精神病院に入院した話 その3

前の続きです。全部自己満足で書いてます。

11月は途中まで1行日記があるので、それを元に書いていきます。

11月5日は先生の診察でした。テレフォンカードが高いので、スマホの許可と家族が面会来た時の外出の許可をもらいました。6日は父親と面会でした。何言われたのか覚えていません。とりあえず自由の父親を疎ましく感じました。

7日は病院のプログラムの一環で塗り絵しました。私は先生の許可がないと出来ない、と言われたのですが、その日だけ特別に塗り絵をしました。病院内でやる最初で最後の塗り絵でした。8日はお風呂の日でした。確かその日は金曜日だったと思います。お風呂の日は火曜と金曜なので、お風呂に入るたびに念入りに洗っていたことを覚えてます。火曜日まで長いと日記に書いてありました。

9日は面会でした、父親か母親と姉か分かりませんが、外出したらしいです。一人で外出したいと日記には書いてあります。ちょうどその日は入院してから3週間経ったらしいです。10日も面会に来てくれたんでしょうか。覚えてないのですが、「死にたい」と書いてありました。家族すら分かってくれない、と。そんな偽りの仲良し仮面家族になんて分かるはずがありませんけども。私の味方は姉しかいないような家族なのですから。

11日にやっと一人で外を散歩できるお散歩券が出ました。親友の誕生日でもありました。スマホの許可は出たのですが、まだ家族から受け取ってなかったので、親友の誕生日のお祝いメッセージを送ることすら出来ませんでした。そして先生の診察の日だったみたいです、そこで私はそのときは「軽度の知的」がある、と言われました。後に軽度知的障害ではないと診断されるのですが、ここでは軽度の知的があると言われたと書いてあります。

12日はお風呂の日でした。火曜日だったみたいです。金曜まで長い、と書いてあります。お風呂に入るたびに念入りに念入りに洗っていたことを覚えています。本当なら退院したい日でした。16日から大分に帰る予定だったのです。13日は外出をしました。退院したくて仕方ないみたいです。それしか書いてない日記を見ながら少し笑いが込み上げてきました。でも自分の意志で入院したわけじゃないのでそれはそうだと思います。いつも一緒に行動していた他の入院患者の人たちとも「なんで入院になったのか」「早く退院したい」と話していました。私の母親と年齢があまり変わらない人と10個くらい上の人と一緒にいつもいたのですが、1人は措置入院、1人は私と同じ保護入院で、2人共私より入院期間が長かったです。

14日は脳波を取りました。頭にクリーム塗られて髪の毛がべたべたになりました。先生との診察の時にデイケアに通うように言われていたので、デイケアの見学がしたいと書いてあります。ここでもまたもや退院したいと書いてあります。そう言えば診察の度に退院したいと言っていたくらいでした。それくらい私にとってこの入院は苦痛だったのです。15日はお風呂の日でした。脳波で塗られたクリームを洗い流すのに必死になっていた記憶があります。多分シャンプーとリンスが一緒になっていたので、10回くらい洗っていたと思います。気持ち悪かったのです。その後はジュースの日でした。飲み切らないと怒られるので高いですが小さいサイズのミルクティーを毎回買っていました。季節が季節なので暖かいのしかなかったです。たまたま自販機から出てきたのがとても熱くてなかなか飲めなかった気がしてます。一緒にいる人たちとお話ししながらジュースを飲んでいました。ちょっとした幸せな時間でした。

16日は一人でお散歩券でお散歩しました。近くに中学があるのでその周りをのんびり一人で歩くのは気分転換によかったです。怪しい目で見てくる人は一人もいませんでした。そしてその日は先生の診察日でした。ちょうどその日にデイケアが決まれば退院出来ると言われました。なので私は18日にデイケアの見学に行くことにしました。早く18日になってほしい、と書いてありました。よっぽど退院したいと言うか病院に馴染めなかったのだと思います。

17日にやっとスマホを家族から受け取りました。そのスマホは制限が掛けられていて、Twitterも出来なくて出来ることはLINEと電話くらいでした。安心フィルターをかけてあるので、子供用の検索エンジンが登録されていました。私は少しだけ使えるスマホを大事に大事に抱きしめた思い出があります。嬉しかったです。少し病院の外に触れているような感覚でした。

18日、長時間外出しました。朝の9時から昼の15時まで外出できるので、その時間内でデイケアを2か所見てきました。一か所目は薄暗くて私は少し寒気を感じたので、「ここは嫌だ」と見学後に母親に言いました。もう会っていない叔母曰く私は霊感があるみたいで、信じてませんが心霊現象は割と体験しているのでそうなのだと思いますが、私の身体が一か所目は拒否していました。二か所目は今の心療内科がやっている精神科デイケアだったのですが、すごく雰囲気が良く、変な感じも全くなかったのでそこにすぐ決めました。退院してから通う場所なので、少しでも雰囲気がいいところと家の近くだったので、そこが良いと母親に伝えました。後は必要なものを買いに行ったりして、その日の長時間外出は終わりました。お昼ご飯はラーメンだったような記憶です。

19日はお風呂の日だったみたいです。特に何もなかったと書いてあります。多分決められた時間内でスマホを使っていたんだと思います。スマホが使えるようになってから日記がかなり適当になっているので、私の本質でしょうね。20日はインフルエンザの予防注射でした。私は注射が大嫌いなので、別室でベッドに横になって注射された記憶があります。健康診断の採血でも手足が震えて呼吸ができなくなる私にとって注射は苦痛でした。思い返せば入院中はかなり採血をされてその度に呼吸がおかしくなっていた記憶があります。

21日、これが最後の日記になっています。ジュースの日でした。多分先生の診察の日でもあったと思います。年内に退院できそうと書いてありました。日記はここで終わっているので、また記憶を思い出しながら残りを書いていきます。あまり書いていませんが、日曜日の度に父親は面会に来てくれました。いい父親なんだと思います。私にとって父親は私の人生を歪めた人間なので本当はどうでも良かったのですが、お風呂に連れて行ってくれたりしたので、まあその時ばかりは良い父親、だったみたいです。

11月はデイケアも決まり、退院できる日はまだかと思いながら、いつも一緒の人たちとテレビを見たりお話したりしてました。音楽番組を見るのが好きでした。基本アニメ以外見ない私にとってある意味新鮮でした。

そうして12月がやってきました。12月は先生から長期の外泊の許可を得ていたので家に帰ることが出来ました。母親が妙に優しかったのを覚えています。自分のベッドで寝るのが嬉しくて、毎日お風呂に入れるのが嬉しくて、愛犬に会えるのが嬉しくて、外泊は大好きでした。

とある長期外泊を終えて病院に戻り担当医のユースケとの家族同伴の診察があったのですが、ユースケが体調不良でおらず、看護師さんがまた外泊して来ていいよ、と言ってくれたので外泊しました。その外泊から戻ってもユースケは体調不良で来ておらず、仕方なく病院に戻りました。

とある家族面会の日にユースケはやっと来ていたので家族同伴で診察しました。診察したところ、12月16日で退院していいと言われました。やっと退院出来る、と嬉しくて私はユースケに「本当?」と聞いたらユースケは冗談交じりに「お前退院に対してしつこいからもう退院してくれ」と笑いながら言っていました。めんどくさい、うるさい、お前毎回同じこと聞くからなー、と笑いながら退院の許可をくれて、私はユースケが担当医で良かったと思いました。診察が終わって、部屋に戻り(私は実は部屋移動しており、仲良い人達と同じ部屋になったのです)部屋の人だけに報告して、みんなにおめでとう、と祝福してもらえたのも嬉しかったです。同じユースケが担当医の人曰く、ユースケが一番先生の中で優しく、退院も早くさせてくれるらしい、と教えてもらいました。院長先生が担当医の人は外泊の許可がやっと出た、私も退院したいと言っていました。3人で笑いあったのを覚えています。

私の退院が近付いて来たとある日、仲良い2人が症状が良くなったので3階に移動になると聞かされました。2人は看護師さんに抗議していましたが、2人の症状が落ち着いている、それに今いる2階は症状が重い人専用の階だから移動は決定だと言われており、二人はとても納得がいっていないようでした。1人は退院するまでこの階にいるんだと思ってた、今更移動なんてしたくない、と言っていましたが、看護師さんは決定したのだから移動してほしい、保護室から出れる人がいるから、と取り合ってくれませんでした。私は2人がいないと1人になってしまうので寂しくてその日は2人の前で泣きました。「ひなのちゃんと一緒で楽しかったよ」と言ってもらえたのが嬉しくて、2人が移動になる前日にお手紙を書いて渡しました。2人は泣きながら「ひなのちゃんとお別れしたくないけど、ひなのちゃんも退院決まったから頑張ってね」と言いながら私の手紙を受け取ってくれて、大事にする、と言ってくれました。そうして私の退院前に私は2人の階移動を看護師さんしか開けられないドアの前でずっと見ていました。それから私はあまり部屋から出ることもなく、ずっと自室で本を読んでいました。

私があまりフロアに出てこないことを心配してくれた看護師さん(2人に移動を告げた看護師さんです)が私を心配してくれて、私がぽつんとフロアに居たところに話しかけてきてくれました。「寂しい?」と。私は「寂しい」と伝えました。でも看護師さんは「ひなのさんはずっとここに居るわけじゃないし、もう退院決まってるんだからさ、ずっと入院の他の人に比べたら幸せだよ」と言われました。それはそうかもしれないけど、私はそれでも寂しかったので、それでも寂しい、と伝えました。

退院する3日前、私は他に仲良くしていた年上の男性の方と「2人が移動して寂しいね」とお話ししていました。実は4人でお散歩券を使って近くのコンビニに行ったりしていたので、その人も寂しいと言っていました。その人はシェアハウスが決まったら退院が出来るらしく、シェアハウスを何か所か見学に行っており、いい場所が見つかったと言っていました。きっとその人も退院できたと思います。消灯時間まで2人であと何日だね、とお話ししたりしてました。退院は嬉しいけど、他の人より後に入って、先に退院することに少し罪悪感がありました。

そして誕生日前日の16日、私の退院日になりました。私は朝から看護師さんに「午後に親御さんが迎えに来るから準備しておいてね」と言われました。朝ご飯とお昼ご飯を食べて全て綺麗に片付けて、私は看護師さんに呼ばれて荷物を持って入院していた自分の部屋をお別れしました。フロアに行くと夜勤明けの母親と、心配そうにこちらを見ている姉、それと看護師さんたちと、仲良くしていた男性がいました。他にもフロアに人は居たのですが私は仲良くなかったため、仲良くしていた男性に「退院します、お世話になりました。ありがとうございました」とお礼を告げて、家族と看護師さんと一緒にフロアにあるドアから出ました。やっと退院できる、と心から嬉しかったことを覚えています。

退院前にユースケと家族で診察しました。ユースケは「この子は境界領域知能だから普通の人と同じことはできない」と言いました。要するに私は知的障害にも当て嵌まらず、かといって健常者でもない所謂グレーゾーンだと言うことでした。だから何度も同じことを聞く、自分の思い通りにならないと気が済まない、善悪の区別をつけるのが難しい、と。ちなみに私のIQは82みたいです。境界領域知能は一番生きにくいと言われました。とりあえず私は簡単な仕事で尚且つ障害に理解があるところではないと働けないと言われました。それは退院後に痛いほど痛感したのでそれもまた、別に書きます。

ユースケは退院するときに私に「もう二度と来るなよ、お前めんどくさいから。お前がまた来たら俺は次はカエルの着ぐるみ来て診察してやるよ」と言いました。あれから1年経ちましたがユースケはもう入院していた病院に居ません。なのでカエルの着ぐるみも見れないですし、私も多分入院することはないでしょう。

そうして私の約2カ月の入院は終わりました。退院してから母親は一段と怒るようになったりして、家での私の居場所は2カ月の間に消えてしまっていました。年内に退院出来たのですが、私には色々不都合や条件があります。精神の保健所に登録されていること、自殺未遂などして警察を呼ばれたら次は措置入院だということ。月1万円で生活すること。など。私は居場所のなくなってしまった家で借りてきた猫のようにしばらく過ごしたことを覚えています。

入院は私にとって良かったのか、ただ母親が自分のことで精一杯で私を入院させたかったのかは分かりません。たまに言われる「また入院させるからね」という言葉は苦痛です。きっと母親の自分の都合で入院させたのでしょう。「また入院させる」は呪いのような言葉なのです。なら自分が入院してみろ、と思います。苦痛で苦痛で何度も泣いた私の気持なんか知らないくせに、と。

結局私は20歳を過ぎても自分の人生を自分で決めることは出来ないのです。ずっと、親の言いなりになっていないといけないのです。

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