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丼にあの親指はもう入らない

当たり前のようにそこにずっとずっと永遠にある、そういうものがこの世の中にないことは分かっていても、人はそれを忘れたかのように過ごしてしまう。大事なもの好きなものが当たり前にそこにある、そんなはずはないのにおざなりにいい加減に扱ったりする。それで、無くなってその時はじめて後悔するというのが人間なのか。常に後悔しないように何事にも接したい。先日、このことを再認識させられる事柄に遭遇した。

大学を卒業して様々あった後に私は現在の会社に勤めたのだが、勤め先は山手線目白駅が最寄り、勤め始めてから気が付けば20年程が経過している。その目白だが、働いていて困るのは昼飯である。この目白には短い時間でささっと食べられるような店が非常に少ない。勤め始めた20年前にあったマクドナルド・松屋は撤退、駅前の立ち食い蕎麦屋すら閉店。日に日に選択肢は減っている。現在、私が昼利用する店はコンビニを除けば片手で数える程しかない。その中に目白の丸長というつけ麺屋がある。

この丸長は姉妹で営むつけ麺屋で、目白にて勤め始めてからずっと利用している。20年間、少なくとも週に1回、若い頃は週5回という無茶もした。そんなに通う店なので注文などは無言で通る。いつからか何もいわずとも、腰を掛ければ、いつものものが提供されるという具合になっていた。そんな中で、ある週明けの月曜昼に丸長へ向かうと、シャッターが閉じられ『都合により、しばらくお休みさせていただきます』という張り紙。

しばらくというのはどのくらいなのか、まさか1か月、2ヵ月休むなどとなるのではないか、もしくはそれ以上もあるのか。昼飯に乏しい目白、丸長が休みとなるとまともなものは食べられない。これでは痩せてしまうではないかなどと考える。そういう中で突然の訃報を聞くこととなる。丸長を営む姉妹の妹さんの方が突然亡くなられたということを知る。最後に目にしたのは張り紙が張られる前の週の月曜、暑さが出始める梅雨の終わり頃だった。その時はつけ麺を食べながら、「7月,8月になって灼熱の日の丸長は汗が噴き出るだろうな」など、そんなことを考えて食べていた。そして、私は思うのである。こんなことになるなら、もっと集中して大事に噛みしめておけばよかったと。心が痛いという想いと同時に好きなものを真剣に食べていなかった自分への強い後悔の念、私はそういうものに当分の間苛まれた。

全てのものはそこにあればそれが当たり前のように感じられて、丸長もずっと目白にあると錯覚していた。しかし、20年食べ続けていたものが突然無くなってしまう、こういう出来事によって「あることが全然当たり前でない」、ということを再認識させられた。普段生活しているとこういう気持ちはつい忘れてしまう。また、こういうものを大切に思う気持ちを維持することは中々に難しい。しかし、私も相応に長く生きてきて、もう大事なものには常にそれ相応に接しなければならない歳に至ったと思う。大事なものを失う、または自分自身がこの世からいなくなる、現在に至って、これはいつ起きてもおかしくない、当たり前の事象なのだから。

幸いに、現在目白の丸長はお姉さんによって経営が再開されている。当分の間は丸長のつけ麺をまだ食べていられる。そして、私はこの経験の後から常に後悔を残さぬように毎度集中して噛みしめてつけ麺を食べる。

しかし、もう妹さんの調合したつけ汁は味わえない。つけ汁の丼、その中のつけ汁に時に浸かっている親指、昔その浸かった親指を見ていて、その親指から何か得たいの知れない何かが染み出して丸長のつけ麺は旨くなっているんじゃないのか、などと馬鹿げた想像をした日のことを思い出す。非常に馬鹿げた想像なのだが、それもまんざらではない。妹さんが出すつけ汁と現在のつけ汁の味は間違いなく違う。同じ材料で作っているはずだが、とにかくも少し違うのである。それは調合する人が変わった為の少しの分量の差、そういうものかもしれない。しかし、事実として変わってしまった。現在の汁が駄目ということはない。少し違うものの十分に旨い。とはいえ、私の舌は妹さんのつけ汁を結局忘れておらず、未だに求めているのである。

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