面白いとは(暇つぶし記事)

ヒットするコンテンツ、面白いとは何か。

売れるコンテンツ、人気のあるコンテンツを作るのはとても難しいことです。
ヒットを連発するクリエイターは実際に存在しますし、結果論としてヒットの理由を後付けするようなことではその理由とかメカニズムを証明したことにはなりません。

定量的に把握ができて再現性のある「面白さ」その秘密に迫ってみようと思います。


今回のベネフィットとしてはより面白さへの理解を深めることできて、仕事や生活を豊かにすることができる。コミュニケーションが生きることと同義であると仮にすれば、面白い話ができた方が良いじゃないですか。何にせよ作ろうとする物事というのは面白くなくてはならないということは間違いないですね。

面白いとは何か
特に面白いと言う言葉というので様々な意味を持たせることができますいろんな解釈があるということですね。
この面白さの正体は分からなければいけません。そうしなくては意図的に面白いものを作ることができません。
序盤はマーケティング的にいうところの「リーチする力」「届ける力」にもそれとか「ポピュラリティ信用力」みたいな、そんな信用が生む面白さを切り離して解説をして行きたいなと思います。

まずは面白さな本質について話を進めていきたいと思うのですが、人間は感情がすべてだと言って差し支えないと思っています。

端的に言うとその理由というのは感情が人間の行動原理だからです。

人は感情という物差しによって行動を決めることは事実、我々が持って論理性というのは発生した感情を具現化するツールに過ぎません、
源泉は感情だという事、人間は感情を引き金ににして考えたり行動したりするだけでなく、感情によって発生した動機を満足させるために論理時に思考したりします。

感情満足させるために考えるということ、そしてその感情を意図的にマネージメントするのが「物語」ということだと思います。


ところでなぜ他人の喜怒哀楽を人は見たくなるのかというと、人は人の行動に大変興味を抱くことは分かっていて、時には人の考え方にまで興味を持ったしますね。
それ自分に全く影響がないことであっても、例えば新聞に犯罪の記事があって「許せない腹が立つ」「一言言いたい」そんな感じになる、自分は全く関係ないのに。


興味深いという心理もありますよねこれ面白いもっと知りたいみたいな。それは興味深いという心理の面白味ですね、これは強烈です、これはですね探したいものがみつかりそうという期待感というものと比例する、もしくは同等のかもしれませんね。

たまに自分が面白ければいいという言葉を聞くことがあります、では物語を書くとして好きなものを書けば商業的には何も得るものはないんでしょうか?面白ければその人はそれでいいのでしょうか?
自分が求めるもの追求できさえすれば面白いと満足できるという人が実際いるんだろうか?


本当に得るもの全くなくて面白いだけ人生にそれだけで本当にやっていけてる人はいるのか?誰かところを共有しようという気持ちが1ミリもないかというと絶対あるはず。
自分以外の誰とも相互作用なしに面白いということが成立するかどうかというのにも疑問がが湧いたわけですね。

「面白い作品」というのは「ヒット作」とか「当たる」とかそういう風に言うくらいだから一般論としては偶然の要素を持つものだと認識されているのだと想像できますね。

確実にいえるのは面白さというのはその度合いを測ることは極めて難しいものである。

売れるもの人気のあるものは当然面白さを含んではいるのでしょうけど、定量的に計測のできる売れた数とかフォロワーの数とかそういうものと切り分けられるかどうかが実は重要なんじゃないかな?というふうに思います。

面白さは見ればわかります、逆に言うと見なければ面白さはわからないですね

これは「面白さのメカニズム」がわかってないという根拠になります、見た後でなら面白さはわかるけれども「こうやって作れば面白くなる」っていうのは分からないということなんですね。
面白さを知っていても理解していないもしくは面白さを意図的につくれないというのはこれね皆さんご承知の通りだと。


で最近のプロダクト、商業的な製品というのは昔とは少し違ってきますね。製品は役に立つことが本分であり、機能じゃないですか

これは製品がおもしろいかどうかとは関係がないし具体的に説明がしやすいものですね。

最近のプロダクトは、面白いプロダクトである必要であるもしくはワクワクしたりドキドキしたり感情が動く必要があるわけです。

現代のプロダクトが便利という言葉から「ライフスタイル」という言葉に変化したと関係がありそうです。


アップルなどはライフスタイルです。
彼らは「機能」や「性能」を売っているように見えますがライフスタイルを売っているとうことですね。

感情を動かす事に注力してたですんです。

今までのプロダクトと最近のプロダクトそこらへんに少し差があるというふうに言えそうです。


先ほど出た、「自分が面白ければいい」と言うものがありましたね。そういうものって「アート」と表現しているんですよ。

例えばデザイナーがいて、全然クライアントの要望に答えてない、それはアートだよと言ったりすることがあったりします。

私が思うにです現実問題アートを実現するのは極めて難しいと思います。

これは何もアートがより難解で次元の高い性質があると言っているわけじゃなく、アートとエンターテインメントみたいなものを切り話すこと自体が難しいことだと言っています。

アート芸術という定義を調べると、表現者あるいは表現物と鑑賞者と出てきます。

要するに「作った人と見る人が相互に作用し合うことなどで精神的感覚的な変動を得よう」とする活動だそうです。
厳密に言うとですねアートの語源っていうのは英語の
「liberal arts(リベラルアーツ)」でざっくり言うと大学で学ぶ一般教養のようなものなんです。知識とか学問とか一般的な技術のことを指すんです。


そのうち「アート」という言葉は「アート」と「テクノロジー」に分かれていくわけですね。
アートのうち実用的なものはテクノロジーと呼ばれるようになる。

それ以外役に立たない創作のことをアートと呼ぶようになったんですね。


言い方を変えると実用的でない技術や学問のような人の手で施されることをアート芸術というわけなんですね。これが正しいアートの理解


したがってアートはテクニックそのものを指すわけでその受け手が自分ひとりでも、誰かひとりだったとしても、もしかして大勢でもいいわけなんです。

逆に言うと誰が誰に対してとか相手の数とアート
定義には入りませんどちらでもいいわけです。
純粋なアートというのが仮もあったとして、アートの定義が誰かに向け入れられるかどうかを意識せず行われる創作行為だとすると、受け入れられるかどうかを「数に限らず排除できるのか」という矛盾が生じます。

相手の数は定義に入っていないので意識せず作れる必要があるということです、従ってアートはアートとして語る以外において「アートはエンターテイメントの手段」としての「技術」ということでしかないと言えます。


一般的な認知としての「アート」ってちょっと違うということなんですねいろんな人がいろんなアートの定義を持ってしまっている状況。

結果、面白いものを作る、例えばそれがアートであったとしても人にリーチすることを前提にする必要があるということです。だからアートという言葉都合よく使われてですね。
私たちの思考先ほど不要なバイアスを与えてしまうことがしばしばありますね。


また面白いものを作る動機としては「アート」すなわち純粋な創作意欲だければ動機とし成り立たないということも言えます。
ここには「何か」もしくは「誰か」との相互作用にある感情というのは必ず関わってきます、怖かったり、騙されたり、悔しかったり、こういう感情を揺さぶるものが面白いと感じるならば、「喜」「怒」「哀」「楽」全て、感情が面白いを支配しているとも言えます。

面白いは決して論理でも物語の構造でもなく言い方を変えれば直接的な影響は感情を動かすことでしか起こらないということがわかります。
したがって、いかに感情をコントロールするかと論理性や構造というのは、感情を動かすための技術でしかないと同時にその論理性や構造物なすわなち技術は、感情を動かすために高度化する必要があることも示している。

特に驚きという感情というのは面白さとの相関が強いそうで、驚きが意外性だという人もいますね面白さの要素としては夢中になるというのも当てはまると思います。

「夢中」とは「目が離せない」とか「集中している状態」をいいますかシンプルに「おかしいから面白い」という場合もあります。
笑えるという状況がそう。

「おかしいってなんだ」

辞書では「普通とは違って笑いたくなるさま。普通とは様子が違うのに気づいて疑わしく思う、変である、変わっている、興味をそそられる、かわいらしい、上手である、おかしき事もあるか」がおかしい使い方によっていいの最上級みたいな時に使うこともあるのでいいことっていうのは語源なんでしょう。


笑っているからいい状態なのではなくて、いい状態だから笑っていると考えるのが一般的でしょう、もしくはそういったふうに人間はできると考えます。
「感情」を動かしてなおかつ良い状態を作ることが面白さのメカニズムを探るヒントと言えます。


良い状態とは何なのか。

思いつくのが健康な状態でしょうかね。健康とは何か漠然として難しいですが一般的には病気でなければ健康であるというわけです。

WHOの定義では「完全に肉体的精神的および社会福祉の状態である。単に疾病又は病弱の存在しないことではない」と書いてあります。
つまり人間にとって良い状態というのは肉体的にも精神的にも調和のとれた良い状態のことを意味しているのだと思います。
また社会的という有機的なつながりを持つ人間関係においてもですね、不足のない故障のない状態であることが良い状態ということですね。


よく心を満たすとか言いますよね。心の不足満たすことが出来れば良い状態に近づくことになるということなんですよ。


例えば「いい状態に向かう=面白い」こういう方程式があってもいいかもしれません。

極端ですけどいやいやそんな簡単なロジックがわけないじゃないと多いんじゃないですか。

でも人間というのは驚くほど共通点を持ってますし、驚くほど単純なロジックによって消費行動を行っていることも事実。

物事を考察する場合は意図的に情報を制限する、もしくは抽象化することが肝要ですので、要するに「良い状態に向かうのは面白いと一旦決めつけておいて思考のベクトルが減らすという感じなんですね。
沢山のパラメータを同時に変化させて結果を検証することはできませんし、どのパラメーターが影響したのかさっぱりわからないと。

これは、たくさんの薬を同時に飲んでその効果を確かめることは不可能であるのと同じですね。

究極的にはこういう問題は1対1の関係で比較する以外にその相関を用いることができません。


話がちょっと逸れましたが面白いと思うシチュエーションを考えてみましょう。

ジェットコースター、ホーラー、怖くて面白いですね。恋愛も悲しい物語も。なんだったら人の不幸なんていうのも面白いに分離できますね、こういった場合面白いという場面は必ずしも人間が良い状態に向かっていない、シチュエーションだったりしますね
これは実害があったとしても、本人は面白いと感じることすらあるんです。

悲しい結末が待ち受けているのがわかっている恋愛とか負けることがわかっている勝負とか。

いい状態だとは決して言えない状況においても夢中になったりのめり込んだりしますそれを面白がっていると表現することはないでしょうけど、心の動きとして面白いと感じているに違いありませんね。

これがドラマとかゲーム、バーチャルリアリティなら面白かったと人間は明確に表現したりします。

先ほどのように現実で知人とか、自身が怖い想い悲しい思いをした場合において面白いというのは表現することはありません。

この違いというのは「モラル」すなわち道徳心がフィルターになって面白いという表現を単に制限してるんです、実際面白いと感じているはずです、面白いというのは常識的に間違っているので。
モラル的に許せないから表現しないというだけのことであって、「面白い」とおそらく感じているんだというふうに思います。

だからリアルもバーチャルも同じ心の動きが起こっていると考えるのが妥当だというふうに思います。

では、これらのネガティブな感情というのは私たちの何を満たしていくという風な疑問がわけですね。最新の研究では恐怖の処理に関係する脳の部位と快感の処理に関係する脳の部位というのはかなり重複している部分があるということがわかってるそうです。

とすれば、なぜそんな危うい仕組みを人間は獲得してるのか、そんな混同してしまいますよね。

恐怖を感じる機能と快感を感じる機能を同じ場所で処理するのは一見合理的じゃないじゃないように見えますが、一つの答えは「快感という機能」にあります

簡単に言うと快感は人間の機能を活性する原動力ですね。要するに快感とは人間の身体機能を一時期に増幅させるためにシグナルです、我々の「意識」特に何かを選択する機能というのは前頭葉の先にあります。デフォルトモードネットワークのこの小さな部位以外でも、それぞれ意識とは関係なく我々の知らないところで仕事します。

簡単にいうと大脳の大部分という私たちはありません。

私たちすなわち意識に対してそれぞれの脳の部位が考え判断して前に押し出してきて計算結果を報告してくれるものを私たちは最終的にこれ判断している、その仕組みを前提に話をするとですね。

この「快感」すなわち活性化が危険な時とか不快な時だけ起こると仮にすると、ほとんど機能しないことも分かります。

自分を取り巻く環境というのは日々変化しますから。
今楽しいと思っていることが明日は危険な事とか不快なことに変わることだってあるわけなんですね。
こういった今まさに危険なのか楽しいことなのか。実は判断するのは私たちに意識であるこの前頭八が行うべき高度な処理なんです。

例えるなら会社組織で会社を揺るがすほどの大ニュースが入ったつするじゃないですか。

これ、役委員会に対してニュースの大小にかかわりなく、その担当部署が独自の判断でこれは危険なニュースである、これは不快なニュースである、これはいいニュースであるみたいなことを判断して危険であるやつと不快であるニュースだけを役委員会に伝えるとどうなるでしょうか。

本来大きなリスクを伴う危険を知らせるニュースが、役委員会に伝わらない事態が起こり得ることになりますね。

したがって良し悪しにかかわりなく、大ニュースは快感として刺激的に「役委員会」すなわち「前頭野」に伝えられる仕組みが備わっているというわけですね、とにかく刺激は全部渡してくれた方が安全な理由ですね。だから一緒になっている。



ここまでで面白い、もしくは面白さの作られるメカニズムの一部はなんとなくわかりました。

でもいまだに何が私たちにとって刺激的である面白さの成分なのかっていうのはわかってません。

ただ料理なら塩コショウだけでなく甘みを生み出すアミノ酸みたいな成分がある程度わかっていてそれをある程度計画的に合成すれば美味しくなると考えるでしょう。

料理においても、未だに新しい料理体験したことのない旨味みたいなものが日々生まれていますよね。

そういうことを考えるとコンテンツにおける面白さと同じようにも思います、料理だっておいしいものを作るのは難しいんだということが分かりました、具体的にはメカニズムとその関係は分からないまでも、その面白さやおいしさの成分のほとんどはセオリーのような形である程度の再現性が維持していますで私たちはそれを「型」だとか「レシピ」によっておおよそ常に面白いものを作ることができるようになっています。しかしこれは私たちの知る物理学のように、「成分が確実にわかって面白みを完全に再現する」ということとは少し違いますよね。

面白みが料理と同じくその成分のみならず、成分の組み合わせにおいても出来上がりが大きく異なりますね。

同じ成分使っても組み合わせの仕方次第では味なんて全く変わり、入れる順番でも違い、従ってその組み合わせは数式でくくることができないほど複雑、天文学的です。

何よりその成分とやらを見いだすことそのものが大変で、その成分が抽象化されているんで意味が少しずつ変わってしまいます。人によって、もしくは時間によって。

とにかく現象を言語化するという作業というのはとにかく大変だということなんですね。

現代においては人間の直感とかセオリーになどに頼ってきた「面白さの構築」を物事の相関のみで「スコアリング」する技術が発達してきました。

要するに面白さの成分と組み合わせで計画的に面白さを作ることができないので、もう面白さの成分が抽出とかその組み合わせを探すのを諦めるという手法ですね。

それを安易に諦めるって言うのがアイデンティティという言葉ですね。
膨大な視聴記録とか行動記録を自動的にコンピューターが収集して、とんでもないサイズの記録を機械学習によってを抽象化します。


この場合抽象化といっても人間にわかる言語になるわけではありません。

人間が面白いという行動を取った時にどういったコンテンツをその時見てるかなとか。

その前後でどういう行動を取っているかその後どういう変化がその人の行動に現れたか?みたいなものを人工知能が人間の行動における特徴量を見て学習します。

抽出するということです、さらにはその学習結果から得られたさまざまなパターンをさらに比較検討たりもします場合によっては「遺伝的アルゴリズム」によってわたしたちが今まで試したこともないさまざまなチャレンジまで行って検証してしまいます。

「遺伝的アルゴリズム」というのは与える刺激を少しずつ変化させてより多くの情報を獲得する手段の一つですね。

これらの手法のいいところっていうのは人間では不可能な複雑で高度な予測が行える点にあります。

反対に面白さとか成分や組み合わせを言語化することはできません。人間が分かるようにはなってないです、要するにコンピューターによる「感」のようなものになります。

したがってこういった機械学習などにより抽出した面白さの成分というのはコンピューター同士で共有したり、転移学習のような利用はできても人間と共有することはできないものでもあります。

「転移学習」というのは日本語が使えれば英語も勉強数の短くて済むよってやつですね。


コンピューター同士ではできるものは人間と共有することはできないものでもある、ということですね、そしてこれらの手法というのはすでに一般的な商取引とかsnsで多く実装はされています。

snsはその人の行動とインタラクション反応からその人の面白みとコンテンツの相関を見つけ出して、今この人がどういうものを面白いと感じそうかを計算によって割り出しています。

先々はその人の症状とか言動、息遣い、心拍とか、いろんなあると思いますけどそういう行動をあらゆる方法で抽出して、最終的に人間にメカニズがわからないんだけどその人の面白いと思うものを的確に言い当てられるようにはなる。

だから作ることもできるようになるということです。

これを一見、人間のアイデンティティを必要としないあるいは奪われるように見えるかもしれませんが実はそうでもありません。

世の中をコントロールするのは常に人間側です、相対的に見て機械が人間をコントロールしているとも言えなくはないんですけど、「コントロールしている」とも言えるというだけのことです。


我々が主観的に見たときに我々がコンピュータをコントロールしている事実は変わりません、人間には面白いものを見たいという欲求がある一方、人間に対して面白いものを見せたいと言う欲求がありますね。

この人間を持つ面白いものを見せたいという動機そうなものを機械が奪うことはありません、だから全然問題ではないと言ってるんです、逆に機械が動機を仮にもってしまったとあるかもしれません。

でもそれは知ったことではありません。


勝手にやってればいいんです機械が、したがって主観的に見れば機械は私たちが作りたい、見せたいと思い、捜索する行為を「増幅強化」するためだけに存在するということがいえるというふうに思います。

「たくさんの人に共感してもらいたい」もしくはたくさんの人を感動させたい、要するに感動をコントロールしたい、その創作を維持するための収入がほしいとで面白いを作る動機っていうのは様々なものが存在します。

そしてこの動機に共通して言えるのはインストラクション(interaction)すなわち相手の反応が面白さやコンテンツの価値を決めるということです。

これしかないです。

反応の強さやニーズ以外に定量的に表せるものがほとんど存在しないこで、インタラクション自体が面白さの本質と言ってもいいと思います。

ちなみに反応の強さはお金で表せます市場にどういうアプローチをするかみたいなマーケティングによる作用もこれ含めて面白さそのものだと言って差し支えないと思います。

新しいタイプのマーケティング解釈としては、インタラクティブ、レコメンド、フィルタリング、こういうようないろんな技術を背景として多くの人にコンテンツをを届けるから、響く人に届けるみたいにそういうマーケティング解釈が実は最近成果を上げてきていたりしますね。


で大抵の作者の創作目標みたいなものは、ターゲット見てもらいたい人に届く面白い話です。

そのためにより強い快感を作る作業と届ける作業マッチングなどが両輪で面白い話を作るということになるのだと思います。

で話は戻りますがより強い快感をもたらす、ネガティブな状況こそが私たちを満たしてくれるはずです。

刺激もたらすという話でしたからね、そしてその満たされるものは安心安全健康だったりするわけですが、驚きや快感、強いアラートが起こっているのにですね。

また私達は生きていること自体が相対的に私たちに安心安全健康、すなわちいい状態をつくっていると考えるんだと思います。

ネガティブが我々の心を満たすその理由としてはネガティブなんだけど、でも私はまだ生きているって言うのがポジティブということですね。

結果、驚きや快感のような強アラートほど面白いという事になるのかなという風に思います。

ここまででヒットするコンテンツとは面白さで決まり、その面白さとは誰かに届いてなおかつリアクションがあるものを面白いと表現できることが分かりました。

ここまで話して何なんですが結果的面白さの成分を言語化するというのは現実的ではないということも分かりました、とすれば、面白いコンテンツを作る上でできることというのは、セオリーとか型のような経験的に生み出されたロジック利用するか、
人間の行動原理をもとに ab テストを繰り返すような教科学習を利用するかの二つになりました、でここから実践的なセオリーとはどんなものかについて話をしてみたいと思います。


今回ですね参考にさせていただいた今井明彦さんという方が書かれた面白い物語を作るにはという本をご紹介しておきます。

この本の主たる主張というのはどんでん返しが面白さを決めるという内容なんですが、面白い物語かどうかは実際に書く前に決まっているんだということなんですね。

要するに落ちから作りなさいということが書いてあること、また物語を書き始めるのに必要になる準備とか面白さを実現するためのセオリーなんかもわかりやすく書かれていました。

その内容をご紹介しながら話を進めていきたいというふうに思います。

したがってここからは実践編放ったところですかね。


この本はドラマや物語に限らず商取引とかもの創作においても共通点があって大変参考になります、セオリーが重要な理由についてます書かれていたのですが、セオリーというのは何も楽をするためだけにあるわけでありません。


セオリーというのは型を生かすことであって先人が試行錯誤を重ねた揚げ句に発見した法則のようなものですね。特に創作物においてはオリジナルであろうとするあまり人を模倣したり学問や方法論に頼ること自体を嫌いがちなんですね、


なんていうかフィーリングが大事であるということと論理的であるということをそう反することであると考えがちなんですね。

クリエイティブには言語化できないような部分があることは確かではあります、しかしフィーディングというのは言語化できないものを形にするための手段でもあります。

フィーリングとは本来必ず言語化し完成度を高めてから搾り出すようなものなんです、言語化を積み上げてきた人にしか数式を超えたフィーリングというのは生まれません。

フィーリングとは思考の帰結であってフィリング自体から何かを生み出すことはできないと知っておかないといけないですね。


そもそも創作の楽しさとは何でしょうか?という話なんですが例えばその絵を書いて楽しいのなんで?

絵を書く理由というのは何かを記録するものであったり楽しませるものであるはずですね。

好きとか嫌いとかで捜索している場合あるんですが、「これが好きだからこれを作る」みたいな。


この好きとか嫌いと言うのもなんなんだと、この場合私が好きなもの、即ち愛してやまないものなのかもしくはその創作、例えば絵を描くオペレーション自体が好きなのか、ひたすら文字を書いたりこう言うオペレーションに没頭するような類の好きなのか。

しかし自己完結する好きというのと捜索を行う好きは少し違う気がしますね、とにかく常識を知ることからしか捜索というのは始まらないと私は思っていますし、それを度返しするメリットは全くありません。

常識=型であると捉えると分かりやすいかも知れませんけど、尺度を持たない創作っていうのは物理的に不可能なんですよ。

そもそも、それを何とか言葉で押し抜けようとするというのが無理がある。



ドンデン返し。


これはですね物語の大前提だそうです。

恋愛、ホラー、サスペンスドラマだけじゃなく、論文や会社でやるプレゼンテーションとかにおいても、起承転結でもどんでん返しを基準とした構成になってますよね。

で人はどんでん返しを読みたいがために小説を読むそうです。要するに何に対しても驚きを求めているということなんですよね、あと期待通りの結果が欲しいのは人間ですね、人は薬がどんなに苦くても文句言わないんです。

けど出てきたケーキが期待しているよ甘くないと怒り出す生き物だそうです。


これは確かにと思いました。


あと、信じていた世界が一瞬で大逆転する衝撃であるとか、ドラマとは葛藤のことであるとかそういうことも書かれてました。

葛藤が重要だけれどもその葛藤は見た目ではわかりづらいじゃないですか、なので複数の登場人物の対立にそれを持ち込んで葛藤を表現するのがセオリーだそうです。

これも納得ですね。


このどんでん返しの構造、なんですがドラマチックとはなんだということなんですが、葛藤とはですね人と人とが譲ることなく対立することで、争いとかもつれとかがあります。

心の中に相反する欲求が同時起こって例えばケーキを食べたい、いやでも太るから食べられないと、こういう相反する欲求が同時起こりそのどちらかを選ぶ、そこで迷うこと自体が葛藤ですね。


ドラマとは主人公の葛藤から生まれるそして主人公が他の登場人物と葛藤することで生まれますということですね。


なので葛藤を対立に当てはめてみるのが良いそうです、そうすると主人公が他の登場人物と対立することでドラマが生まれるわけですね。


で葛藤とは端的に言えば異なる意見の中で自分の選択に悩むことですね。

対立こそ物語の推進力だと言われていました。



あと情報を隠す、伏線ですね。



伏線となるイベントっていうのは読者に気づかせたくないですねそういう場合、人同士のやりとりや対立に目を向けさせてしまう、それもコツだそうです。

あとストーリーの基本形ってのがあるそうです。ストーリーというのは目的と障害物だと。

目的とは主人公がやるべきことであり主人公の存在価値そのものそしてオープニングではできるだけ早く目的を明確にしてあげることが大事です。

主人公は目的に向かって全力であることも必要で主人公に苦難をしいるのが定石だそうです、要するに障害を与えるということです、車に例えるとストーリーというのはいいエンジンとものすごい悪路を用意するいうのがセオリーですね。

障害物とは抵抗のことですよね、抵抗感があるからこそ相対的に前進を感じられるというわけですね、要するに目的を達成したい主人公がそれを邪魔する敵と戦うっていうのがセオリーなわけですね。

で主人公の目的は「欠落感」だそう。

主人公の目的決める、それを決定するトリガーとなるのは欠落感。

したがって主人公一番大切にしているものは何かとかを考える、それを主人公から奪い取ることでそれが目的になって主人公が動き出すということなんですね。


この欠落感とはですねこの物語の世界でこれだけは無くなったら困るという大切なものがいいというふうに書かれてました。

次に主人公の成長について。

成長をどう表現するかという話ですけど、これ二度同じ選択を主人公に迫るといいそうです。


主人公は2回選択するわけです、それによって主人公の成長を表現する、最初の方の選択とどんでん返しの後の選択を変えるわけですね。


この落差によって主人公の成長を表現するっていうわけなんですね。


成長のきっかけはですね物語の中で他人の指摘が効果的らしいですね。


誰かに指摘されるか誰かの行動をきっかけに目覚める的なという感じですね。
主人公は自分の未熟さにか簡単に気づいちゃいけないんですね、それではね障害と呼びません。


主人公には思いっきり恥をかかせる痛みを伴うことによってのみ、読者も主人公の気持ちを共有できるそうなんですね。

同じ経験、同じ悩み、胸の痛み、同じ辛さ、を感じたときに共感というのが生まれる。

成長とは何かということなんですが、時間の経過とともに能力が高まることですね、かつてできなかったことができるようになることですよ。

成長の3台要素というがあるらしいんですが

「判断力」「行動」「感情」

この3つらしいのですが、この要素を成長させればいいということになりますね。

「判断力」
思考、拘り、信念、信仰、美学、哲学、価値観、態度、見識、それを成長させる。

「行動」
決断、選択の能力、勇気、行動そのもの意思決定を描くわけですね。

「感情」
喜怒哀楽や恐怖、感情的反応を変えていくことで表現する。

要するに知恵と勇気と人間性のどれかをいったん欠落させておいてですねその欠落した部分を成長させることによって表現するということですね、例えば「行動することを奪われた刑事」これは危ないデカとかでもバンバン打ちまくってたのに、お前ら謹慎だ!みたいなんでもう全然何もできないみたいな、それが何かで克服していってまたバンバン打つわけです、走り方もだんだん強くなっていく、こういうのが「行動をすることを奪われた刑事」

他だと「信念のかけた政治家」
信念のかけた政治家がお金貰えるからといって適当に政治家をしてたが、信念を取り戻していくストーリーとか。

感情を失った音楽家

とある音楽家が力なく無感情に弾いていた、
だけどやっているうちにだんだん感情を取り戻していくみたいな。

まぁそんな感じで、何を成長させるべきなのかということなんですが主人公はあらかじめ失われている魅力を取り戻していき、理想像に近づいていくというストーリーなんですね。
例えばおバカさんは深く思考するようになり、臆病者は度胸と勇気を見つけていく、冷酷だった人は泣いたり笑ったりできるようになっていくとそういう感じのストーリーとウケるんですよ。

とにかく絵にになる行動を取るのも大事だと言われていました。意識や精神というのは表現しにくいですね、しかもそれを行動として表すことでしか映像作品は生まれません。

従っがって主人公の行動だけを描いてその心理は推して知るべしと、そういうふうに書くのがいいそうですね、なるほどこう主人公は思ったなとかだからこの決断をしたのかと考えることそのものでわれわれに強い共感生むのでしょうね。

主人公の行動と選択によってそれを描くわけなんですが行動を決めるわけなんですが、逆方向からの4ステップというのが書かれてました、これはですね主人公が物語の中で出会う危機をまず考えるぞうです。

その危機を脱するために必要なものを考え、選択した要素の対局とは何かを考え、その2つの要素を具体的な行動として表現するそれと主人公にフラッシュバックさせる、要するに成長前の説明というのはあまりいいことじゃないですが、サブキャラには効果的かもしれないな、とは書いてありましたけどね。

でマズローの要求段階というのはありますが世の中で起きる事件にはだいたい動機があって、むしろ「動機こそが事件を生む」といってもいいわけですね動機は欲求であり、欲求はアクションのきっかけとしては非常に扱いやすいということなんですね、欠如を埋めるのが欲求ですね満足しない求めるものが欲望だということですね。

他人の幸福を模倣したいというのが欲望なのかな、それとか欲望は欲求をシステムを利用して私たち自身を騙すというふうにも書かれてましたね


型を知って型を破る

型は他者との共有であり表現そのもの、型とは特徴をとらえて

抽出する行為でもありますね抽象化というのは物事を簡単にするだけのものではありません、情報を整理して扱いやすくするひとつの手段でもあります情報扱いやすくした結果ですよ、それが型なんですけど新たなものが初めて生まれるということにもなります人は方を知ることそのものがリスクになると考える傾向がありますね。

方を知ってしまうことで独自性が失われてしまうと勘違いしがちなんですねこれ。


どんでん返し
物語の流れや予測を強烈に共感するまで一旦引き上げてそれを超える新しい驚きを提供するとどんでん返しが強烈なものになる。

このどんでん返しのパターンが10タイプあると思うんですねまずは目的に仕掛けるどんでん返し、


花咲か爺さん

ワンちゃん何ココ掘れワンワンでコバンが出てくるみたいな、それを見てた隣の爺さんがその犬を奪ってその犬にほらしたけどゴミしか出てこなくて怒って犬を燃やしちゃうんですよ。

で、花咲か爺さんはもうしょうがなくその灰を取ってきて木にかけたら花が咲いたんですよね、

とにかくそれによって良いことが起こったんですよね。

でそれって、どこがじゃあどんでん返しなのと、じいさんのワンちゃんが奪われたわかりましたね奪われるんですますここで目的が生まれます、じいさんの目的はワンちゃんを奪還しようと思ったができなくて死んじゃったかと思ってたんですが

生きてはいなかったけども機能は生きてたわけですワンちゃんが持ってた機能、要するにメソッドというのは小判だったですね

別におじいさんはそんなこと思ってませんだけど小判を掘るのがワンちゃんの機能だったわけですよ、だけどその機能がなくなったんだけどワンちゃんが灰になって、帰ってきてでもなんかそれでいろいろやったら花が咲いたとか、そういうまた機能が復活したわけですね。
そこがどんでん返しように見えるんですがこれは意外な結末であってどんでん返てはないということですね。
でこれどんでんがえしと意外な結末というのは両方最後で起こるとこれ落ちというそう


もう一つが幸せの青い鳥、これはですね青い鳥会いたいなぁと思ってたら近くにいた鳥が青い鳥だった、みたいな事ですねこれはですね目的や遠くにあると思ってたら実は近くにあったよということがどんでん返しなんですね。

あとは敵に仕掛けるドンデン返し
敵といっても色々あって、これを3匹のモンスタードラキュラ、狼男、フランケンシュタインこれ表現してありました、本当の敵はこいつだった的なのがどんでん返しがセオリーなんですね、でこの敵ってなんだということなんですが敵とは人間が戦って克服すべき対象のことです、だからものであったりモンスターである必要もなく、いろんなものが敵として存在しうるわけですね。

したがって、開くとも限らないわけですね人間にとって意義ある戦いというのは、恐怖への抵抗であるそうなんですね目的を追う主人公がそれを邪魔する敵と戦うことになるわけです。

ここで先ほどの3匹のモンスター、主人公の外部からやってきた存在がドラキュラです、主人公の内部に巣くう制御不能な存在というのが狼男。

主人公が行った悪事が生み出した存在がフランケンシュタイン、でドラキュラは主人公の意思とは全く関係なく世の中に存在してます。

オオカミ男は主人公の中に潜んでいて自分自身です、主人公のコントロールがきかない存在です。
フランケンシュタインというのは主人公が意識的に犯した悪事が原因で生まれてきました、こういう3つの種類があるわけです。

このドラキュラというタイプの敵にはですねまず自分勝手な動機が存在します、ドラキュラは自分勝手です、たまたまそれにて貴方する相手が主人公という図式です、要するにシンプルに倒すためだけにいる時です。これがドラキュラタイプこういうパターンというのは勝てばスカッとしますね、絶対悪みたいですね、ただし気を付けないとそこの浅い物になってしまいがちだそうです、このパターンは、これをうまくやるためには一度死んだと思わせるテクニックがあるんです、とのために早い段階で付箋を敷くことが重要だということなんですね

でオオカミ男はですね本当の自分、サイコとかと精神的な錯乱とか寄生虫とか憑依みたいな他の人格によるの乗っ取り、催眠術、薬物投入、打者からのコントロールとかですね。このパターンでは主人公が自殺することも多いですね、自分だから、そういうストーリーに設計されることも多いそうです。
フランケンシュタイン、因果応報の象徴ですね自分が犯した罪が生み出した驚異なわけですからでここから。

このどんでん返しにこの3体のモンスターを当てはめてみます、というのはどんでん返しですから a と思っていたら b だったっていうことでしょう。
どんでん返し、ここに今のモンスターを当てはめるそうです、例えばドラキュラだと思ってたらドラキュラだったというパターンとか、オオカミ男だと思っていたらドラキュラだけ、こういう感じで9つ敵の作成が可能なんだけど今のを使ってストーリーを簡単に作ってあったんです。

例えば主人公は他には変え難い大切なものを持っている、主人公の周りから大切なものが失われる大事件が起こります。

大切なものを奪った敵を探し出す必要が出てきます、ます大切なものを取り戻すために主人公は立ち上がります。

急がなければタイムリミットがやってきます、主人公は偽物の敵を敵だと思い込んで追い詰めていきます、さまざまな障害が主人公の行く手を阻みます。

ところが追い詰めた偽物敵は敵ではありませんでした。

そして本当の敵がその後姿を現します。

本当の敵は強烈な要求に突き動かされています、タイムリミットは容赦なく迫り窮地に陥る主人公。

主人公は窮地から脱し、ついに本当の敵と対決することになります。

そして意外な結末を迎えます。

言い方だけですがそういう感じですね、これに当てはめれば、面白いストーリーができるいうわけなんですね。

敵の意外な正体の設定についてなんですけどノーマークだった人物が最後の最後で主役に躍り出るっていうパターンもあるんですね、またこの時、複数のストーリーラインを作ると効果的だそう。

これは定石だそう、例えば主人公が目的を果たそうとするストーリーライン、主人公が敵と戦うストーリーライン、主人公が変化するストーリーライン。

このストーリーラインが交錯する時にどんでん返しや落ちが発生するといった具合なんです。

意外な結末とどんでん返しが同時に来るとオチになるということだったんですね。

伏線と平行線というのもあるんですね、伏線にはですね偶然が必要ですが多くはあんまり偶然を入れられない、だからこういう場合は偶然を必然にする。

あらかじめのルールとか仕組みとか世界観を入れることで伏線を隠すということですね、当たり前にしておく、これがそのルールだったらその世界観だったら誰不思議と思わない。

だってその世界の常識なんですよそういう形で偶然を必然としてを使って伏線を隠すということなんですね。

さっきの平行線について、でっかい伏線のことだそうですね。

ずーっとストーリー通してある伏線一つの事件2つ以上の視点から見て進行することで、主人公の行動と同時に起こっている裏の出来事カー迫りつつある危機が分かるようなということですね。

例えば的側からの視点をずっと少しづつ描くそれが伏線として作用するようなものを平行線ということなんですよね。

で他にもたくさんこのノウハウというのが書かれていたのでご興味がある方はぜひ読んでいってもらいたいなと思っています、これは相当役に立てるんでここまでヒットするコンテンツの面白さとは何かについて考察してみたのですが、面白さとは商取引とか人と人その総合環境を含む包括的なものであることが分かりましたね。

数や信用が面白さを決める側面もあるので人に届ける手段も含めて面白いを考え直さなければいけないということも感じましたね。
受けての姿勢、そういうものも面白さに影響するということもわかりました、そのものを面白いと思ってみるのと全くそう思ってなくてみるので全然受け取り方が違うわけですよね。

面白いと思うにはですね面白いと思ってみることもしかを見せることが重要であるというわけ、とするならばですよ創作物として面白いのに届ける力入らない場合は面白いコンテンツを作れないのかと、人に届けるっていうかとても煩わしいさぎょうですね捜索しながらリーチも考える、創作を阻害する、制作者としては排除したい部分一つでもありますね youtube はこういったマーケティングの作業を自動的に行うプラットフォームですね要するに新しい創作手段としての youtube というのはとても魅力的でもありますね、これらの新しいサービスやテクノロジーはですね私たち新しい面白いを生み出していくでしょうね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?