吐く。パソコンの横にはいくつも積み重ねられた書類の山、メールボックスには解決していない案件たち。
 まだまだ頑張らなきゃ。今日も長い一日になりそうだ。
 自分で自分を励ましながら、私は再び終わりの見えない仕事に取り掛かり始めた。


「うっへえ……今日も疲れた……」
 深夜零時。予想よりも長くなってしまった仕事を終え、誰もいない夜道を歩く。自宅の最寄り駅に着いた頃にはもう、周囲の家からも物音が聞こえない時間になっていた。点々と街灯はともっているけれど、その間からは闇がこちらを覗き込んでいる。こういうときに限って思い出すのが、子供の頃に聞いた怪談話。所詮幻想だと分かっていても、光の届かない底なし沼から這い出てこようとしている怪物たちの存在は、私を恐れさせるには十分すぎた。
 そんなわけで、暗闇の中を歩くのはどうにも慣れない。毎日通る道ではあるが、毎日自然と早歩きになる。早く家に帰ろう。そう思い自宅へと続く交差点を曲がったとき、視界に不可思議なものが入ってきた。闇の中に立つ小さな人影。おおよそこんな時間には見ない背丈をしたそれは、静寂と暗黒に支配された社の前でフラフラと動き回っている。闇に浮かぶ影の頭部には、明らかに人間の物ではない何かが突き出ていた。
 私は深呼吸をし、安息の地が待つ方向へ歩みを進める。一歩、二歩、と影に近づいていく。社の前に差し掛かり、あと一歩進めば影に手が届きそうなほどの距離まで歩み寄ったその時、影がばっと振り返り、私に向けて声を発した。
「おお、帰ったか! いつもご苦労じゃのう、黒峰」
「えっと、その、ありがとう、ございます」
 そこにいたのは、私よりも少し若い見た目をした、狐の耳が生えた巫女服の少女だった。


 私がその少女と出会ったのは、僅か一日前のこと。
 朝早く起きて会社に行って、夜遅く帰って寝るだけの生活を送っている私だけど、ただ一つだけ毎日欠かさず行っている日課があった。家の近くにある小さな神社へのお参りである。
 私は昔から神様の存在を信じていた。特に何か信仰があるわけではないけれど、そう思っていた方が楽しいし、いつでも誰かに見守られていると思うと身が引き締まる。だから、日々辛いながらも健康に暮らせているお礼も兼ねて、毎日出勤時と帰宅前に神社でお参りをしている。
 昨日も私は仕事終わりに神社へ立ち寄った。昨日は運が良かったのか仕事も早く終わり、まだ夕陽が空をオレンジ色に染めている頃に帰ることが出来た。
 仕事用の鞄と夕飯の総菜が入ったビニール袋を持ちながら、私は神社に足を踏み入れた。鳥居をくぐり、お稲荷様の間を通り、大樹の下に建てられた小さな社の前に立つ。私は荷物を置き、お賽銭箱に五円玉を投げ入れてから、いつものようにお祈りを始めた。二礼、二拍手。悩み事の尽きない外の世界から隔絶された小さな境内に、柏手の音が響く。手を合わせ健康を祈り、さらに一礼。さあ帰ろう。と、頭を上げると――。

――巫女の服を着た、狐みたいな耳と尻尾の生えた少女が目の前に立っていた。

「今日もお疲れ様、じゃ」
 身体が硬直した。音もなく目の前に現れただけでも驚いたのに、微笑みながら話しかけられてしまった。まだ日が沈み切っていないとはいえ、こんな薄暗い静かな場所に少女が一人でいるのは違和感がある。それにあの服装。コスプレだろうか……最近の若い人の間ではああいうのが流行っているのかな? なによりあの耳、耳と尻尾だ。あれもコスプレだと思いたかったけど、どう見ても本物の狐のそれにしか見えないし、時折ぴこぴこと動いているようにも見える。
「はっ、ははは。やっばいな……私もついに幻覚が見えるほど……あはは……」
「いやいや、妾はここにいるぞ、黒峰とやら」
 狐の子は微笑んだまま首を傾げた。恐る恐る手を伸ばしてみると、確かに狐の子の感触がした。私と変わらない体温をしたその子は、頭の上に生えた耳を撫でられながら心地よさそうな表情をしている。
 たしかに私は神様の存在を信じている。神様が人の姿で私たちの前に姿を現わすなんてこともある……かもしれないとは思った。それにこの神社はお稲荷様を祀った神社だ、ここの神様が狐の耳や尻尾を生やしているのも至極当たり前のことである。ならこの少女は、巫女服を着た金髪の狐耳少女は……。
 いや、いや、いや。考えすぎだ。神様が人前に姿を見せる意味が分からない。私の名前を呼んだのも、きっと私の妄想とか幻覚とか幻聴だからだろう。うん、疲れてるんだな私。いくら京都でもこんなにも不思議なことは起こるわけない、うん。
 私は狐の子を撫でるのをやめ、地面に下ろしていた荷物を持ち上げた。
「あの、じゃあ私はこれで」
「む? もう帰るのか。まあ疲れてるじゃろうしな……。気をつけて帰るのじゃぞ!」
 狐の子は少し肩を落としたあと、また優しい笑みを私に向けてきた。私はぎこちない笑顔でそれに応え、そそくさと神社を後にした。
 久々に早く退社出来たので色々とやりたいことはあったが、結局私は帰宅後すぐにご飯を食べお風呂に入り、早々に寝床についた。今日ちゃんと寝られれば、これ以上幻覚を見ることはないだろう。そう思い私は、暖かい布団の中で目を閉じたのだった。


 今朝再び会った時はまだ疑っていたが、これはいよいよ現実だと認めるしかなくなったようだ。
「本当に、いるんですね」
 私の言葉に、狐の子は不服そうな顔をする。
「昨日からそうだと言っておるじゃろう」
「あなたは……何者なんですか?」
「この神社に住む、黒峰たちのいう神様じゃよ。父は京の一角を護る土地神! 母は京の妖怪たちを統べる大妖怪! それが妾じゃ!」
「妖怪……妖怪!?」
「ああ、安心せい。妾は人に危害を加えたりせんよ」
「は、はあ」
 神様とか妖怪とか、そんな存在が人間の前に姿を現すなんて、誰かが作った物語の中でしか聞いたことはない。だけど狐の子は確かに私の前に立っている。不思議な状況ではあるけれど、ひとまず私はそれを受け入れることにした。
「そう、なんですか。私の名前を知っていたのは?」
「それは黒峰、おぬしが自分で念じてたじゃろう。社の前で手を合わせながら」
「ああ」
 なるほど、それなら知ってて当然だ。
「……私のお祈り、ちゃんと届いてたのか……」
「うむ、聞こえていたぞ! 妾は神様じゃからな!」
 両手を腰に当て、えっへん! とでも言いそうな表情で狐の子は答えた。
「妾はいつでもここにいるからの、何かあったら頼ってくれて構わん」
 狐の子はニッと笑う。
 正直、疑問はたくさん残っていた。何故こんなに若い狐の子の姿なのか、何故私の前に姿を現したのか、何故私に話しかけたのか。心の隅では、やはりこの子は幻覚なのではないかという気持ちもあった。
 けれど、それでも私を見ていてくれる誰かがいるのは嬉しかった。例え幻覚であっても、御伽噺の中で出てくるような存在であっても、嬉しいことに変わりはない。……この狐の子を信じてみようかな。私はそう思い、神様と名乗る狐の子に問いかける。
「あの」
「ん?」
「何とお呼びしたらよろしいですか?」
「そうじゃな。うーん……妾に名前は無いからのう。おぬしの好きなように呼んでくれてかまわんよ」
「なら……お狐様。お狐様はどうでしょうか」
「うむ、いい名じゃな。それがよい! これからよろしくな黒峰!」
「はい、お狐様!」
 私が笑うと、お狐様も笑ってくれた。こうして、私と狐耳の神様の生活が始まった。


 お狐様と出会ってからの日々はあっという間だった。それまでと同じように社会人としての憂鬱は続いていたが、それでもお狐様との時間があるおかげで、私は楽しいと思える毎日を過ごすことが出来ていた。

 夏には、お狐様と木陰でアイスを食べた。
「美味い! アイスとはこんなに美味しいものなのか!」
「召し上がられたことはなかったんですか?」
「うむ、自分では買いに行けないからのう。溶けてしまうからお供えされることもない」
「じゃあまた今度美味しいやつ買って来ますね! 一緒に食べましょう!」
「黒峰、おぬしは優しいのう。……これが『神から施しを受けた』と言う人間の気持ちか!」
「私人間ですよ?」

 秋には、お狐様の社に散った落ち葉を二人で掃除した。
「葉っぱ、多いですねー」
「毎年そうじゃよ。でも今年は黒峰のおかげでずっと綺麗なままじゃ、礼を言うぞ」
「いえいえ、当然のことですよ。この落ち葉、神通力みたいなのを使って集めたり出来ないんですか?」
「もっと散らかすことなら出来るぞ!」
「……なるほど」

 冬には二人でマフラーを巻き、しんしんと降る雪が降り積もるのを眺めた。
「お狐様あったかい……」
「寝るな寝るな!」
「だってお狐様が暖かいんですもの……。尻尾ももっふもふしてて……もふもふ……ぐう」
「だから寝るなと言っておるじゃろう!?」

 お狐様のことを知ることも出来た。私の通勤路にある小さな神社の神様。彼女は本当に妖怪と神様の間に生まれた子だと言う。母は妖怪で、古くからいくつかの逸話を残している狐の大妖怪。神である父は、私の家も含んだ京都の一角を守護する土地神。その二人から、京都の小さな小さな一角を任された土地神様が、私に笑顔を向けてくれたお狐様だった。
 日々の生活は相変わらず辛いことだらけだが、それでも私は以前より楽しい生活を送っている。朝はお狐様に見送られ、夜はお狐様と少し話してから帰る日常。いつも見守ってくれ、私の話でも楽しそうに聞いてくれるお狐様は、いつしか親しい友人のような関係になっていた。私の、忙しくも楽しい時間とともに季節は巡り、気づけばあれから一年が経とうとしていた。


 春の訪れを告げる暖かい風が、再び私の頬を撫でる。
「おはようございます、お狐様!」
「おはよう黒峰。なんか嬉しそうじゃな」
「え? えへへ、そうですか?」
 お狐様と出会ってから続いている朝の挨拶。お狐様のいつもの笑顔を見た私は、思わず顔をにやけさせてしまった。
 今日は特別な日、お狐様と出会ってからちょうど一年になる日だ。この一年で私の生活に彩りと笑顔をくれたお狐様に感謝を伝えるため、私はこの数日色々と準備してきた。お狐様とたくさん話せるように仕事を調整し、プレゼントのために美味しいケーキ屋さんだって調べた。あとは今日の夜、お狐様にサプライズで感謝を伝えるだけだ。きっとお狐様は喜んでくれるだろう。そう思うと、勝手に顔が綻んでしまう。
 ニコニコとしている私につられたのか、お狐様も笑い始めた。
「ふふ、幸せそうで何よりじゃ。それより時間は? 大丈夫か?」
「あっ、急がなきゃ!」
 お狐様に言われ、時計に目を向ける。左腕についた銀の腕時計は、遅刻ギリギリの時間を指していた。急いでお賽銭箱にお金を入れお参りをする。今日のサプライズを悟られないように気をつけながら、今日も一日楽しく無事に過ごせるよう願い、私は神社を後にする。
「それじゃあ、いってきますねお狐様!」
「気をつけて行くのじゃぞー」
 別れ際、お狐様に手を振ると、彼女も私に手を振り返してくれた。今日も仕事が大変だろうけど、夜のことを思えば頑張る気力が湧いてくる。またにやけてしまった口元を手で隠しながら、私は駅に向けて歩き出した。


 そして私は、自分の考えの甘さを悔やんだ。この理不尽にまみれた会社で、思った通りに事が進むわけがなかった。現実は非情だ。なんで、なんでよりによって今日なんだ。
「この仕事は昨日が期日だろう! 何故まだ終わっていない!」
「でもそれは貴方の仕事――」
「口答えするな!」
 明らかに私の仕事ではない上司の仕事。その仕事の責任を問われ、私は職場から帰れずにいた。壁にかけられた無機質な時計は、無情にも夜中の二十二時を指している。こんな時間にケーキ屋などやっているわけがない。勇気を出して反論してみても、聞く耳を持たない上司はただ怒るばかり。私の仕事は終わっていた、終わっていたはずだ。定時には帰って、お狐様とゆっくり話せたはずだった。
 闇に包まれた窓の外を視界の端で捉え、悲しみと怒りのせいで溢れそうになる涙を必死に抑えながら、私は上司に向けて頭を下げ続けた。


「今日も遅い帰宅じゃな」
 深夜。すっかり暗くなってしまった神社の前で、いつものようにお狐様は待っていた。あれからなんとか仕事を終わらせようと頑張っていたが、その努力も虚しく、退社できたのは終電の時間。もちろん、プレゼントなど用意出来るわけがなかった。仕事用の鞄だけ持った私は何も言えず、いつもと変わらない笑顔を向けてくれたお狐様の元にふらふらと歩み寄る。私はキョトンとした顔をするお狐様の前で座り込み、抱きつき、思わず泣いてしまった。
 今日は大切な日だった。私に笑顔をくれたお狐様に感謝を伝えたかった。私の生活が変わってからちょうど一年の今日、お狐様とたくさん話したかった。仕事の調節も頑張った。贈り物もしっかり考えて、お狐様に喜んでもらう準備はほとんど出来ていた。なのに。
 声をあげながら泣く私を拒絶せず、お狐様は何も言わずに抱きしめてくれた。優しく頭を撫でられ、段々と気持ちが落ち着きを取り戻してきた。
「大丈夫か?」
 ようやく涙が収まってきた私に、お狐様が問いかけてきた。私はお狐様から離れ、涙を拭って答える。
「はい……ごめんなさい」
「謝らなくてもよい。何か辛いことがあったら妾がいつでも聞くぞ?」
 お狐様のおかげで落ち着くことの出来た私は、優しく微笑むお狐様の横に座り話し始めた。
「今日……今日は、お狐様と出会ってちょうど一年の日だったんです」
「ああ、もうそんなに経ったか」
「それで私、お狐様にお礼がしたくて、プレゼントを用意していたんです。お狐様に喜んでもらいたくて、美味しいものを知ってもらいたくて……仕事だって今日のために頑張ってたのに、私のじゃない仕事を押し付けられて」
「そうかそうか」
 溜まっていた思いを言葉にすると、また悲しみがふつふつと湧き始めた。潤んだ瞳を腕でこするが、再び涙が溢れてきてしまう。涙ぐんで黙ってしまった私の頭を、お狐様はゆっくりと撫でてきた。
「大丈夫じゃよ、おぬしの気持ちはちゃんと伝わっておる。妾もこの一年楽しかったからの。ありがとう黒峰。また今度、おぬしものんびり出来る日にゆっくり話そうではないか」
「……はい」
 私の涙が収まるのを待ってくれているのか、お狐様は何も言わずに私の隣に座っていた。背中を撫でてくれるお狐様の手は心地よく、嫌な気持ちも段々と薄れていく。
「……私もう嫌です、あの会社に行くの」
 気持ちが整理され平静を取り戻した私の口から、本音が漏れ出してしまった。きっとお狐様を困らせてしまう、そんな不安が頭をよぎる。
 すると突然、隣に座っていたお狐様が立ち上がった。
「だったら辞めてしまえ! 妾も手伝ってやろう!」
「へ?」
 お狐様の口から出た意外な言葉に耳を疑い、彼女の方を見る。私の隣で立っている狐耳の神様は、驚き目を丸くした私を見つめ、にっこりと笑った。


「この会社、辞めさせていただきます」
 翌日の朝、職場の机にあった荷物をまとめた私は、憎き上司の机の前に立った。怪訝な顔をする上司など意にも介さず、『退職願』と書かれた封筒を叩きつけた。
「……なんだと!? この時期に辞めるなんて許――」
 私の上司は憤慨しているのか、一瞬で蛸のように顔を真っ赤にして怒鳴ってきた。無理もない。仕事が尽きない職場で、鬱憤のはけ口となっている大切な部下が、突然やめると言い出したのだから。
 だが、怒鳴られることなど想定済みである。これ以上この人の言葉を聞いても時間の無駄だ。私は上司の言葉を遮り、周囲の人間にも聞こえるような声で叫んだ。
「そう言うと思ってましたよ、最っ悪の会社ですね。こんな場所、狐に祟られてしまえばいいんです」
その言葉が全ての引き金となった。窓が閉められほぼ無風だったはずの職場に、穏やかな風が吹き始める。その風は次第に強くなり、机の上に積まれた紙を巻き込み始めた。
「ひ、ひいい……!」
 髪の薄い嫌味な上司は突然の奇怪な現象に驚いたのか、私の目の前で座りながら身を縮め、辺りをキョロキョロと見回している。嵐のようになった風は窓をガタガタと揺らし、職場にあった様々な資料を木の葉のように撒き散らしていた。職場にいた人々も悲鳴をあげ、自分の机の下に逃げ込んでいる。理不尽に満ちた大嫌いな私の職場は、まるで妖怪に襲われたかのような有様になっていた。
 必死に首を振り辺りを見渡していた上司が私に視線を向ける。風の中心で見下ろしている私と、私が叩きつけたまま微動だにしていない封筒の方へと。
「それでは失礼します。貴方とは二度と会わないよう神様にお願いしますね」
 私は吐き捨てるように言葉を続け、上司を睨みつけた。何か言い返してくるかと思ったが、私を見たまま怯えた表情をするばかりで、これまでのような偉そうな言葉は飛んでこなかった。この様子だと、退職願も問題なく受理されるだろう。安堵した私は上司を睨んだまま荷物を持ち上げ、風の吹き荒れる職場を後にした。


「……ふっ、ふふっ」
 二度と関わらないであろう会社を後にし、地元の駅に着いた時、思わず口から笑いがこぼれてしまった。
「あはははは、楽しかった!」
 一人で笑い始めた私に驚いたのか、周りの人たちが振り向いた。しかし私は構わず、お腹を抱えて笑い続ける。そんな私の笑い声が合図だったかのように、突然周囲に優しい風が吹き始めた。風に運ばれてきた木の葉は渦を巻き、やがて狐耳の神様が現れた。
「楽しかったのう! 見たか黒峰、あの男の怯えきった顔!」
「見ましたよ、笑いをこらえるのが大変でした。いつも偉そうな態度で部下に接してた上司が、あんな無様な顔を……ふふふっ」
 お狐様と私は、いつもの社に向かいながら二人で笑いあった。胸の中のもやもやがすっかり消えてなくなった私は、お狐様に向き直り改めて感謝を伝える。
「ありがとうございます、お狐様」
「うむ」
 お狐様が満足げな表情で頷いた。
「お狐様、神様なのにあんなことをしちゃってよかったんですか?」
「はは、何を言う黒峰。妾は妖怪じゃぞ? 人間の驚く顔が妾の大好物じゃ!」
「ふふっ、そうでしたね。もしかして私の驚く顔も?」
「もちろん! 初めて会った時の黒峰の驚く顔も格別だったのう」
「お狐様ひどーい」
 お狐様はまた、声を上げて笑った。
 お狐様の社にある大樹のてっぺんが見え始めた頃、私はあることを思い出した。ずっと聞けていなかった、ある一つの疑問を。
「お狐様、一つお聞きしたいことがあるのですが」
「なんじゃ?」
「……あの時、なんで私の前に姿を現してくれたのですか? 神様ってこう……天の上から見守っていらっしゃるだけの存在かと」
 私の言葉を聞いたお狐様は、出会った時のような微笑みを浮かべ話し出した。
「おぬしが毎日通ってくれたからじゃよ、黒峰。妾の神社はあまり大きくないからの、訪れる人もそれだけ少ないんじゃ。そんな中で毎日立ち寄って祈ってくれる人がいる、妾も嬉しかったんじゃよ! 妾が何か幸運を授けられるわけではないが、おぬしの話し相手ぐらいにはなれる。いつも一人で苦労してるみたいじゃったからな」
 それは私にとっても嬉しい言葉だった。あの小さな社に出会ったあの時から、私は一人ではなかったのだ。たくさんの幸福をくれたお狐様の言葉に、思わず瞳から流れた涙を拭い、震えそうになる声をおさえながらお礼を言う。
「ありがとう、ございます」
「うむ!」
 やがて私たちはいつもの場所にたどり着いた。お狐様との思い出がたくさん詰まった、私たちの大切な社。その入り口にある小さな鳥居の下まで来た時、お狐様が私に話しかけてきた。
「のう黒峰、妾と一緒に旅に出んか?」
「旅、ですか?」
「そうじゃ。妾は生まれてからずっと、この京の都にいる。母上も父上も優しいんじゃがの……外の世界も見てみたいのじゃ。じゃが妾は、妾が護っている土地以外のことなど知らぬ。だからの、誰かと一緒に旅をしたいのじゃ。外の世界の師として、良き友人として、誰かと旅をしたいと思っていてな。だから黒峰……妾と一緒に旅に出てくれんか?」
 お狐様が首をかしげながら問いかけてくる。私を見つめてくる神様の瞳には、今まで一度も見せなかった不安の色が混じっているように見えた。一体何を不安に思っているのだろう。私に新しい世界を見せてくれたお狐様の誘いを断ることなんて、あるはずがないのに。
 私は、あの日お狐様がくれた笑顔のように微笑み、狐耳の神様に手を差し出した。
「もちろんですよ、一緒に行きましょうお狐様!」

 春。出会いと別れの季節が訪れたことを告げる風が、思い出のたくさん詰まった小さな神社の木々を揺らす。あの日のように青く澄み渡り、白い雲が流れる爽やかな空が、私たちの新しい旅の始まりを祝福していた。

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