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自分が自分の「お母さん」になる

 わたしは、「お母さん」かも知れない。
 年とともに「お母さん」に近づいていると思う。

 子どもが幼少のころから、育児・家事を分担し、子どもが保育園に行くようになってからは、送迎や父母会の会長もやった。

 恥ずかしながら、子どもが生まれる前はダメな奴で、家事を率先してやることがなく、妻にこっぴどく叱られた。そのおかげで、家事のために体が動くようになった(この時はまだ家事は半ば義務みたいに感じてた)。

 もともと妻は男勝りで運動系、私は引っ込み思案でインドア派。

 先日、テレビで稲垣えみ子さんが映っていた。彼女については、今更紹介する必要はないと思うが、最近新刊本が出たり、テレビのあさイチに出演したりして、再度注目されてきている。

 番組の中で稲垣さんが大事なのは、「自分が自分の『お母さん』になる」こと、と言った(と思う)。

 このことばを聞いて、なるほどと思った。

 「お母さん」とは?

 古い社会や気候が暖かい国では、たいてい男はボーッとしていて、家事などは「お母さん」がやっている。

 確かに家事は長時間労働で大変な負担だ。でも、何もしない男たちは生活する力を徐々に喪失し、寄生するしか選択はなくなる。それは年を取るに従って、悲劇にしかならないように思う。
 
 その点、「お母さん」は自立している。家族の世話までしている。

 稲垣さんのメッセージは、つまりこういうことかな。

 みんな「お母さん」になろう! 自立しよう。

 
 稲垣さんの生活は、行き過ぎた大量消費社会への問題提起だと誰もが思うだろう。そして、新しい生活様式の提案という意味があるのだと。

 確かに、「モッタイない」という、かつての日本にあった考え方。

 わざと「不便」なことを生活の中に取り入れることで、逆に人間の潜在能力が回復させるという「不便益」という提案。これは心身の「野生化」という意味もあり、

 利益や発展を目的にがむしゃらに努力するのではなく、自分が納得できるかどうか、いろいろ試してみる方が、不確実な時代に対応できるのではないか、という「ウェルビーイング」の考え。

 こうした潮流と稲垣さんの生活は実にマッチしている。

 また、こんまりさんの「片付け」というコンセプトにも近いかも知れない。

 でも、モノを減らすだけが目的ではない。稲垣さんの生活はもっと、もっと深く、根源的な価値を持っているように感じる。

 まず、都市部に暮らしながら、「自然に親しむ」ことができるということ。日の出とともに起き、野菜を日干しすることで、太陽にお料理の手伝いをしてもらう。ベランダでサラダなどの野菜を育てる、などなど。「持続可能な社会」への道という意味もあるが、まずは人が「自然と親しむ」ことで得られることの楽しさや豊かさを重視したい。

 また、心身の「野生化」が進む。これはさっきの「不便益」とも関わるが、人間が本来持っている生物としての生きる力を復活させることができる。家事を「外注化」することは、一見、生活が楽になっているようだが、人が無能化していくプロセスでもある。無くてもいい家電製品はとても多いのではないか。

 そして、最後に「煩悩が変わる」。物欲、食欲、出世欲…。人間が欲望から自由になるのは難しい。欲望が「小さくなる」のかどうかはわからない。
でも、「煩悩」の中身が変わっていくような気がするのだ。お金があっても得られない豊かさがあることは誰もが承知している。

 究極、誰かの役に立っている。誰かに頼られている。誰かと楽しく会話する。こんなことが心の豊かさをもたらしてくれる。

 「お母さん」は世話好き

 「お母さん」は懐が深い

 「お母さん」は身の丈サイズの暮らしが楽しい

 ここまで書いてきて、生活力が高くて、出世欲・物欲がほぼゼロの妻も「お母さん」の要素をたくさん持っていることに気が付いた。

 自分で言うのも何だが私は料理が得意で家の中が好きで、出世欲が少ない。でも、スウィーツに目がないなど、文明的な煩悩にまだ振り回されている。

 まだ「お母さん」になれていないような気がしてきた…。


 

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