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温故知新と不易流行

喜怒哀楽の中でも、私の場合は意識的に「楽」に重きを置くことが多く、特に笑いに関する感覚が合うかどうかは価値観のバロメーターでもある。

落語と音楽の融合として記憶に新しい、米津玄師の「死神」

アジャラカモクレンテケレッツのパー
頭から離れなかった。偶然みつけた小三治師匠の「死神」は、新宿末廣亭だった。こういう形で古典落語を召喚する米津玄師の着眼点に感服した。

以前から落語を観たい気持ちはあれど、どういうわけかずっと機会がないままだった。結局、なにか絶好のきっかけでもなければ所詮行動になど出ないもので、ようやくそのタイミングが訪れた。

前評判の良さは心得ていたものの、今回に限っては予備知識ゼロが功を奏した。いずれの演目も、まっさらな状態で浴びたことで、下手な固定概念が邪魔をせず、気づいたら没入していた。

無知にもほどがあるが、落語にも上方が存在することすら知識がなかった。時そばは時うどんからの移植であると後に知った。今なお語り継がれるのは、良質なものに対する寛容さあってのことだろう。極端にかけ離れたものでも、敷居の高いものでもなく、より身近な生活に宿る文化だった。

技術の発展とともに、視覚的に得る情報量が増えた。見たままを認識し受け入れることは、ほぼ毎日、ほぼ無意識に行っている。それに伴う想像力の欠如は、自分を含めて否めない現実でもある。

噺家さんの話術はもちろんだが、受け取る側の想像力も欠かせない。昨今の情報化社会と個々の嗜好を重んじる風潮は、クラスメイトの9割がドリフを見ていたあの頃とは違う。私にとっての共通の話題をきっちり網羅していたのが笑福亭笑利さんとヤマサキセイヤによる演目だった。

「キュウソネコカミ」そのものを取り入れた創作落語に、自然と情景が浮かんだ。自分の中にある歌詞の世界観、そこに笑利さんの抑揚が拍車をかける。まるで映画でも見ているかのように。

想像力だけでここまで楽しめるものなのか。ここまで気持ちをつかまれるものなのか。絶妙なタイミングで演目としての「冷めない夢」が楽曲としての「冷めない夢」につながった瞬間、それまで笑ってたのが嘘のように心臓がギュっとなった。

それとは真逆の裏切りは、本来なら見せないであろう部分をこれでもか露わにしたこと。つくづく固定概念は覆すためにある。ただただ抱腹絶倒。

想定していた笑い、一人芝居以上に、最小限の表現を用いてオーディエンスの胸中に侵入する最古のエンターテイメント。なるほど、だからこその弾き語り。音楽における最小限の表現という意味では、かなり近い位置づけなのかもしれない。

落語もライブもナマモノ。その場で起こる化学反応然り、息づかいや臨場感、集ったお客様も含めて、すべてが演目の一部。それは今に始まったことでもなければ、我々が求めるのもごく自然なことで、根本的には同じ感覚から派生しているのかもしれない。次があることを疑わないし、どんな相乗効果が得られるのか、今から楽しみだ。

いろいろと言葉を探したけれど適切な表現が見当たらないので単刀直入に一言だけ。私はヤマサキセイヤの弾き語りが好きだ。機会があれば、ぜひこれからも聴かせてほしい。

キュウソネコカミは意図的なのか偶然なのか一体なんなのか、今まで体験したことのない場所へ連れて行ってくれる。単に好きなだけなのに、アンテナが低く吸収力も劣化し切った自分には、そうやって引きずり回してくれることがありがたい。

”喜怒哀楽の中でも、私の場合は意識的に「楽」に重きを置くことが多く、特に笑いに関する感覚が合うかどうかは価値観のバロメーターでもある。”

これからも大いに揺さぶってください。

【温故知新】古いこと、昔のことを研究して、そこから新しい知識や道理を見つけ出すこと。

小学館/デジタル大辞泉

【不易流行】伝統を踏まえつつ、一方では新しいものを取り入れることが大切だとする説。

四字熟語を知る辞典

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