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芽むしり仔撃ち

何か一つに偏るのはよろしくない、この理由から先日まで嵌っていた志賀直哉を切り上げて、他の誰かに移ることとした。次はだれにしようか、折角なので読んだことが無い作家がよいのだが、読んだことの無い作家などは数限りないほどにいる。そういう訳で宛てもなく迷っていると3月頃に大江健三郎氏が亡くなられる。そういう訃報など目にすれば、大抵の人は折角なのでとなるのではないか。無論、自分などはそういう類から漏れない。ということで今回はその著書『芽むしり仔撃ち』。

読んだその中身はじとじととしていて陰気でよろしくない。また、描写など一々不潔で嫌になる。特に性表現などは不快以外の何物でもない。そして、どこをとっても回りくどく酷く読み辛い。大抵のものは読み進めていけば、その内に慣れるものだが、これについてはその読み辛いさ、煩わしさが一向に消えることがない。

話の内容は戦時中に感化院(現在の児童自立支援施設)の少年達が疎開、その先の農村にて様々起こるというものだが、その内容の何が面白いのか、どこで感情を動かされるのか、自分には全く以て分からない。コロナなどはとうに終わっているのにマスクを外せない人が溢れている日本、マスクを外すのが世界一遅い、そういう日本という社会の歪な同調性。少しでもはみ出るものがいれば、それらを攻撃・排除せずにはいられないという閉鎖的な人間が跋扈する日本社会。更に、はみ出すものに対しての陰湿さ。そういうものに物申すなら、それはそれでよいが、その方法がこれなのかと私などは思ってしまう。

ノーベル文学賞を受賞した大作家のもの、これも相応の評価を受けた作品であろうから、これを楽しみ、心動かされた人が多くいるはずだが、そういう人達とは一体どういう類の人達なのだろうか。私にとってこれは正直難解過ぎた。やはり、ノーベル文学賞などは凡人には難しい。前にガルシア・マルケスの『百年の孤独』を読んだことがあったが、あれも意味不明な部分が多かった。多少印象には残っているものの何が良いのか、どこを楽しむのか、そういう根本から分かりかねた。そして、そういう意味では今回の大江健三郎はガルシア・マルケスを越えているようにも思われる。

大江健三郎を読むと決めて、普段利用する最寄り駅の書店に行ったところ、そこで扱われていたのは、この『芽むしり仔撃ち』、『見るまえに跳べ』(表題を含む10構成の短編集)、『個人的な体験』の三冊。今思えば、もっと慎重になればよかったと思う。私はあの時その三冊を纏めて購入してしまった。『芽むしり仔撃ち』を読み終えて、私は正直後悔している。他二冊、買ってしまったからには読まなければならない。非常に憂鬱である。

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