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Apple Pencilが充電されるまで

おはようございます

これから仕事なのですが、ちょっと絵を描こうと思ったらApple Pencilの充電が切れかけ。ちょっとだけひとりごとタイムへ。

ヘッダーの写真は私が人生で初めて全巻揃えた、大好きな、安孫子三和先生の「みかん・絵日記」の1巻目。実家に全巻ありますが漫画研究のために一巻だけ持ってきたもの。

小学生の頃って、お金無いから中途半端な巻数から買いません?わたしだけかな。みかん絵日記も9巻?とか11巻?とか(うろ覚え)なんか中途半端なところから買った記憶があります。(ONE PIECEも確か最初に買ったの10巻)
1巻を買ったのは多分中学とかその辺。当時はアニメをやってて、それが大好きで漫画を集め始めたんだよなぁ。漫画を集めるうちに知らないエピソードばっかりで、子供ながらにボロボロ泣きながら読んだ記憶があります。ギーさんとか、こりんごとおばあちゃんの話とか、番外編の世良とみどりはちゃんの話とか。

で、大人になって改めて読み直して気付いたこと。「みかん絵日記」じゃなくて「みかん・絵日記」だってこと。わはは。大人になってから気づいた。はっはっは。

あとは、アニメで観てるから漫画を読み直しても、自然とみかんの声が全部TARAKOさんで再生されること。アニメのお父さんはちょっと嫌だったこと(漫画のお父さんはお母さんと同じようなほんわかおっとり空気感だったのに、アニメのお父さんはブイヤベースの回とかちょっと嫌だった思い出が。←全然わかんないですよねすいません)

そして、少女漫画の単行本によくある左端の柱で(作者の想いやキャラ紹介、絵など色々かけるスペース)安孫子先生が結構な苦悩の末にこのみかん・絵日記の前身である読み切り「吐夢(とむ)と不思議な猫」を描かれていたこと。

担当さんとうまく話せなくて電話口で言葉に詰まってしまう、どうにもならない状況だったことや、メンタルのこと。詳細は書かれてませんが、大混乱の中漫画を描き、そして本来であればみかん・絵日記は連載されず、読み切りで終わるはずだった。でもピンチがチャンスになり、連載され、アニメになり、こうやって今も一読者に永く愛される作品になった。のかもしれないというような雰囲気が安孫子先生のかわいい手書き文字から感じたものです(あくまで個人の感想です)

巻末でお一人、漫画家さんではない方へのスペシャルサンクス欄があります。漫画を読むけど描かないその友人さんは、安孫子先生のネームを読んだり、先生のアイデアをひとつひとつじっくり聞いてくれたりしたそうです。これはイメージの言語化であり、漫画を描くうえでとっても大事なこと。先生とご友人は当時は無かった言葉であろう「壁打ち相手」というか「コーチング」のようなものを無意識的にされてたのかもしれません。

漫画について話せる相手、ちいさなアイデアもちょっとこれどうだろう?と気軽に言葉にできる相手も、大事だなとも思います。安孫子先生もおっしゃってますが、独りよがりでは漫画は描けないって、最近身に染みています。自分でも探していこうと思っています。

長くなってしまったのでこの辺で。今日も良い1日を。

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