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2023/10/15(土) つながりのない日記

高校生のとき、中原中也が『感動したから書くのではない。何もないところから書く』と言った、という話を読んだ記憶がある。この記憶は曖昧で、小林秀雄が中原中也との思い出を書いたのものだったか、すぐに思い出せない。

桑原武夫『第二芸術』やそれに関連する文章を探していたら千野帽子『いきなり俳句入門』に当たった。そこで俳句に持たれがちなイメージとそれらへの反論が述べられているのだが、「俳句は感動したから読むものではない」ということが書かれていて、思い出したのが中原中也の話だった。

ところで、この中原中也の詩作観(?)や千野帽子の俳句観は一種の言語論的転回だろうか。……と書きながら、言語論的転回のことをよく知らない。Wikipediaによれば、言語が現実を構成する、というのが哲学で言われるところの言語論的転回のようだ。

この言語論的転回のなかでは言語以前という状態のことは考えないのだろうか。言語にならないもの、言語未満あるいは言語以上のものがあるとして、それらは「語りえぬものは沈黙せねばならない」ということだろうか。そういうものの有無は問題としては取り扱わない、取り扱うことができないということだろうか。ふと、永井均が<私>ということで言わんとしているのは、言語ではあるとかないとか言うのができないはずのものを剔抉するということだろうか、と思った。

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永井均の文章をきちんと読めてはいないものの、ところどころ拾い読みをするようにして読んだりしている。それは哲学的に望まれる読み方ではないのだが、どうも自分は「ひたりつく」ことが苦手だ。ほとんどできていない。ほとんど、とはどれくらいだろう。5分では足りないのか10分では足りないか。過多はどう決まるのか。読むべき文章の量に対してだろう。

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鈴木宏昭『認知バイアス』だと、言語の獲得とともに失われるものがあるという話がでてくる。でも、失ったあとに失われたものが何であるかというのはどうやってたどるのだろう。『認知バイアス』で紹介されているのは、言語を獲得する前の子が書いた馬の絵が写実的であるのに対して、大学生が書いた馬の絵は記号的だ、という話で……。

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段落ごとにあまりつながりがないので「つながりのない日記」というタイトルにした。

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