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2023/09/28(木)

kindle unlimited でブルーバックスが読めるので、池谷裕二『自分では気づかない、ココロの盲点』を読み始めた。最初に「選択肢過多効果」が取り上げられている。これは、選択肢が多すぎると、人は選ぶことそのものが嫌になってしまうというものだ。

自分のことに照らし合わせて考えると、外出先や移動中に本を読もうと思い、本棚から本を選ぶ。そのときにあまりに未読の本が多いからどの本を読むか迷ってしまい、選んでいるうちに疲れてしまうということがよくある。これは典型的な「選択肢過多効果」だろう。

ある瞬間の選択肢の多さが「選択肢過多効果」のようだが、次のような場合はどうか。「わたしは、まず①をおこなう。次に②、③、④、そして......」というふうにやることがあるとき。やるべきことが多すぎると感じるのは選択肢過多効果とは違うのだろうか。それぞれの出来事が同時に発生するわけではないから、選択肢が増えているわけではない。でも、これらのやるべきことがまるで同時に起こるかのように錯覚してしまい、嫌になる、ということが自分にはある。そして、これも選択肢過多効果と似ているように感じている。

続いて取り上げられる認知バイアスは、『熟慮の悪魔』と呼ばれるもの。脳は直感的に即断すればするほど、全体にとって利する行動をとる傾向があり、逆に一歩踏みとどまって考えると利己的になりがちだ、というものだ。これもなかなか興味深い。

たとえば、自分がたくさんの仕事をしなければならないとする。仕事A、仕事B、仕事C......というように。このとき、すべての仕事をいかに迅速に終わらせるべきかということを考えなければならないとする。Aのこれを進める、ここまで進んだら次にBとCを開始し、これを途中まで進めたら、ふたたびAの続きを......というような答えが最適解だとして、この最適解が直感で判断できないような場合、「最短時間で進めるための最適解でなかったとしても、とりあえず進める」ことを良しとするかどうか、とか。

しかし、この「熟慮の悪魔」というのは、どういう場合に起きることを指しているのか。一例として寄付やショッピンが挙げられているが、それ以外の場面はどうなのだろうか。熟慮や思慮深さと呼ばれるものは、およそすべてが利己的なものにつながっているのだろうか。さらに言えば、『ソフィーの選択』のようなきびしい決断を迫れるときに、もし考慮時間がほとんどなかったとしたら、それは全体にとっての利になっているのか、そして、その全体とは何を指しているのか。

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