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フェリカとQRコードの国境はどこにある?**深センで夕食を。

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香港に住む日本人の知人が、こんな話を聞かせてくれた。時折、地下鉄に揺られて深センまで出かけるのだという。買い物や仕事に出かけるのではない。夕方、仕事を終えてから、ふらりと晩御飯を食べるために深センへと向かうのである。香港市街地の北部にある九龍塘駅で乗り換えて、北辺にある羅湖駅まではそれほど遠くない。羅湖駅にはイミグレーションがあって、国境を越えられる。検査官に入境目的を聞かれると「ジャスト・フォー・ディナー」と答える。これだけで簡単に通してくれる。国境を越える知人の服装はといえば、短パンにサンダル、ポケットには携帯とお財布とパスポート。まるで近所の屋台にでも出かけるような軽装である。

香港の人たちは、日本製のフェリカを日本人よりも長く使ってきたベテランユーザーである。地下鉄の交通カードとして導入されたオクトパスカード(八達通)は、日本で交通系電子マネーが導入されるよりも早くから使われていた。香港での安定運用の実績があったからこそ、日本でのフェリカ電子マネーの導入が実現したという見方もある。交通系カードを想定して輸出された日本製の技術は、カードをタッチするだけで支払が済むという性能を発揮できる場所であれば、交通に限らずあらゆる場面に拡張されていった。地下鉄を通勤・通学・買い物に利用する香港のユーザーにとっては、たいていの交通機関でオクトパスが使えるようになれば便利である。トラムやフェリー、空調バスの大半で利用できるが、タクシーではごく一部しか利用できなかった。それが2018年4月からは、ようやく一定数のタクシーでも試験的に利用できるようになったという。

OctopusCard accepted

いくつかの都市において、交通カードがタクシーで利用できるようになったのは、普及が十分に進んだ後のことであった。わざわざ手数料のかかる方式を導入するのであるから、事業者よりも利用者の要望が上回ったことを示している。利用者数と店舗数は卵とニワトリの関係だといわれるが、利用者数がクリティカル・マスを越えたことを示す指標の一つかもしれない。

これとは対照的に、後発のQRコード決済にとっては、むしろタクシーが主たるターゲットであった。香港のタクシーのドア広告には、中国系のQRコード決済のロゴが大きく貼られている。だが、現実はそれほど簡単ではなかった。オクトパスカードに慣れた香港のユーザーにとっては、わざわざスマホのアプリを立ち上げてQRコードで決済するというのは、簡単な決済手段には映らないらしい。QRコード決済よりも、オクトパスをそのまま使えたら便利なのに、という声がよく聞かれる。まるで、日本の電子マネーユーザーのようなコメントだ。かくして、オクトパスでタクシーに乗車するという長年のリクエストは、ようやく実現に至ったところだ。

HK New Territory

さて、話題を元に戻そう。今日の本題は夕食の支払いである。ここ、深センの飲食店ではオクトパスカードは使えない。中国の主要都市の多くがそうであるように、QRコード決済しか使えない。もはや紙幣は消滅へと向かっている。とりわけ深センは、ウィーチャット・ペイを運用するテンセントの本拠地である。この街で、ローカル色の濃い店で食事をするならば、テンセントのアプリは欠かせない。QRコードなくして夕食なしである。

では、香港の人たちがウィーチャット・ペイを当たり前のように使えるかというと、そうではない。大陸側の銀行口座と紐づけるのであるから、普段は香港で暮らしている人たちにとっては縁がない。それでも大陸に出かける香港人には必要であるから、アリペイやウィーチャット・ペイに必要な口座を開設するために深センを訪れるツアーも組まれているという。

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Over-viewing Shenzhen from Hong Kong New Territory

冒頭に登場した日本人の知人は、アリペイもウィーチャット・ペイも持っていない。彼の財布に入っているのは、オクトパスカードだ。このままでは注文ができない。彼の見つけた解決策は、香港に住んでいる大陸出身の友人たちを夕食に誘うというアイデアだ。広東語の日常会話をマスターしている日本人ならば、香港のお店では自在に注文することができる。だが深センでは、北京語が話せないと注文は叶わない。決済と言語という二つの壁を越えられるのは、大陸からやってきたQRコード・ネイティブの人々だ。

たまには故郷の味を楽しみたいという友人の助けを借りて、彼は無事に深センの夕食を楽しむことができる。香港育ちの友人を誘ってみたところ、深センの料理はたいてい辛いから自分には無理だと断られたという。それに、アリペイやウィーチャット・ペイも持っていないしね、と。

Sun Set New Territory

わざわざスマホを開いてお金を払うのは面倒だという香港の人たちと、生活のすべての場面でQRコード決済を利用するのが当たり前の光景となっている深センの人たちと。近くて遠い二つの街は、キャッシュレス決済の未来を占う2つの方式が交わる、世界の最前線なのかもしれない。

Hong Kong Express Road

Photos by H.Okada in Hong Kong