精神病院に入院した話 その2

前の続きです。読んでくれている方は居るか分かりませんが、私の自己満足で書きます。

診察室で暴れた私は、看護師さん達に取り押さえられ、麻酔を打たれ気が付いたら何もない真っ白な部屋で拘束されてました。

とりあえず一番最初に思ったことは警察署に保護されてるときからトイレに行ってないのでトイレに行きたい、と思いました。本当に人間って欲求に従順なんだと思った瞬間でもあります。

代わる代わる来る看護師さんにトイレに行きたいと言っても「先生の許可がないから拘束具が外せないんだ」と言われたのが絶望的でした。え、私がやったことって、馬鹿なことだったのだと。

私は普段コンタクトなのですが、保護室では危ない、と言う理由でコンタクトも無理やり看護師さんに取られ(今だったらコロナの危険性を考えてしまうレベルですけど)、コンタクトがないと見えない私はぼやけた視界とトイレに行きたいという気持ちで夜を過ごしました。

いつの間にか寝ていたらしく、というかもうトイレに2日も行ってないと言う事実に少し怯えながら、朝イチに来た看護師さんに「トイレ行きたい」と言っても無駄で、むしろ喉渇くから、と水を飲まされ、心の中でいつになったら拘束具が取れるんだ、と内心怒りつつ居たところ、お昼頃看護師さんが急に「拘束具外すけど点滴抜かない?点滴抜いたら拘束するけど」とまさか拘束具を外してくれる、と言ってくれたことに私は「絶対抜かない、点滴抜かない!」と思わず大きな声で言いました。そうして取ってもらえた拘束具に少し憎んでいたことを思い出しながら、私はやっとトイレに行けました。本当にこれが地獄で地獄で、自由って凄い、と感動してました。嬉しくて点滴と一緒に保護室を歩き回りました。

そうして入院生活(保護室での)が始まったのですが、まず見えないので朝ご飯がなにか分からない。私は分からないもの、食べたことがないもの、とにかく変だと思ったものは全く食べない偏食なので、朝ご飯が食べられない。同じ理由でお昼ご飯も夜ご飯も食べられない。唯一分かったのはパスタと魚とお肉。そして15時になると嫌いな牛乳が出されることが苦痛でした。とりあえずは飲むけど、嫌いだから何とも言えない。

そして保護室なので喉が渇いたら重圧な扉を思いっきり叩いてお茶とお水を貰う、という。私は喉が渇きやすい体質なので割とお願いしてたら「そんなに飲む?」と驚かれました。いや、喉渇くんです。

この入院は私の意向ではなかったため、回診に来てくれた担当医(ユースケ)に「退院したい」とごねたり、担当医じゃない怖い先生に「退院したい」と言ってみたり、はたまた院長先生に言ってみたりしたのですが、ユースケと院長先生は「保護入院だから無理」と言ってくれて、まあ納得してないけどしたのですが、担当医じゃない先生には「何言ってんの?」と言われてムカついた思い出があります。私は墓参りに行く予定だったんだぞ、と。

そうして週が明けて火曜日(入院したのが確か22日の火曜日だったはず)に「私、保護された日からお風呂に入れてない」と気が付いたんです。そしてたまたま聞こえたお風呂のアナウンス。やっと入れる、と本当にうれしかったです。

ですが全然呼ばれず、また重たい保護室のドアを思いっきり叩いて「お風呂いつですか?」と聞いたら「保護室の人は一番最後ね」と言われ、愕然とベッドしかない部屋で呼ばれるのをずっと待ってました。それでもなかなか呼ばれず、ベッドに座ってぼーっとしてました。

そしてやっと呼ばれたお風呂の順番。すっごい嬉しくて念入りに念入りに髪の毛と身体を洗いました。多分5回くらい?それくらい洗いました。でも怒られなかった。怒られてたら泣いてしまうけども。ちょうどその日はお風呂の中でアクシデントがあったらしく「シャワーをたくさん浴びてあったまってね」と言われました。だから怒られなかったのかなあ、なんて思い出してます。

お風呂から上がったら脱衣所で着替えて髪の毛を丁寧に乾かして、看護師さんに髪の毛を梳かしてもらい、また保護室に帰りました。お風呂の時間が最初唯一保護室から出られる時間で、とても嬉しかったことを覚えています。

そうして6日間くらい経ったある日の朝、「朝食だからおいで」と保護室からとある場所に案内されました。(その間に親が来ていたらしく眼鏡だけはもらっていたのでちゃんと見えてました)

案内された場所は同じ階にに入院している方が集まるフロアでした。最初はなんだろう、と頭が理解してなかったのですが、看護師さんに「今日からご飯の時だけここのフロアに出てきてもらうから」と言われ、保護室から出る時間が増えたと嬉しくなりました。まあ、朝ご飯は美味しくなかったんですけどね。

保護室に居る間はずっと点滴されていて、何もすることがなくて、保護室内を歩き回るしかやることがなかったのですが、少しずつ出れることが嬉しかったです。本当に。保護室は物の持ち込みが禁止だったので、まずピアスは外されてしまい、軟骨ピアスはそれで塞がりました。眼鏡だけは見えないから許可を頂き、私物はそれしかなかったです。本当に苦痛でした。

そうして10日が経った日だったと思います。急に保護室から出れることになり、寒いのですが二人部屋のところを人がいないので一人部屋として使えることになりました。そこにはすでに私の荷物が置いてあって、姉が工夫してマスキングテープで本に直接名前を書かずに済むようにしてくれていた小説と冬服が置いてありました。そこで初めてあんなに迷惑かけたのに心配してくれる姉に感謝しました。母親には正直入院させた、という恨みしか残っていないのも事実でした。

保護室から出てからユースケと色々話して、ぬいぐるみを持っていたいと言ったら「この歳になってぬいぐるみ?いいけど」と20歳すぎた大人が入院先にぬいぐるみの持ち込みをお願いしたり、退院したいと駄々を捏ねたり、色々ありました。

電話はテレフォンカードを買って公衆電話から電話だったのですが、電話番号が分からず、家族に電話すらあまり出来なかったような記憶があります。公衆電話から携帯にかけるとカード残高がすぐ減ることを学習しました。

そうして11月4日、入院してから初めて家族(母親、姉)と面会しました。母親はずっと咳をしていて、「どうしたの?風邪?」と聞いたら、まさか「糖尿病で風邪が治らない」と返ってきて笑っていいのかどうしていいのか分からなかったことを覚えてます。家に帰りたくなって2人が帰るのが悲しかったです。ぬいぐるみは次の面会までに持ってきてくれることになりました。



11月は途中まで短い日記が残っているので、今度続きを書きます。

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